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夕暮れの空が街を染め、通りはゆるやかに人々で賑わっていた。遥は日下部の隣を歩く。手をつなぐでもなく、肩が触れるでもなく、ただ同じ歩幅で並ぶだけ。
それだけで、心は張り裂けそうになる。誰にもこうして見られることのなかった、自分の存在が、確かにそこにあることを知らされるようで――。
「……こんなの、耐えられねえ」
小さく呟くと、日下部は振り返らず、ただ穏やかに笑った。
その笑顔に、怒りや軽蔑はなく、ただ“いる”ことが自然な顔をしている。
途中で、日下部は小さなベンチに誘った。
遥は一瞬ためらう。座れば、目の前の通行人から見えるのが怖い。
でも日下部は、無理に手を伸ばさず、隣に座るだけ。
沈黙が流れ、遥は自分の呼吸だけが響くのを感じる。
「……なにこれ、普通すぎて逆に耐えられねえ」
胸の奥が痛む。怒りでも悲しみでもない、得体の知れない感覚に押し潰されそうになる。
そのまま歩きながら、日下部は途中でアイスを買った。
遥は、いつもなら誰かに奪われるのを恐れていたかもしれないものを、ただ目の前にあるだけで許される感覚に戸惑う。
「……くそ、なんで……」
口元をゆがめ、アイスを眺めるだけで心がかき乱される。
街角の小さな公園に寄った。ブランコは二つ、並んで揺れる。
日下部は何も言わず、遥の隣に座る。
遥は無意識に肩を震わせる。心の奥で、誰にも許せなかった“普通の触れ合い”が、こんなにも重く、痛く、そして少しだけ心地よい。
夜空を見上げれば、ネオンの光が星と交じり合う。
日下部は言葉少なに、でもしっかりと隣にいて、ただ一緒に景色を眺めるだけ。
その“普通”が、遥には試練のようで、しかし確かな安堵でもある。
歩道のカフェに寄り、二人は窓際の席に座った。
遥はメニューを前にしても、言葉が出ない。日下部は注文を済ませ、何事もなかったように静かに笑う。
“普通”すぎて、逆に怖い。
「……おまえ、なんでこんな普通にいられるんだ……」
思わず零れた声に、日下部は軽く肩をすくめ、笑いを抑えた。
「普通って、特別じゃないから難しいんだよ」
その言葉の意味を、遥はまだ全部理解できない。けれど、胸の奥で何かが少しだけ揺れる。
帰り道、細い路地を抜ける。街灯はまばらで、二人の影だけが伸びる。
日下部は言葉を選ばず、ただ並んで歩く。
遥は膝を抱えたくなる衝動を抑えつつ、心の中で葛藤する。
「……おれ、これでいいのか……」
愛されることが、性的なことや支配とは別の形で存在するかもしれないと、少しだけ考える。
だが、揺れた心はすぐに自己嫌悪に引き戻される。
「……くそ、どうせまた壊すんだろ、おれ……」
日下部の優しさは、痛みを伴いながらも、遥を壊れさせずに受け止めようとしていた。
そして、遥の胸の奥で、ほんの小さな希望の芽が顔を出す。
公園を抜け、夜風に肩を震わせながら、遥は日下部の存在の重さと安定に、初めて“心を預けるかもしれない”という感覚を覚える。
まだ完全に受け入れられるわけではない。
でも、少しずつ、日下部の与える普通を耐え、向き合う覚悟が芽生えていた。