コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「坊主! どうした?」
泣きじゃくる男の子が、男に声をかけられた。暗がりでよく見えない。
男の子はハァハァ言いながら、暗くてハッキリ見えない男を恐る恐る見た。ブルブル震えながら、ただ頷くことしかできない。とにかく大男に見えた。
「どうした! 迷子になったか!」
男の声は曇った低い声で、掠れてはいたが暗がりの先まで響いた。周りは暗い森の中、大人でさえオシッコを漏らしてしまいそうなくらい怖くて震えてしまう。
「お父さんとお母さんから逸れたか?!」
「……お父さん……」
男の子は、泣き声で小さく言った。
「そうか! 家まで連れてってあげるよ! その代わりに約束だ! 大きくなったら、困った人を助けてあげるんだぞ!」
男の子は涙を拭って、「うん」と、頷いた。
「約束だ!」
大男は、小指を差し出した。男の子はその小指を見て驚いた。でっかい手だけはハッキリ見えた。化け物か! と思った。
男の子はドキリとしたが、「指切りげんまんだ!」と、優しい声に促されて、小さな小指を出して指切りをした。
「約束だ……」
大男は低い声で言った。
男の子は、震えて頷いた。
「それじゃ、目を瞑ってごらん」
一瞬で気が遠くなった。
「三浦和彦だな! 強盗殺人の容疑で逮捕や」
アパートのドアを押し開けて、三浦和彦は逃げようとした。
門田洋介は、逃げようとする三浦の手を握り手首を折り曲げた。逃げようとする勢いと、折り曲げられた手首の関節技で跪いて、三浦は倒れ込んだ。相棒の古谷匠が、膝頭で倒れ込んだ三浦の首を押さえこんだ。
門田が、手錠で一発頭を咬まし、「俺たちゃ、おまえが殺した田中真希枝さんの仇討ち請負人だ! 八時三十八分、三浦和彦、強盗殺人容疑で逮捕や!」
「俺は知らねぇー」
「人殺しはいつもこれだ。話は署で聞くぜ! 言っとくが、俺は警察の閻魔大王って言われてんだ。容赦しねぇぞ!」
“いつもの決まり文句”
相棒の古谷が、また始まった! の呆れ顔を見せた。
「よくもまぁ、女の子をいたぶって殺めて、私はやってませんとか、よく言えたもんだ!」
門田洋介は取調室で、容疑者三浦和彦に顔を近づけて、唾を飛ばしながら罵った。
「やってねぇもんは、やってねぇんだよ!」
三浦は、顔を真っ赤にして門田に食ってかかった。
今度は、三浦の真向かいの椅子に座り込んで、ふぅーと息を吹き出して顔を抱え込んだ。
「おまえ、親はいんのか?」
「なんだそれ、泣き落としのつもりか」
三浦は血相を変えた。
「その手に乗るか‼ やってねぇんだから、そんな手は無駄だよ!」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
門田は嫌みな顔を見せ、頭を掻いた。
「面倒くせえけどな、おまえの親兄弟まで調べなきゃならないんだよ」
門田は、三浦を突き放すように、面倒くさそうに言った。
「何だと、親も兄弟も関係ないだろう!」
三浦和彦は顔を赤くして、ムキになって言い返した。
〈おっと!〉
門田の耳の奥のアンテナが、キャッチし始めた。
〈乗ってきやがった〉
含み笑いを見せた。
「それが関係あるんだよ。俺にとっちゃ、おまえを強盗殺人で検挙できたって、手柄にゃならないんだ。おまえが、女子大生の田中真希枝さんのアパートに入り込んで強盗して、挙句の果てに首を絞めて殺した。ついでに部屋にあった金まで盗んだ。これをおまえがやったと、ここで自供をとったところで、松山署の功績になるだけで、一課の強行犯には当たり前のことで、俺にはくたびれ損ってやつやで!」
門田はため息をついて、飽き飽きした顔を見せた。
「おまえに纏わる人間を調べて、炙り出して検挙した方が手柄になるんだ。これがよく出てくるんだ。おまえみたいな極悪非道な男は、周りの人間も腐ってることが多いからな。これで俺は出世してきたんだ。おかげさんで、三十の若さで係長だ。この調子で行きゃ、五年もしないうちに、どっかの刑事部長だ。どうでもいいんだよ、おまえが自供しようがしまいが俺には関係ない。もういいぞ! どうせ、おまえは有罪になる。世の中甘くねぇぞ。証拠は出てんだ。裁判じゃ有罪だ」
門田はここでため息をついた。
「ふぅー」
“せいぜい頑張りな!”の澄ました顔をした。
「おまえみたいに逃れようとする男は、情状酌量の余地なしで極刑だろう。まぁ、ここで粘ってろ、俺の取り調べは終わりだ。後は部下に任せて、おまえの周りを叩いて、埃を出して検挙するわな。ここで失礼するぞ!」
三浦は、刑事の詭弁に乗せられて堪るかと思ったか、自分のために親兄弟まで叩かれ、隠れているものが浮き出て、検挙されるのを恐れたのか、黙って門田の話を聞いていた。
門田は立ち上がって、連れの白石刑事にバトンタッチした。
門田洋介は、今年三十一歳になる警察大学校を出たキャリア組の一人だ。警視庁管轄の交番勤務を二年経て、警視庁捜査一課で任務を果たしたのち、福岡県警北九州地区の、全国に名だたる暴力団の街を受け持つ、小倉北署組織犯罪対策課第一係に配属された。キャリア組だが、元々は出世より、市民と触れ合い弱者を助ける、そんな人間に憧れ警察官になった。生まれも育ちも愛媛県の松山市で、今年の人事異動で、地元松山市警察署刑事一課強行犯係に配属された。
通称“落としの大門”。いつの間に門田が大門になったかは知らないが、その異名は、全国の警察官が欲しがる無言の勲章だ。
その名を決定づけたのは、小倉北署に配属され組織犯罪対策課第一係にいた時のことだ。難攻不落とまで言われていた九州ヤクザ、道門会が起こしていた十二件の未解決殺人傷害事件を、関連あると思われる組員たちから自供に追い込み、犯人逮捕まで、僅か二年ですべて解決に導いたのだ。長いものは、十年以上未解決のものもあった。
犯行は、道門会の仕業であることは分かっていたが、道門会の“血の結束”は凄まじかった。それを僅か二年の間で、組員から自供を引き出し、“血の結束”を打ち砕いた。
誰もが驚いた!
