放課後の教室。カバンを肩にかけた遥が窓際に寄りかかっていると、日下部が当然のように声をかけてきた。
「帰るぞ」
「……別に、一緒に帰んなくてもいいだろ」
「いいじゃん。恋人だろ」
平然とした口調。
その一言で、クラスの空気がほんの少し揺れた。
誰かが振り返り、誰かがヒソヒソと囁く。
遥の胃がきしむ。
“普通のカップル”なら当たり前にやること。
だが自分たちがやれば、それは視線を集める。
「見られてる」――その感覚が、遥を締めつけた。
「……やめろよ、そういうの」
声が低くなる。
「おれらが普通みたいに見えねえの、わかってんだろ」
日下部は肩をすくめる。
「見えなくてもいい。俺らがそうなら、それでいい」
――簡単に言うな。
遥は喉の奥でそう呟きかけて、飲み込んだ。
自分にとって「普通」がどれだけ遠いか、日下部には伝わっていない気がする。
いや、伝わろうとしないだけかもしれない。
けれど、帰り道。
何もなかったように隣を歩く日下部の歩幅が、遥に合わせられていることに気づく。
そのささやかな「普通」が、痛かった。
夜。
家に帰って、ベッドに沈み込む。
スマホが震える。
画面に映るのは日下部からのメッセージ。
「今日の帰り道、楽しかった」
短い文。
何でもないやりとり。
――でも、遥にとっては地獄だった。
楽しかった、なんて。
自分は笑えていなかったのに。
日下部の横で、まともに会話もできなかったのに。
「……バカじゃねえの」
呟いてスマホを伏せる。
目の奥がじわりと熱い。
壊れそうなのは、きっと“普通”のほうだ。
自分が触れた瞬間、必ず壊す。
そんな思い込みが、遥をまた夜の闇に沈めていった。
校門を出て、雑踏の中を歩く二人。
日下部は変わらず、無理のない速度で歩幅を合わせる。
声も態度も、いつもと変わらない。
その「普通」が、遥には重くのしかかる。
誰にも見せたことのない弱さ。
自分を傷つけることでしか存在価値を確かめられなかった日々。
それを、ただ傍にいるだけで肯定されているような――。
「……ふざけんなよ、なんで……」
膝を抱えたくなる衝動を抑えながら、思わず呟く。
日下部は振り返らず、ただ横で歩き続ける。
だが、背中の視線が、肩越しに届く。
軽く手が触れる。偶然でも、遥には重く、暖かい。
「……くそ……」
言葉に出さずとも、胸の奥で小さく揺れる。
ダメだと思いながら、ほんのわずか――
「触れられてもいいかもしれない」と、心の片隅が囁く。
その自分の反応に、また自己嫌悪が戻る。
「なんで、こんなふうに思うんだ……」
足取りは揺らぎ、胸はざわめく。
日下部の“普通”は、痛みと安堵が交錯する場所になっていた。
そして、遥はまだ目を合わせない。
けれど、心の奥で、少しだけ日下部を確かめたくなる自分がいる。