災害の復旧には梅雨時も重なり、一ヶ月ほどの必要だった。
当時は2階というよりも、屋根裏が2階というような造りの家屋が多かったのもあるが、家電製品などは殆どが駄目になって、その片付け、泥水の清掃などである。
その復旧の初めに、わたしなるニ歳児は親戚の家に預けられた。
母の出産予定日は8月。このまま出産まで入院することとなり、また、その家庭において、復旧作業にわたしほどの邪魔者は存在しなかっただろう、思い返せば当然のことである。
また、営業権等に関する保険が存在したのか、それによる損失補填等があったのであろう、これは予測でしかないが、災害前よりかえって家電製品は立派になっていた。
8月中旬、母は無事に出産した。立会は父と兄、私は依然として親戚の家に預けられたままである。産まれた赤ちゃんは男の子であった。これで、男三兄弟となる。
父はとにもかくにもホッと胸をなでおろしている様子である。
兄は新しい弟の誕生ということでとても喜んでいる。
母はどうであろう。
母は少し目が座っている様子である。赤子を誰にも渡さないというような素振りを見せている若干獣が子を守るような素振りを見せるところがあったようだ。
同時期のわたしなる二歳児は、親戚の家にいる。ここは、母の兄夫婦と母の母、つまり母方のお祖母ちゃんの家である。
ここでの生活で私の面倒を一番見ていたのはお祖母ちゃんだったらしい。粉ミルクをせっせとつくり、しっかり着替え、入浴させていた。
それには、その私からする伯父夫婦にも私と年齢を同じくまた産まれた月も一ヶ月しか違わぬ赤子がいたからである。
ただ、違う点は赤子は女の子であった。それだけが救いだったのかもしれない。いまの私の偏見ともいうべき感覚であるかもしれないが、その児が男児であればその家の跡取りとしてお祖母ちゃんも私のことなど気にもとめなかったかもしれない。
また、伯母のお腹にも二人目の子がおり、ほぼ同じ2歳児はほぼ差別なくお祖母ちゃんに育てられた。2歳児の私にはもっとも良い居場所であったであろう。何故なら預けられた時にすでにアザが数カ所あり、隠れて病院にも連れて行ってもらって外傷は癒え、体重もふえたのだ。
母が退院し、私の迎えがきた。
弟をつれ、母にとっては実家である。
弟を、風通しの良いとこへタオルケットかけて寝せて、お祖母ちゃんはわたしを守るように私の背中から抱きこむようにすわり、足を崩している母と仏間で話す。
「あんた、無事でよかったばってん、とうや(私)はどけんするつもりね?、知っとると思うばってんが、アザだらけやったたい。あんた向こうの家でどげんか生活ばしよっとね。そう(兄)は向こうの家じゃあ初孫やけんが、さぞ大事にされたろうばってんが、とうやばみてんね?こん子はちっとも笑わんよ。瑞(みず:同い年のいとこ)ばみてんね。こげんよ〜動いて笑ろうて動き回るばってんが、こん子は、ちーとん動かんし笑いもせんが、大丈夫とね?」
母はもっとも言われたくないことを言われてバツが悪いのか黙ったままである。
お祖母ちゃんは続ける。
「大事にしきらんとやったら、私が面倒見るけんね。わかっとっとね?」
次第に強く大きくなる口調。
そこに、伯母が割ってはいり、こちらもいきなりの大声が走る。
「何言ってるんですか、お義母さん、うちもいまから子が生まれるんですよ。誰が面倒見るんですか。家では見れませんよ。そもそも今回だって、、」
「ごめんなさい。」母がことばをとめる。
瑞が大声に泣き出している。私はというと泣きもせずただキョトンとしてた。
「これからちゃんとしますから、うちでちゃんと育てますから。今までありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。」
母は、伯母のほうにやや向いたかたちで正座をして頭を下げる。
伯母が瑞をあやしてその場を去っていく。
母は、頭を下げたまま泣いていた。
「向こうのお祖母さんあれはなんね?ちょっとおかしかよ。孫ならどげんしたっちゃかわいかろうもん?そうにもとうにも当たり方がおかしかよ?あんたなんか隠しとろうが?」
お祖母ちゃんは、母の母になっていた。
「何でもないの、お母さん心配かけてごめんなさい。」
母はかすれるほどの小さい声でそう答えた。
まだ頭を下げたままである。
ひととき時間が、ながれたのか、私はお祖母ちゃんにだきこまれたまま眠っていた。
まだ夏の最高気温が30度を超えることが珍しい時代の9月上旬であった。
そして、自宅での父方の両親との生活に新しい赤子が加わり再びはじまり、私という存在はまたも特異な立ち位置に戻るのです。
「2歳冬編」に続く 更新は少しかかります。