道門会の市民に対する威圧的事件が多発していたが、お礼参りを恐れるあまりに、警察への被害届、情報が狭まれ、警察の検挙率が一気に低下していたのだ。そうなると、すべてが悪循環となる。暴力団担当の刑事まで襲われるという事態まで起こった。さすがに警察庁も威信をかけ、各警察署から応援を出した。その一人が、警視庁から人事異動を兼ねて、小倉北署に配属された門田洋介、と言う訳だ。
キャリアに実績を積ませる。それも警察庁の狙いだが、実は、彼の警視庁での実績が物を言った。
二年間の交番勤務の間、幾つもの家出少年や少女の居場所を突き止め、家族の元へ連れ戻した。その件数は二十四件にも及んだ。その後、五年間、警視庁エリート“SISmpd”の金文字が入った赤バッチを胸に付ける、捜査一課強行犯第三係に配属された。キャリアだけに、出世コースを歩むのは当然のことだが、配属されて、警視総監もいた任務就任挨拶で一発咬ました。
「こんなバッチを誇示するより、犯罪者を捕まえることが我々の任務であります。一人でも多く犯罪者を検挙すること。これこそ誇りである!」
大講堂で、笑いを堪える者、偉そうにと侮り、揶揄する者が数多くいた。しかし、それが三年もしないうちに、妬み、やっかみ、嫉妬者へと変わっていった。
門田は、解決不可能と言われていた五件の難事件を、時効前に犯人検挙、目の前に表れる強行犯罪をことごとく解決した。不可能とされた難事件の中でも、新宿で起きた雑居ビル放火事件は、物証も皆無に等しかった。犯人が自首でもしなければ解決の見込みなし、との白旗を挙げた桜田門を、マスコミは好き放題揶揄して迷宮入りした事件だ。何十人という人間が焼け死んだ悲惨な犯行だった。物証に辿る物は何もない。捜査本部は置かれていたが、名ばかりだ。捜査の術がない。遺族のために格好だけはつけて、実像のないのが実態と言えた。
「何が選ばれた捜査一課だ! バッチが泣くぜ」
門田は暇を見つけては、事件当日、周辺に設置されていた防犯カメラと、最近撮られた防犯カメラの映像を半年間見比べ、当日いた人物と犯人は必ず現場に戻る! を信じて、“ミアタリ(見当たり捜査)”を行なった。同じ人物を特定し、さらに現場で同一人物を発見する、気の遠くなる、雲を掴むより難しい地道な捜査だ。
誰もが失笑した。
「そりゃ、超能力でも無理だ」
「ふん!」
門田は忍び笑い、何もしないで威張り散らす刑事たちを憫笑した。
「情けない連中だ……」
そんな難事件の容疑者を、あっけらかんと検挙し、その日のうちに自供させた。
驚くべき新宿放火殺人事件の解決に、マスコミは警視庁を絶賛した。門田は警視庁のみならず、全国の警察官に、“落としの大門”の名が知れ渡ることとなった。
「閻魔さん。おっと、門田係長、三浦が呼んでまっせ」
門田は、面倒くさそうにパソコンを打つ手を止めた。
「来たか!」
「そのようで」
部下の古谷匠が、いつものように呆れ顔で門田を呼びに来た。
“閻魔さん”は、この部署で、古谷たちが付けたあだ名だ。警視庁から小倉北署まで、警察泣かせの事件をことごとく解決してきた経歴から付けられた。
古谷たちノンキャリアから見れば、門田には一線引く壁があって、親しさを求めるのは難しい。見えない透明なガラス張りがあるようなものだが、そこのところは、門田が取り除いているようだ。古谷匠は、門田より三つ年下の二十七歳、血気盛んな男だ。門田は上司だが、兄貴分のように慕っている。愛媛県今治市生まれ、市内の高校出身で、警察学校を出て交番勤務を経験し、憧れの刑事になった。
「よし、行こか!」
古谷を引き連れ、取り調べ室へと歩を進めた。
「もう落ちそうですね」
さっき見せた呆れ顔と同じ顔をした。
〈どうしたら、ここまでその気にさせるんやろ……〉
その呆れ顔は、いわば尊敬を超える。“俺には無理だ”の呆れ顔だ。そうは言っても、“この人のようになりたい!”という思いは、他の刑事より何十倍も高い。
三浦のいる取調室のドアを勢いよく開けた。もう一人の相棒刑事、津田庸平が取り調べていた。津田は、五十二歳になる刑事歴二十二年のベテランだ。
「閻魔さまが来たぞ」
そう三浦に言い、津田は椅子から立ち上がりながら薄ら笑った。
「おやじさん、ご苦労さまです」
「どういたしまして。いや、こいつがね、さっきの太々しいデカ呼んで来いって言うもんで……」
津田は、門田の前で何回も首を振って、当たってますな! の表情をした。
「そんなに太々しいか?」
門田は、太々しさを思いっきり三浦の顔に近づけた。
「容疑者にそう思われて、一人前のデカですよ」
褒めてるのか、からかってるのか分からなかったが、「さすがおやっさん、いいこと言いますな」と、三浦に近づけた顔に人差し指を立てて、ニコリとしておやじさんこと津田庸平に言った。
「ところで三浦!」
また顔を近づけて、憎たらしさ満点の顔を見せつけた。
「何の用だ!」
「近すぎる……」
三浦は、手のひらで顔を遮った。
「相変わらず憎たらしい刑事や」
「おまえのような人殺しに、俺の生き様をゴタゴタ言われたくないんだよ! 俺は、おまえが苦しめて殺した、真希枝さんの仇討請負人だと言ったろ! おまえが一番苦しむことをする。これが現代の仇討なんだよ! さっきも言ったろ、おまえはどっちにしろ刑務所だ。おまえの母親は香川県の坂出に住んでんな。それとおまえを匿った男、鈴木昭雄か、今調べてるとこだ。おまえの周りの人間は皆捕まえる。分かったか! 分かったら引き上げる。じゃ、そこで頑張ってろ!」
歯に衣着せぬ物言いは、三浦に一言も喋らせなかった。
「ま、待て……。ふざけた野郎だ」
「なんだと!」
「わ、分かった! 今のは撤回する。全部白状する……。するから、母親や兄弟だけは手を出さんでくれ!」
三浦は、泣きつくように言いだした。
門田は、はぁーとため息をついた。
「あのな、手え~出すって、俺はヤクザじゃないんだから」
半分惚けて言った。
また戻ろうとする門田の腕を掴んで、「とにかく自供するから、他のもんには手を出さんでくれ!」と、懇願した。
掴まれた門田は、振り向いて三浦を見て、思いっきりため息をついた。
「ふぅー、だから、手え出すとか、やくざ屋さんじゃないって言ってるだろうが。まぁ、いいか。よし白状しろ。勿体ないが、おまえがそこまで言うなら俺も鬼じゃねぇ。その条件、おまえが刑務所に入るってことで受けよう」
微かに笑い声が……。その場で立って聞いていた、津田庸平だ。
〈鬼ねぇ、刑務所に入るねぇ、まんまと乗せられやがった〉
津田は呆れ顔だが、神業のように落とす門田の凄さはここからだ。門田の行くところ、検挙率が大きくアップする。神の舌、ペテン師、閻魔さま、捜査の神。すなわち、“捜神”と言う者まで現れた。妬む者が現れそうなものだが、凄さに驚くばかりで、妬まれる隙間さえ出てこなかった。
「よし、俺も腹を決めた。おまえがそこまで言うなら、おまえのブレーンを調べるのは止めよう……」
門田は座り込んで、小指を突き出した。
「指切りげんまんや!」
三浦に、手を出せと言った。
「俺は自白させるときは、必ずこれやるんや。少しでも人間らしくなってもらうためにな」
三浦は呆気にとられた。いやいやだが、小指を突き出した。
門田は、その小指に自分の小指を繋いだ。
「指切りげんまんや、嘘つくなや。針千本飲ますで!」
また始まった! 隣で津田は、〈この男、本当に刑事かいな? 極悪人に指切りさせるか!〉と、自分で自分に問いかけて笑った。
三浦は、門田の手を見て驚いた。
〈なんて、でかいんだ!〉
そう思うと、一瞬気が遠くなった。
気づくと、十年以上前の神戸で起こした事件を思い出していた。暗い夜道を歩く女子大生を拉致して、車の中で強姦して殺したことを、泣きながら喋りだした。
「首を絞めて殺した……」と、門田の顔を見ながら震えた。
「それで、死体はどこに隠した?」
「昔、住んでいた借家の床下に埋めた……」
「どこや、それは?」
「香川県坂出市にある」
「住所を教えろ」
「坂出市〇町〇番地だ」
「いつまで住んでた?」
三浦は、今起こした強姦殺人の自供を仕方なくしたばかりだ。三浦本人が固く禁句として、墓場まで持ち込みかねなかった犯行を、スルリと述べだした。トントン拍子に進む。
〈こいつ、催眠術でもかけられたか?〉
そう思わずにはいられない。津田の目は、門田と三浦に向かって交互に忙しく動き、口は開いたままだ。
