テラーノベル
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丘を下りる道は、細かった。足元の土は湿っている。
風は弱まり、霧が低く流れていた。
川の音は、さっきより近い。
ホームズは歩みを緩めなかった。
私は半歩遅れてついて行く。
やがて、人影が見えた。
ユアンだった。
川の方を向いて立っている。
こちらには気づいているはずだが、振り返らない。
私たちは、少し離れて止まった。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
水が石に触れる音だけが続く。
ホームズが口を開いた。
「歌は、短くなっている」
それだけ言った。
ユアンは動かなかった。
「四つ目が、抜けている」
風が、わずかに草を揺らした。
ユアンの肩が、ほんの少しだけ上下した。
それでも、振り返らない。
「返す、という言葉があった」
ホームズの声は低かった。
「古い形だ」
沈黙が落ちる。
私は、ユアンの背を見ていた。
動かない。
ただ、そこに立っている。
「川は、持っていく」
ホームズが続けた。
「名も、声も」
言葉は短く切れた。
その時だった。
ユアンの手が、わずかに動いた。
指が、石の表面をなぞる。
「……違う」
小さな声だった。
風に消えそうなほどに。
ホームズは何も言わない。
ユアンは続けなかった。
だが、沈黙の形が変わっていた。
「持っていかれるんじゃない」
やがて、ユアンが言った。
声は低く、抑えられている。
「戻るんだ」
私は顔を上げた。
ホームズは動かない。
「ここに」
それだけだった。
ユアンはそれ以上何も言わなかった。
ゆっくりと振り返る。
表情は、いつもと変わらない。
だが、目だけが違っていた。
何かを見ている。
あるいは、見続けている。
私たちの方ではない。
川の方でもない。
どこでもない場所を。
「……散歩ですか」
ユアンが言った。
穏やかな声だった。
ホームズはうなずいた。
それ以上は何も言わない。
しばらくして、ユアンは視線を外した。
また川の方を向く。
風が戻る。
水の音が、少し強くなる。
私は何も言わなかった。
ホームズも、何も言わなかった。
ただ、その場に立っていた。
川は変わらず流れている。
だが、先ほどとは同じには見えなかった。
橘靖竜
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