「まだあるな……」
門田はタバコを銜え、愛用のZippoで火を点けた。取調室は禁煙だが、門田は昔流だ。震えて喋る三浦に、火を点けたタバコを差し出した。
三浦は、震える手でそれを受け、急いで口に持っていき、思いっきり毒なる煙を吸い込み、ブルブル震えながら一服目を吹き出した。
「どうだ、少しは落ち着いたか」
隣の部屋でマジックミラー越しに、一課長の国貞守と古谷匠が成り行きを見つめていた。
「あいつ、堂々とタバコなんか吸わせやがって。可視化されてんのやで。強要されたとかで、裁判で咬まされたら、松山署が潰されちまうで」
「そりゃ大丈夫ですよ。係長の落とした事件で、裁判を覆した奴はいません」
思わず国貞は古谷を見た。
「俺、調べたんですよ。係長が、“落としの大門”とか、“閻魔大王”とか言われてる所以をね。どうやって犯行を自白させてんのか興味があって、過去の落とし事件、何十件ってあるんですけど、どうなってんのか全部調べて、俺自身ドキリとしましたよ。すべて覆すことなく、有罪判決が出てます。ただ、量刑がきつすぎて上告してるのは数件ありますけど、あとは実刑が確定しています」
「それは驚きだな……」
国貞の血の気が引くのが分かった。
「恐ろしい男だな。こんな取り調べもキャリアでなきゃ許されんわな」
「課長、私は、キャリアがこんな昔流のアナログのような取り調べする方が不思議ですわ。私は、この人、本当に閻魔さんの生まれ変わりじゃないかと思う時があります。係長の部下になって、強盗殺人一件、強盗三件、強姦殺人一件扱いましたけど、すべて検挙して、よくかかっても三日間で自供ですわ。それに、過去に犯した事件も、今回みたいに自白するんですよ。課長もよく知ってるでしょうが、今年になって強行犯三係の検挙率は、二百%超えてるんですよ! 過去の迷宮入り事件を、こいつら自身から吐かせてる。神の舌じゃなくて、閻魔さまですよ。身震いしますわ」
それを聞いて、国貞は息を吹き出した。
「おかげで、県警本部が毎月行う犯罪検挙率は、我が松山署が断トツや。署長は鼻高々やが、俺は何とも不思議な気持ちで落ち着かなかった。あいつがうちの署に係長として転属してきて、すぐに一人の強盗犯を捕まえたんやが、そのホシ(犯人)から、三十五年前の殺人を自供させやがった……」
「えっー」
古谷は度肝を抜かれた。
「それ、い、いつの話ですか?」
呂律が廻らないほど興奮して聞いてきた。
「おまえが刑事になる前のことだ。過去の迷宮入り事件を調べてみたんだ。そしたらな、三十五年前、川辺町の建設中の県営アパートの一室で、首を斬られた殺人事件あった。しっかり記録に残ってた。“そんな顔してた”そう門田は言ったが、俺自身は、奇跡と言う言葉が合うかどうか分からなかったが、思わず“奇跡”だと口から出たよ。北九州のあの難事件、十年間未解決だった事件を、あっという間に解決した伝説の男だ。福岡県警に同期の刑事がいるんだが、門田のこと、“ありゃ、閻魔の密使“だって言ってたな。恐ろしい男として、県警一有名だったそうだ」
「北九州のこととか、警視庁のことは伝説になってますから、日本中の刑事は知ってるでしょう。でも、川辺町の事件は初耳です」
古谷匠は、ぶるっと震えがきた。
「やっぱり、凄い男ですな」
そう言って、両手を摩った。
三浦は、更に二服目を思いっきり吸い込んで吹き出した。
「まだあるな……」
門田もタバコに火を点け、煙を軽く吹き出し、三浦を見た。
威圧的とか、相手に物を言わせぬとかの偽物じゃない。三浦は、本当に舌を抜かれそうな“恐怖”を魂の底から感じた。
「えっ!」
古谷は眉間に皺を寄せた。
〈まだなんか引き出しそうだ。信じられん!〉
三浦の二本の指が震えるのをジッと見た。
門田は、優しく問いかけた。
「殺しか?」
三浦の返事を待たずに促した。
「吐いてしまえ! おまえ、三浦和彦本来の姿に戻れる。そろそろ、人間らしい生き方をしろ」
「……もう三十年はなる。盗人をやってた時だ……。今治のある民家に忍び込んだ時、家にいた婆さんと鉢合わせになって、首を絞めて殺した。灯油をばらまいて、火を点けた」
「今治のどこだ?」
門田はすぐにマジックミラーの方を向き、こちらからは見えない古谷に、“調べろ”と、目配せした。
「川田中学校の傍だった」
三浦は、こぼれ落ちそうな灰を、灰皿に持って行くことさえ忘れてる。震える指で灰が落ちたが、それにも気づかない。
「その時代なら、もう迷宮入りか」
門田は指先で頭を抱えた。
ミラーの奥では国貞課長が、「何でそんなことまで喋っちまうんだ」と、古谷に振って、左手を口にやった後、ない髭を指で撫でるような仕草をして首を振った。
「俺、ちょっと資料室で調べてきますわ」
「おぉ、頼む」
古谷は、気が急いたように部屋を出た。中途半端に開けたドアで、思いっきり膝頭を打ちあげた。古谷は、しかめっ面で片足を引きずりながら資料室に急いだ。
「そうか、それだけか」
門田は椅子にもたれ、紫色の煙を横に向かって吹き出した。壁にもたれて取り調べを見ていた津田庸平は、咳き込み、顔をしかめ煙を払った。
「ほかにはないな……」
門田は奥深く、ギラギラした目線で三浦を見据えて言った。
「盗み事は山とある。思い出せるやつだけでいい、喋ってくれ。検事にはよく言っとく」
「お願いします」と、三浦はタバコを持つ手を震わせながら、立ち上がろうとする門田に頭を垂れた。
門田は軽く頷いた。
「おやっさん、後はお願いします」
傍で取り調べを眺めていた津田刑事に、細かい犯罪歴を聞いてもらうことにした。
「ぷぅー」
門田は取調室を出て、ドアを閉めた後、息を吹き出した。
〈三十年もの間、被害者の家族は生活に陰を落としていたか……。犯人が分かった。その言葉に、なんて反応するだろう? また、陰を背負うことになる。まして時効だ。罪は消えてしまった。どうしたもんか……〉
吹き出した息は、ため息に変わった。そのままマジックミラーのある部屋に入った。
「ご苦労さん。またお手柄だな」
「古谷は調べに行きました?」
「急いで、ドアに膝を打ちつけて調べに行った。痛かっただろうぜ」
「何でそんなに急いでんです?」
「ははっ、分からん。相当に興味があるんだろう」
「へぇー、変わった野郎だからな」
門田の言い分に、国貞課長は、「おまえが言うか」と、思わず口から出た。
二人で顔を見合わせ笑った。ドアが忙しく開いた。
「あっ、閻魔さん、いたんすか」
「なんだ、その閻魔さんってのは?」
「門田係長のことですよ」
「おまえにゃ呆れるで……」
「言っときますが、俺が名付けたんじゃありません。警視庁から、福岡県警から伝わって来たんですよ。ぴったしじゃないですか!」
「何がぴったしだ。それで、コールドケース(未解決事件)の資料にあったか?」
「おっと、そうだった」
「現金な奴だ」
国貞課長が呆れた声を発した。
「ありました、ありました! 三十五年前ですね、驚きです。川田二町で、宮本茜さん。当時七十歳で、焼死体で見つかったそうですが、首を圧迫されて絞殺されたと断定し、今治署が殺人事件として捜査本部を設置して、当初、五十人体制で当たったそうです。それでも手掛かりなしで、時効を迎えたそうです」
「中学校の傍だそうだが」
「ちょっとインターネットで調べましょう」
古谷は早速、スマートフォンで調べだした。
「課長、どうしますか?」
「なんのことだ」
国貞は考え事をして、ボォーとしていた。
「今治署に連絡するかどうかですよ」
「そうだな、もう少し確認して連絡しよう」
「これで県警に行っても、高飛車に出られますね」
「鼻っ柱は高くできるがな。まぁ、控えめで行こう。陰で羨ましがらせるのがいいんだよ」
「ふふっ、その手もありますな」
門田もこんな時は、お互いに悪代官の口癖を披露する。
「閻魔さん、確かに中学校の傍ですね。今は立川コーポレーションという会社があるようですね」
「おまえな、閻魔さんは止めろ」
「しゃーないすね。警察官の間でも言われていますから。もう頭に染み込んでますから」
古谷のおちょくるような言い方に、門田は平手打ちを咬まそうとしたが、見事に躱された。
「けぇ、こんな時は素早い動きしやがる」
「へへー、門田係長の動きはお見通しですよ」
「やれやれ、おまえには負けるよ」
門田と国貞は、一瞬笑って本題に戻った。
「自供した場所がぴったり合うってことは、三浦が本ボシに間違いないだろう。よし、古谷と今治署に行って報告してくれ。一応、事件の詳細と現場を検証してきてくれ」
「分かりました。家族への報告は?」
「……向こうに任せよう」
「なぁ古谷よ、家族に報告だけは断れよ」
「そりゃ面倒ですからね」
古谷は車のハンドルを持って、口笛でも吹きそうだ。
「そうじゃなくてよ、被害者の家族に三十五年前の悪夢を蘇させる役目だ。俺たちも落ち込んでしまう。俺は嫌と言うほど経験してきた。心がズキズキする」
「はははっ、似合いませんね」
古谷は、えっーと口を横に広げ、声を出して首を捻った。
「門田係長にそんな優しさは!」
語尾を強めた。
門田は頭を抱えた。
車から外を見ると、学生や若い子たちがケタケタ笑いながら歩いている。
「こいつら、いつも平和に生きてんだろうな」
ため息をつきながら、古谷は羨ましがった。
「いいじゃないか、平和が一番だ」
「俺たちのお陰って分かってんですかね」
「それに憧れて、刑事になったんじゃねぇのか」
そろそろ松山の繁華街を通り過ぎ、田舎道に入って、長閑な風景を眺めて言った。
「こいつらのためになったんじゃありませんよ」
「青いね、おまえは。社会貢献、即ち、平和の中の若者たちを守る。これが警察官だ」
「ふぅーん、そんなモンすかね……」
古谷は、「アホくさ」と、ひねくれた顔をした。
「そんなもんだ!」
そう言いながら、しっかりと欠伸をされた。
「一時間はかかるだろう。着いたら起こせ」
古谷は、返事はせず手を上げた。
頭が浮いたと思ったら、門田は座席の背もたれで後ろ頭を打ち付けた。
「なんちゅう運転しとるんじゃ!」
「すいません、信号が急に変わったもんで」
「血管が切れるかと思ったぜ」
「鋼鉄の血管だから大丈夫ですよ。それより到着しましたよ」
古谷の面白くないジョークも相手にしなかった。
「そうか」
門田は思いっきり背伸びをした。
「よっしゃ行こか!」
古谷に促して、車を降りた。
「こんにちは、松山署捜査一課強行犯係の門田と古谷です」
「連絡は受けております。刑事一課長の玉名です。まぁ、お座りください。門田さんの噂は、愛媛県警で知らない者はいません」
玉名は、丸顔で体格のいい男だ。柔道お手の物というのがよく表れている、典型的なデカだ。
「へぇー、どんな噂で?」
古谷は、すっとぼけた顔で訊いた。
「痛えー!」
いきなりおでこを叩かれた。
「余計なことは訊かなくていいんだ」
「閻魔さまかどうか訊こうとしただけですよ」
古谷は、叩かれたおでこに垂れた髪を、気障っぽく撫で上げた。
「ははっ、やっぱり松山署でもそう言われてますか! 門田さん、いいじゃないですか、悪い噂は一つもないですよ。でも、思ったより精悍で意外でした」
不気味なオーラでも出てるのではと、玉名は想像していた。髭男で、畏まるような男で取っつきにくい、そのイメージしか湧いてこなかった。
「刑事ドラマにでも出てきそうな男ですな、相棒の若い人も」
古谷は、人差し指で自分を指した。
「相棒に出た、及川光博みたいで知的な方と見受けますな」
「ハハッ」
「はははっ」
お互いに笑いが出た。
門田は笑いながら、笑う古谷を見て、おでこに平手打ちをまた見舞った。
「外交辞令ってやつだ。それじゃ、事情は古谷から説明がありますんで。私は、例の事件の資料を拝見できますか」
玉名は、部下の一人に資料室への案内を命じた。門田は立ち上がり、資料室に行く前に古谷に耳元で囁いた。
「家族報告だけは受けるなよ」
古谷は、門田を見上げて頷き、“任せてください!”と、自信ありげな顔を見せた。
どこの署も、大昔の資料となると手書きノートだ。そうなると、古めかしい部屋に押し込められている。
「すいませんね。三十年前の迷宮事件ものは、パソコンに媒体化してませんので。松山署から連絡があって、探して見つけ出しておきました。こちらです」
木でできた重そうな机だ。資料同様にしまい込まれた年代物で、取調室にでもあって活躍したものだろう。
「ちょっと拝見するだけだから。読んだら、このままここに置いとくからもういいよ。あんたも忙しいだろう」
門田はそう言って、案内してきた若い刑事に気を遣った。
「昼間の二時ごろ出火か、真っ昼間の出来事か……」
門田は、ひとり囁くように述べていた。ひょっと横を向いた時、後ろに人の気配が……。門田は、座っている椅子から一瞬宙に浮いた感覚で驚いた。
「びっくりするやんけ!」
驚いた顔から、笑顔をこぼした。さっき案内してくれた若い刑事だった。若いと言っても、二十九歳になる中堅どこだが、見た目は二十五歳程度に若く見える。門田に笑顔で返したが、真剣な眼差しを見せた。杉田果実と言い、自己紹介された時に、“変わった名前をつけられたな”が、第一印象だ。
「で、果実くん、仕事はいいのか?」
「よかないですけど。あまりに有名なもんで、サインが欲しいくらいです」
「ははっ、芸能人じゃないからな」
「どうやったら、あんなに事件を解決できるんですか?」
果実の目に“本気”が見える。
ふん、顎を振って門田は笑った。
「俺は見ただけで、犯人が分かるんだ」
「ええっ!」
果実の信じがたい顔が、門田の口に火を点けた。
「不思議な力が湧いて来る。犯人に尋問すると、極悪非道な悪を持つ奴でも、善に戻す力があるんだよ」
杉田果実は、真実と捉えたかどうかは分からないが、「凄いですね」と答えた後、顔を見合わせて笑った。
〈本当なんだよ〉
冗談めいて笑った門田は、心の奥底でそっと囁いた。
「実は門田さん、俺と一緒に警察官になった林飛鳥という男が、派出所で二人の男と思われる暴漢に襲われ、拳銃を奪われ殺害されました事件がありました」
門田を前にして緊張してか、日本語にならないメチャメチャな言い方をした。
門田は思い出したように、「うん、うん、うん」と、頷いた。
「地図を広げ、道を教えている間、後ろから首を絞められ殺害された事件だな」
緊張した面持ちで喋る杉田果実を気遣って、代わりに説明してみせた。
「すいません、説明が下手で。門田さんは、俺たちの目標ですから緊張します」
「はははっ、それは嬉しいことだがよく見過ぎだ。あれは夜遅くの出来事だな。もう一人は、パトロール中でいなかったということだが」
「そうなんです」
「で、俺となんか関係あんのか? それに、あれは東村山で起きた事件だろう。なんか関係あったかな?」
「……」
果実は、黙って目を伏せた。
「どうした、何かあるのか?」
「実は、殺害された林飛鳥は同期でして」
「うん、それは聞いた」
門田は、椅子の背もたれに肘をかけ、「何か、俺に頼み事か?」と横柄な態度で、「言ってみろ」と、懐の太さをわざとらしく見せつけた。
「林飛鳥の妹は、私の女房でして……」
「ハァーん、そう言うことか。で、俺に何をしろってんだ」
「実は、暇を見つけては犯人の手がかりを探っている訳でして……。警視庁東村山署にも同じ同期の刑事がいまして、いろいろ資料を送ってもらって、個人的に調べてまして……」
そこまで言って、杉田果実は口を閉じた。
門田は腕組みをして、立ち尽くしている果実を上目遣いで見た。
考え込むふりをして、「当ててやろうか」と、ちょっとからかうように言った。
「俺にちょっと加勢してくれ! そう言いたいんだろう?」
「あっ、いや、その」
果実は言い淀んだ。
「はははっ、いいだろう。どうしてほしい」
「ほ、本当ですか!」
果実は、予想だにしなかった門田の答えに、“夢か?”そう自分の存在さえ疑った。
「警視庁東村山署の同僚といろいろ意見交換して、容疑者を百名程度絞り込んだんですけど、なんたって埒があきません! これ以上は、なかなか踏み込むことが出来ないんです!」
果実は興奮して、門田に息を切らして訴えた。自分を見失う言い方に、生唾を呑み込んだ。
「あっ、すいません。ダメもとで言ったもんで、つい興奮してしまいました」
「ははっ、いいんだ。手短に行こうか。その百人近くの容疑者ってのは、前歴のある連中か」
「はい、強盗、窃盗の過去がある連中と、不法滞在者などの外人も含まれています」
「ふ~ん、おまえはどう思ってる?」
門田は、果実が思っている犯人像を聞きだした。
「俺は、不法滞在者の中にいると思ってます」
「どうしてそう思う?」
「あの大胆不敵な殺し方、地図を広げさせ道を聞くとか、今どきの日本人にはないことです」
果実は、確信に満ちた言い方をした。
「自信ありそうだな」
門田は、果実の自信ありの言い方に、ニヤリと微笑んだ。門田も、果実のように確たるものがなくても、勘的な捉え方に自信をもって語る昔気質のやり口だからだ。若かろうが年寄りだろうが、人間が持っている本質、人間らしさに好感を持つ。
「まぁ、それ以上は管轄内でないと難しいな」
門田の話に、果実は言葉を失った。
「写真とか容疑者が写っているものはあるか」
「はい、全員じゃないですがあります。写真が手に入らなかった連中は、名前までは何とか……」
それ以上は提示するネタはない。果実は、残念ながらの顔を、しげしげと見せた。
「それだけじゃなー」
誰しもその答えしか返せない。閻魔さんでも無理だろう。
落ち込む顔が表れたのか、「そう肩を落とすな!」と、門田は宥めるように言った。
「ありがとうございます。門田さんに話せたことで、少しは気が晴れました」
果実は穏やかな顔を見せた。
門田はゆったりとした笑顔をして、果実に問いかけた。
「おまえさん、果実って珍しい名前だな」
「そうでしょう。変な名前つけて困ったもんですよ」
話を変えてもらい、緊張感が少しばかりほどけ、リラックスできた。
「なんでも生まれたままの姿で、人としての気持ちを忘れずにとかでつけたらしいですけど、果実とそれがマッチするとは思えないですけどね。親が好き勝手につけた名前ですよ」
「親がおまえのことを考えてつけた名前だ、大事にしろ。しかし、良い名前だ!」
大きく頷いた。
「そうですか」
果実は、小さな声で返事をした。
「よし、おまえらが調べ上げた容疑者、俺に見せろ」
えっ! 果実は驚いた。門田の思いもよらぬ言葉に、果実は前のめりに身体が反応した。
「何、びっくらこいてんだ」
「いや、あまりにも簡単に乗ってくれたもんで……」
「そうか。しかし、おまえさん、俺に手伝ってほしいんだろう?」
「あっ、そうです」
果実の恍けた表情に、笑いが出た。
「ははっ、俺が乗ってきて期待外れか?」
「何をおっしゃいますか! 閻魔さまに手伝ってもらえるほど光栄なことは!」と、一転して興奮して言いだしたが、思わず手で口を塞いだ。
「俺のあだ名も今治まで響いてるか」
果実は興奮冷めず、続ける。
「そんな、こんな田舎町だけじゃないですよ。警視庁東村山署の同期も言ってましたよ! “落としの大門”、“閻魔さま”とか、門田さんの迷解率百%だって」
「なんだ、その迷解率ってのは? おまえら若いのはすぐ短略化するからな」
年齢はたった三つしか違わないが、門田はギャップを感じた。
「ははっ、そうでもないですよ。警察の方が若者より簡略語を使ってますよ。制服巡査をアヒルとか、前科者をイカモノとか。わたしゃ刑事になった時、何がなんやらさっぱり分かりませんでした」
「そう言えばそうだな。若者じゃなくて、昔から続いてるってことか」
「そうですよ。その時代の流行りがあるだけの話ですよ」
すっかり果実は意気投合した。
「ところで、データは送れるか」
「はい、メールで送信します。すいません、お手数かけます。実は、門田さんに言ってみろよ、と言ったのは警視庁東村山署のやつなんですよ。今日、今治署に憧れの門田さんが来ると言ったら、そう進言されましてね」
「憧れね……。古谷に聞かせたいね」
「もう一人の方ですか?」
門田は、困り者だの顔をした。
「そんなことより、警視庁東村山署に知り合いの刑事が何人かいるから、情報を仕入れといてやる」
「本当ですか、ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
果実は本気で喜んだ。ここまでしてもらったら、殺害された同期の林飛鳥も満足だろう、そう思えた。
しかし、喜びの片隅では、さすがに解決は難しいだろうと、消極的な気持ちも蠢いた。門田さんと言えども、現場は東京で、捜査に携わることもなく、怪しい男どもをピックアップし見てもらうだけなのだ。奇跡でも起きない限り、的を射ることは不可能だ。この警察の世界で奇跡という出来事はあり得ないし、御法度の言葉だ。
しかし、満足だった。百件事件があれば、百件以上の解決を可能にする刑事なのだ。そんな伝説の人物に見立ててもらう! それで充分だった。
門田は、腕組みをした。
「おまえが見定めた百人の中に、犯人がいればすぐに分かるがな……」
果実は目を丸くした後、眉間に皺を寄せた。
「分かるって……、ホシがですか?」
「あぁ、犯人は見たら分かる」
この人が言うと、本当に分かるような気がする。そう思うのは自分だけではないはずだ。警察に携わる人間は皆頷くだろう。
「門田さんは、占星術でもやるんですか」
「ははは、そりゃ面白れぇ! 刑事が占いか! それも案外Goodかもな。占いデカか……、テレビドラマにできるぞ」
果実は冗談のつもりだったが、門田は本気で軽く受け入れ、軽く躱された。
“不思議な人だ”
そうなのだ、不思議な力を持つ男なのだ。犯人の顔、姿を見ただけで、あの時の暗がりで見た大男が視界に現れ、「坊主、こいつだ」と、暗がりから声をかけてくる。一瞬の暗闇の世界だ。
門田は、自動販売機で買った冷えたお茶のキャップを開け、ひと口飲み干し、舌を鳴らした。座り込んだ椅子で両膝に手をつき、ふぅーと息を吹き出し、突っ立っている果実を見上げた。
「さぁーて、面白くなってきやがった」
ニヤリと不敵な笑いを見せた。
果実は、“この人本気やで”の思いに鳥肌が立った。
「ところで、友人の害者の名前は……」
また、お茶をぐっと飲み訊いてきた。
「はい、林飛鳥という男です」
「飛鳥か……。なんてキリリとした名前だ。親は大きく羽ばたく人間に、と名前をつけたのだろうな」
門田の風情ある物言いに、果実は清々しく微笑んだ。
「汗を流し、苦労も苦とせず、人として重い荷も重石とせず育てた息子が、拳銃を盗むために虫けらのように殺められる。ふん! そういう輩にも人権とくる。世の人間様は、心ってものがあるのかね。その人間が世にはびこる。なぁ果実、俺たちが仇討ちせずに誰がやるんだ。おまえさんの兄貴になる男だな、その飛鳥ってやつは」
「そ、そうなります」
果実は畏まって返事をした。
「まぁ、桜田門じゃないが、“世の中悪が勝つ”、俺はこの言葉が一番嫌いなんだ。はははっ、ウンチクはどうでもいいか!」
猛々しく笑った。
「よっしゃー! 敵討ちをしようじゃねぇか。果実よ、よく言ってくれた。さっそく俺のパソコンに送ってこい。見定めてやる」
「はい、お願いします」
杉田果実は元気よく返事をした。涙が出てくるくらいに嬉しかった。刑事でありながら、親友の討ち死に何もできない。嫁は、その親友の妹だ。もどかしさは、夫婦の間にも不問の暗さを漂わせた。勇気が湧く。
〈この人、本当に閻魔さまかも……〉
あり得ないことまで心に響いた。
コンコンとドアがノックされ開いた。
「門田さん!」
びっくりするくらい大きな声で、玉名が入ってきた。
「お連れの刑事さんが、被害者の宮本茜さんの御親族のお宅に報告に行かれるそうですよ」
「ははっ、そうですか。わざわざどうも」
門田は、笑いながら歯ぎしりをした。
「あのバカ」
小さく呟いた。
「痛えー」
パチンと門田に頭を叩かれ、古谷は悲鳴に近い声を上げた。
「あれだけ受けるんじゃないって言っただろうが!」
「そんなこと言いましたっけ?」
「恍けんじゃねぇ!」
また叩かれそうで、頭を引っ込めた。
「どうせ、凄い、天才的、不可能を可能にしたとか、煽てられて引き受けたんだろうが」
「はぁー、よく分かりましたね。さすが“落としの大門!”」
ご機嫌取りなのか、ふざけてるのか、訳の分からない古谷の答えに、門田は吐き捨てるように言った。
「おまえが引き受けたんだ、おまえが報告しろ! 俺は車で待ってる。頑張れよ!」
軽く古谷の肩を叩いた。
「えー、勘弁してくださいよ。俺には荷が重いっすよ」
「自分が蒔いた種だ。自分で片付けろ」
「そんなー」
古谷は泣きっ面に蜂の、不甲斐ない顔をした。
両手を合わせて、古谷は心で呟いた。
〈茜さん、貴女を殺めた憎い犯人を逮捕することができました。怖かったでしょう。でも安心してください。これから閻魔さまが成敗してくれます。この世では、残念ながら時効というものがあります。しかし、犯人は捕まえることができました。遅くなって申し訳ありません〉
拝んだまま、深々と頭を下げた。
仏壇から向きを変え、和室に敷かれた座布団の上に座った。
「どうもありがとうございました」と、目の前に座っているおばあさんが、肩を窄めて礼を述べた。元気というものは、遠い昔に落としてしまって、届けられていない。そんな雰囲気を醸し出す姿に見えた。
「……」
沈黙が起きた。
〈これだ、この静けさだ〉
この重苦しい時間が、門田を悩ませる。
〈だから、被害者への報告は絶対に受けるなよ! と言ったのに……〉
ネガティブな気持ちで、横にいる古谷を睨んだ。
親族は田中彩音さん。被害者宮本茜さんの娘さんだ。娘さんと言っても七十五歳になる。結婚していて、姓は違う。茜さんが亡くなった時は、四十歳の若さだった。三十五年の長い重みを感じた。
「あん時から、時は止まったままです……」
田中彩音さんは、肩を落としたまま静かに語った。被害者の家族になった悲憤慷慨な語り口は、胸が張り裂けそうになるくらいに、恨み節として突き刺さる。年寄りの人間となると、どんな芸達者でも真似できない、愛別離苦の苦難の人生がそこにある。
「力及ばず、ここまで来てしまいました」
門田は、慣れない言葉を発した。精一杯、申し訳ない気持ちを込めて頭を下げた。
「ほんに、今になってのう……。本気でやってくれたのかのう」
彩音さんの警察への批判は、門田の心の臓まで響いた。
彩音さんの横にいた娘さんと思われる人物が、すぐに彩音さんに意見した。
「この人方は、当時の警察の方じゃないのよ。ねぇ、分かるでしょう。逆なのよ、松山署の方が捕まえてくれたの、失礼よ!」
叱りつけるような言い方をした。
「ええ、私たちはこの事件とは全然関係なくて、門田係長が無理やり引き出した……」
そう古谷が、自慢げに言いかけたところで、門田が、「おまえは黙ってろ!」と、威圧感で黙らせた。
「申し訳ございません」
門田は、平に頭が畳に着くほど下げた。古谷も門田の態度に驚いて、瞼をパチパチさせて、急いで頭を下げた。
「ありがとう。これで母は、天国に旅立てますだ。本真にありがとう」
彩音さんは、振り絞るような声で礼を述べた。
「あなた方のお陰ですじゃ……」
彩音さんの振り絞る声を聞いて、門田は頭の先から足のつま先まで、火柱のような赤い気が走ったのを感じた。
〈お婆さんは、分かっていてくれたんだ〉
そう思い、ゆっくり頭を上げ、仏壇に飾られている宮本茜さんの写真を振り返り見た。
「喜んでますよ……」
ポツリと、彩音さんは言った。
「ありがとうございます」
古谷が思わず言った。門田は、魂げる顔をした。こいつ、血迷ったか! そんな思いをさせる言葉だった。
見つめる門田に、「成長してますから」と、古谷は憎まれ口を叩いた。
帰り道、タバコの煙に噎せながら、門田から文句をタラタラ言われた。
「あれほど受けるなと言ったろうが!」
古谷は頭を掻きながら、照れながら言い訳をしだした。
「大したもんですね! と、言われましてね。ちゃんと門田係長が証言を引き出した、と言っときましたよ」
そこで門田は、思いっきりタバコを吸い、運転している古谷に吹き出した。
ゴホッ、ゴホッと、噎せる煙を払いのけ、「名刑事の下には、名参謀刑事がいますから。それが貴方ですね。まぁ、そう言われましてね。思わず、知らずに返事してました」
「そんなこったろうと思ったぜ」
銜えていたタバコを、窓を開けポイっと捨てた。
「駄目ですよ、警察官がそんなことしたら」
口が滑った! そう古谷が思った時には、頭をど突かれていた。
「今日から禁煙の予定だったんだ!」
「えっー、取調室でも吸ってたじゃないですか」
「あれは演技だよ」
古谷は前を向いたまま、口をへの字に曲げた。
「なぁ古谷よ、あのお婆さんの思い言い分、身に染みたか?」
「はい」
小さな声で答えた。
「苦心惨憺たる思いは、犯人が検挙できなければ、俺たち警察へ向けられる」
「因果な商売ですね」
「そうだな。俺はそれでいいと思ってる」
「えっー、それじゃ俺たち刑事は、鬱憤請負人?」
「いいこと言うね。古谷も成長したな。特に、家族が犠牲者になった人たちは、鬱憤を晴らすところがないんだ。一刻も早く捕まえてほしい! しかし捕まらない。その望みさえ寸断された。それを糧にして、犯人逮捕に燃えるんだよ」
返す言葉が見つからなかった。古谷は奇妙なことを言った。
「それで、特殊な能力が身に付いたんですか?」
「閻魔さまか?」
門田はまじめに受け取った。
「そうですよ、俺、係長が難事件から迷宮入りの件を、あまりにも次々に解決してるのを知って、いろいろ調べたんですよ。これって不可能じゃない! そんな事件解決がありましてね。東京で起きた雑居ビルの放火事件は、あまりにも有名ですが、数ある中で、絶対に無理だろうというのがありましてね」
まだ煙る運転席のウインドウを全開にして、煙を払い、すぐに閉めた。
「高田馬場の小学校で、夜に、女の先生が血痕を僅かに残したまま、行方不明になってた事件ですよ。十四年も経って迷宮入りしていた。たまたま一緒になった当時の担当刑事が、この事件について語り、資料を見せ、係長の神がかり的な能力にダメもとで託してみた。捜査線上には浮かんでなかったこの男が怪しいと、その刑事と上層部に上申した。無理やり警察犬を使って容疑者の家を探らせたら、犬が吠えた。中にいた五十代の男を尋問、容疑者を自白に導いた。女の先生の遺体は、その家の床下で発見。殺人罪として、正式に逮捕した……」
淡々と、箇条書きのように古谷は述べた。
「ふっ、大したもんだ」と、門田は笑った。
「良く調べてんな。そんな間があったら、犯罪捜査に熱中したらどうだ。それこそ、空き家で声嗄らすだよ」
言われた古谷はキョトンとした。
「あらまぁ、何とか言葉繕って誤魔化そうとしても無理ですよ。私の趣味ですから」
「なんだそりゃ? よかろう、おまえが立派な刑事になるってんなら、話してやろう」
「もちろんですよ。係長みたいに、どんどん難事件を解決できるデカになりたいですよ」
「俺は、ホシを見ただけで分かるんだよ」
「ホォー、それは神がかりですね」
古谷は、感心は示すものの本気ではない。
この人、本当に閻魔さまか? と、瞼を閉じて、微かにイメージを心に浮かべるが、首を振るまでもない。サッと消え去る。その程度だ。
「写真見てもですか?」
「そうだ、ビリビリってくるんだ」
「ふぅーん、冗談から駒が出ればいいですがね」
当然ながら、本気で聞くには遠かった。
「どうせ、本気で聞いてないだろう。そうだ、今治署にいた杉田果実って奴から、手伝って欲しいと頼まれたよ。東村山で起きた、同期の奴が殺された事件知ってるか?」
「あぁ、もしかして、派出所で襲われたあれですか!」
「そう、あれだ、あの警察官だ。杉田果実の同期で、嫁さんがその警察官の妹だそうだ」
「そりゃ、あの男は断腸の思いでしょうね」
「あぁ、そうだな」
「管轄内じゃないし、無理でしょう」
「だから俺に頼んで来たんだよ」
杉田果実の“水泡に帰す”行為は、捜査の天才閻魔さま、落としの大門が偶然にも現れ、“奇貨居くべし”のチャンス到来なのだ。
「まぁ、署に着いてから、神がかりを演じて見せよう。おまえのお陰で疲れた。着いたら起こせ。寝る!」
門田は、本当に疲れたのだろう。目を瞑り、信号で停車し助手席を見た時には、寝息を立てていた。
署に着いた時は、夜の八時は過ぎていた。刑事部屋に入ると、国貞守が椅子にふんぞり返って、津田刑事と談笑していた。門田たちが帰ってきたのも分からず、甲高い笑い声を出していた。
門田は、欠伸がてらに、「いい気なもんだな……」と、呟いた。
気配を感じてか、国貞たちは姿勢を正した。課長で上司とは言え、門田はキャリアで実績も充分、あっという間の出世で、雲の上の人になる。でかい態度は出来ない。
「ご苦労さん。今治署の署長から、うちの署長に御礼の連絡があったそうだ。玉名課長からも、私の方に電話があったよ。なんだって、被害者の家族に報告までしたそうじゃないか。助かりましたと、恐縮しきりだったぞ」
「そうですか、古谷のお陰で助かりましたよ」
皮肉を込めた門田の物言いに、真後ろにいた古谷が、声をかき消すような大きな咳払いを白々しくした。
「古谷は、今日は泊りだな」
国貞課長は、帰りのシグナルを出している。
「俺は古谷とやることがあるんで、ちょっと残りますわ」
「そうか、んじゃ俺は失礼するよ」
国貞は、聞く耳持たずで帰宅した。
「さて、閻魔さまに見てもらおうか」
「えっ、何をですか?」
「果実の野郎本気だな。もう送信してきてやがる」
「何をですか?」
門田が開いているパソコンを覗き込むと、百人にも及ぶ人の顔写真だ。
「まさか、これ? 杉田刑事が送ってきた?」
古谷は、まさか杉田刑事が調査したのかと、驚きの表情をした。門田を見て、感心したように首を振った。
「そうだ、果実の執念だ。奴の友だちであり、女房の兄である林飛鳥警部補(殉職二階級特進)の無念を、本気で晴らしたいというその執念には息を呑む。しかし古谷よ、よく覚えとけ、さすがの果実も限界がある。人は病気になると、頼るのは医者だ。最期の砦だ。犯罪の被害者になったら、俺たち警察官が最期の砦だ。庶民は、最期の砦に頼るしかないんだ。世の中を支える庶民が蔑ろにされたら、助けるのが俺たちの役目だ。その俺たちが諦めたり、適当な捜査をしたらどうなる? 奈落のどん底に落ちてしまう。それでなくても、加害者は人権を振りかざして生きる道を与えてもらえる。なんかおかしくないか! 死人に口なしで、被害者の弁はなく、人生は消える。人に危害を加えた者が世に蔓延る。悪の輩は生きる道を与えてもらえる。“殺す気は無かった”言い訳だけは天下一品だ! 俺たちが舌を抜くしかねぇのさ。おまえも立派な刑事になりたかったら、今言われたことをよく覚えとけ! 俺たちが、閻魔さまにならなきゃならねぇってことさ」
「……」
古谷は黙りこくった。
〈この人の言う通りだ。犯罪者の言い訳言い分には、腹立たしいことが多い。平気で罪の無い人を殺めておいて、取り調べで正当性を訴えるところは、犯罪者の男女を問わず、“こいつら、人間の皮を被った悪魔だ”と、思わずにはいられない。この人の言う通りだ。分かってはいるが、これほど口に出して言える人は、そんなにいない。扱う事件を次々に解決、過去の縺れた事件をも解決へと導く。今や誰も彼に言い返す人はいないだろう。俺も彼を尊敬し、目標にしている。しかし、言うことが奇譚じみてんだな。犯人は見たら分かるとか、閻魔さまの密使とか、まともじゃない。もっと密着取材しなきゃな。俺は文春の記者か……〉
そう考えながら、古谷はにやけ顔をした。
「おまえ、何にやけてんだ!」
思い耽っている古谷に、門田は、「大丈夫か?」と、頭を人差し指で突いて見せた。
「ちょっと考え事してたもんで、ははは」
古谷は笑って誤魔化した。
パソコンに送られた顔写真を、門田は一枚ずつ見て言った。古谷は写真そのものより、門田の睨みつける姿が気になって、門田の斜め後ろから眺めた。パソコンをクリックしながら、何枚も捲っている姿を見つめていたが、“こいつが犯人だ”と、言い出す時の仕草がとにかく気になり、もしかしたら今日その姿が拝見できるかもと、微かな期待を持って、写真を見ず後ろ姿だけを見つめていた。
捲りながら十分位経ったろうか、眠気が来たのか、一瞬気が遠のいた。古谷は、顔を振り目を擦った。すると、一瞬で部屋が真っ暗になった。
〈えっ、停電か?〉
「門田さん、停電ですか?」
パソコンは点いている。
ぎょー! 古谷は、膝がガクッと落ちる感覚を覚えた。
〈か、門田さん、な、なんか身体がでかい! ええー、手がでかすぎる‼ 身体がでかくなっていくー!〉
斜め後ろからハッキリ見えていたパソコンの画面が、門田のデカくなる身体によって全く見えなくなった。マウスを持っている手が、パソコンを掴めるほどに……。暗くて顔は見えない。
「か、かどたさ、ん~」
トーンダウンして、そのままどさっと倒れ込んで気を失った。
「古谷! 古谷‼」
呼びかけが、遠吠えのように聞こえてきた。うっすら目を開けた。
「うぁーー、化け物‼」
張り裂けんばかりの声が、刑事部屋に響き渡った。頭に衝撃が!
「馬鹿野郎、誰がバケモノだ!」
古谷は、頭を叩かれ目を覚ました。
「あ、貴方は?」
古谷の恍けた返事に、門田は呆れより、大丈夫か!? が先に立った。
古谷はキョロキョロして、半身起き上がった。
「あれ、門田さんどうしたんですか」
「どうしたじゃねぇ。突然ぶっ倒れて俺がびっくりだ」
「どうしたんですか?」
パトロールから帰ってきた藤村刑事と、金重刑事が、「何事や?」と、刑事部屋に飛び込んで来た。
「こいつ、突然倒れやがって」
門田の物言いに、藤村が怪訝な顔をして、古谷の額に手を当てた。
「ふん、別にどうかあるように思えませんが……」
藤村は、首を捻りながら門田を見た。同時に金重も、古谷の額に手を当てた。
古谷は、金重の手を軽く払い、「何ともありませんよ」と、キョロキョロと門田たち三人を何回も見た。
「とりあえず病院に行くか!」
門田は、ひょっとしたら奇妙な病気を持ってるかもと、恐れる顔をした。
「ちょっと、やめてくださいよ」
門田たち三人は、顔を見合わせため息をついて、「居眠りか」と、簡単にケリをつけた。
それぞれ席についた。古谷は記憶を辿って、とんでもないことを思い出した。
門田と同時だった。
古谷が門田の傍に寄った時に、門田は、「見つけたぞ!」と言い、古谷は、「門田さん、化け物になってましたよ」と、顔をつき合わせた。思わず口がくっつきそうになった。
「なんだおまえ! ニアミスじゃ済まされんぞ」
「僕だってそんな気はありませんよ。偶然ですよ」
古谷は、顔を赤くして弁解した。
「それより、不思議な現象を見たんですよ」
門田は、?の顔をしたが、すぐに翻り、「そんなことより、こいつだ! 悪魔の使いは」と、パソコン画面いっぱいに出ている顔写真を指差した。
「えぇー、頼まれた杉田刑事の件ですか?」
「あぁそうだ。こいつだ、中国人だな。不法滞在で一度検挙されてるな。あいつら、よう調べたな」
「すぐに知らせますか」
「ああ、早いほどいいだろう」
「ハァー」
古谷は、気が抜けた声を出した。
「こいつが犯人だとして、どうやって検挙させるんです?」
門田は、腕組みをした。ふぅーと息を吐き出して、パソコンから目を離し、横にいる古谷を見て冷めた言い方をした。
「後は果実が、無二無三に捜査することだ」
「疑う訳じゃありませんけど、難しいでしょう」
「奴には執念がある。やらせるだけやらせてみよう。果実にとって、不倶戴天の敵だ、好機逸すべからずだ。果実も一念発起して取り組むだろう」
「この愛媛で、東村山の事件を、それも片手間でやるんですよ。無理でしょう」
古谷は、首を何回も振った。
「いざとなりゃ、加勢するさ」
「……」
門田の加勢するの言葉に、古谷は返す言葉がない。
〈この人なら分かんねぇ!〉
否定する言葉は打ち消される。
「ところで、おまえ、さっきおかしなこと言ったな?」
「そうなんですよ。気を失う前に、門田さんが化け物の大男になって、周りが真っ暗になっちゃって、その後、覚えてないんですよ」
「……」
しばらく門田は、口を尖らして考え込んだ。
〈こん人、やっぱなんかあるな!〉
古谷は、考え込む門田を見て、奇怪な身震いがした。
〈刑事の俺が、こんな非科学的なこと考え込んでるとか、口が裂けても言えないよな。こん人、何かがある……〉
まるで何かに取り憑かれているような深刻な顔をして、頭を巡らせている古谷を、門田が心配した。
「おまえ、何考え込んでる?」
「いや、なんでもないです」
生汗が出るくらい古谷は慌てた。
「ははぁー。おまえ真っ暗闇で、ついに見たか! 見せた俺の正体を他の奴に洩らすと、地獄に落とすぞ!」
本当に額から生汗が出そうだ。ニヤリとした顔は、薄気味悪さが漂っていた。当直メンバーがかなりいるとは言え、外は暗く、署内も静かなものだ。気が遠くなるような衝撃を受けた。
〈こん人、本当に化け物なんだ!〉
「どうなんだ!」
「ヒィー!」
この世も終わりかの断末魔の悲鳴だ。門田は、鳩が豆鉄砲でも喰らった顔をした。
「……おまえ、本当に大丈夫か?」
両手で、古谷のほっぺを挟むように叩いた。
挟まった顔で、目を丸々として、古谷は門田を見た。
〈やっぱり、ば、化け物……〉
門田は古谷の顔を抑えつけたまま、「おまえ、本当に可愛さなく憎さ百倍だな。怒りもここまでくると可愛さもなくなる」と、言った。
「おまえ、明日、明け休みだよな。俺も休みだ。ちょうどいい。俺の田舎に行って、閻魔神社を探してみるか。どうせ、暇だろう」
「ええー、結構です」と、言いかけたが、ううっと唸るだけで声が出せない。抑えつけられた顔は、“暇じゃありません!”の首振りも出来なかった。
「なんでこうなるんすかね?」
古谷は、門田の車を運転しながらぼやいた。
「おまえが俺を化け物扱いするからだよ」
「……」
昨日の薄気味悪い夜勤とは違い、日が照る陽気は、アンビリーバブルな奇怪な出来事さえ、ふるい落としてくれる。
「門田さんの田舎って、石鎚山の近くなんですか?」
欠伸をしながら、門田は懐かしむように答えた。
「あぁ、生まれは松山だが、お袋が久万高原町ってところの出身で、お袋の親がそこに住んでたんだ。先祖は、まだ山奥の鞍部ってところに住んでいる。山の奥でな、人里から離れて暮らしていて、今は一人で暮らしている。だから小さい時はあの辺りで、親父と遊んだもんや。親父は山が好きだったから、鞍部にある家に泊まって、石鎚山登山したもんや」
「ふ~ん」
〈そんな話を聞かせるために俺に運転させ、ここまで来させたのかね……〉
古谷の不満が顔に表れたのか、門田は笑った。
「おまえが見た化け物って奴。小さい時、この石鎚山で見たんだよ」
「えっ!」
古谷の顔が、一気に変化した。軽快なカーラジオの声も途切れ、古谷はピクリとし、喉仏がぐりっと動いた。
「おまえ、ビビってんな」
晴々した天気だが、車の外は藪だらけで、日が射しているとはいえ、奇譚な話をされると薄気味も悪くなる。
門田は、〈無理もねぇか、人間だからな〉、そう思った。
「親戚のお婆さんは何歳になるんですか?」
ビビる気持ちを躱すように話をすり替えた。
「百歳かな……」
「えっー、人生謳歌してますね」
「大祖母になるからな」
「へぇー、ひとり暮らしですか」
「ああ、元気ええぞ。週に二、三回は、爺ちゃん婆ちゃんが世話しに行ってるがな」
古谷は、門田のそんな家族制度な話に、“落としの大門”、“閻魔の門田”に対する感覚を鈍らせた。犯罪者を、逃げも隠れも出来ないほど追い詰め、闇に消えそうな迷宮入りにも光を当てる、神がかりな男とマッチしなかった。
「ふぁー。もうすぐ昼ですね。腹も減って来た」と、欠伸をしながら言った。
「婆ちゃんとこで、何か食べさせてもらおう」
車を運転してから、二時間も走った。
「明日も休んでいいですかね?」
「勘違いするな! 明日は捜査の仕事だ。俺が上司だ。心配するな。二人で朝から別件捜査で、一日帰れないと課長に申請してある。それに、今日は寝れんかもしれん」
「何ですかそれ? 話を聞きに行くだけでしょう?」
門田は、眠たそうに運転している古谷に、謎めいた顔をして、おどろおどろしに言った。
「夜はおまえの好きな化け物に会いに行く」
古谷は、首を竦めた。
「べ、べつに! 好きじゃないですけど」
当直明けの、引っ付きそうな瞼が、二度と閉じられないと思えるほど見開いた。
「ここ、道と言いませんよ! ガタガタですよ」
車の天井に、頭を何回と打ち付けた。
「だから、クロカン乗ってんだ」
「しかし、車が通る道じゃありません。うん、よん!」
襲ってくる衝撃で言葉にならない。車体に石ころが、幾度となく当たり、古谷の胃の中は悲鳴を上げた。漸く門田が指差した。
「ここが大お婆さんの家ですか」
ふらふらになって車から降りた古谷の、「ふぅー」と、息を吹き出した後の第一声だ。
周りは森に囲まれ、先端の枝葉はドームの如く茅葺き屋根を囲んでいる。
〈日が照り込むか?〉
古谷が思うのも無理はない。年輪を重ねた重みある樹木の先端が、茅葺き屋根を守るように覆っている。季節は五月だが、暖かさは感じない。
「これがな」と、門田が樹木の先端を指差して言った。
「婆さんが、日が欲しいのと思ったら、先端の枝葉がドーム球場の屋根みたいに開くんだ」
真上の覆われた枝葉を見つめて、感心するように首を振った。
「それは凄いことですね」
古谷は、もちろん本気には聞いていない。軽く受け流した。そんなことより、真っ昼間なのに薄暗く、思わず鳥肌が立ってしまう不気味さの方に気を奪われる。腕をしっかり摩った。
「鳥肌が立ちますよ」
古谷は、古い茅葺き屋根の家を見て、「お婆ちゃん、いらっしゃるんですか?」と、腕を摩り肩を窄め、家を見ながら廻りの樹木を見て身震った。
年輪を感じさせる太い樹木は、まさに別世界で動きだしそうだ。
「婆さんや~い!」
門田が大きな声で、玄関口で呼び出した。
古めかしい雨戸は木製で、底にローラーは付いてなく、窪みに嵌め込まれ、押し引きで開け閉めをするようだ。玄関は新しく、最近リフォームしたのだろう。小窓がたくさんついた引き戸型だ。
突然、門田の携帯電話から、『世界で一つだけの花』のメロディーが流れてきた。
古谷はビクッとしたが、メロディーの方に遥かに驚いた!
〈似合わねぇ―〉
声には出さなかったが、顔に表れていた。
「婆ちゃんか」
閻魔の門田が、“婆ちゃん”ってのも不釣り合いな気がした。
今日はとにかく、この樹木といい、門田の思いもよらぬ物言いに隔世の感を受けた。夜になると、でっかい樹木が動きそうだ。
〈俺は、ハリーポッターの観過ぎかな〉と、古谷は幼稚っぽく考え込んだ。
「もしもし婆ちゃんか」
大きな声で、門田が家の中にいるお婆ちゃんと、携帯電話で対話していた。
きっと耳が遠いのだろう。それにしても、すべてが滑稽だ。
玄関の引き戸が、ガラガラガラっと音を立てて、ゆっくり開いた。白髪で、背骨は曲がって、顔は細く当然ながら皺がまんべんなくある。どこにでもいる田舎のお婆ちゃんだが、年齢は百歳とは思えない。テレビでよく拝見する、八十歳くらいの元気なお年寄りのお婆さんに見える。
「よう来たな。来るなら連絡くれんにゃ、なんも用意しちょらんぞ」
「えっ、昨日電話したやんけ」
「そうけ、覚えちょらんの?」
「よう言わんぞよ」
この何でもない会話に、古谷はポカンと口を開けたまま、門田を見ていた。
〈したやんけ。言わんぞよ。これが門田閻魔か? こん人、やっぱり普通の人やな〉
頭がこんがらがってきた。不可思議な人だ。
「古谷! 何してんだ。早く入れ」
お婆ちゃんはこっちを見て、可愛らしい顔で笑った。
「よういらしたな。辺鄙なとこやけな。洋介、友だちは有難いもんじゃ」
〈えっ、友だち?〉
古谷は、お婆ちゃんの笑顔に、「門田さんの部下の古谷と申します」と、丁寧に頭を下げた。
「友だちは、礼儀正しいのぅ」
「警察署で部下を」と言ったところで、「いいんだよ、友だちで」と、門田にぶっきら棒に言われた。
「はぁ~」
気のない返事を返した。
門田は古谷の顔を見て、「なんぼ言っても一緒や、思い込んどる」と、頭を指差した。
「それよりお婆ちゃん、こいつ寒いらしい。日を入れてや」
「そうか、友だちは寒いかな……」
そう言って玄関口から、「よっこらしょ!」と、玄関戸のレール台を乗り越え外に出て、両手の手のひらを広げて、樹木に向かって小さくクルクルクルっと回した。
古谷は、何の御呪い? と、瞬きを何回もした。
それを見た門田に、「気にするな。そのうち分かる」、そう言われ、家の中に案内された。
土間から床までは五十センチもある。お婆ちゃんは床に腰かけ、足を上げお尻でクルっと回転させ、床に上がった。
「おぉー」
それを見た古谷は、思わず声を出した。
「元気いいだろう」
門田は、変わらないお婆ちゃんの元気良さに笑顔を作った。
昔ながらの農家はこんな造りだ。
「階段造ってあげたらどうですか?」
「余計なことすなよ! と怒られっぞ」
「そうなんですか」
「あれは運動の一つだそうだ」
昼ご飯をご馳走になった。白菜の漬物で、「お茶漬けにして食いんしゃい」と言われ、古谷はあまり好きでない漬物類だったが、これが美味しくて御代わりまでしてしまった。サクサクした歯ごたえは、古谷を感動させた。
「お婆さん、こんな美味しい漬物、生まれて初めて食べました。漬物屋でも開いたら繁盛しますよ」と、誉めそやした。
「ははは、こんな山奥で店屋ができるかよ」
門田は、三杯目のご飯と、たっぷりあった白菜の漬物を、撫で食いしながら笑った。
古谷は、暑くなったと上着を脱いだ。太っ腹っを撫でながら玄関口を見た。
「げぇ!」
思わず声が出た。日が射し込んできて、ぐっと暑くなってきた。
「門田さん……あれ……」
古谷は、玄関口を指差した。口をもぐもぐさせた、健啖家門田は、顎をしゃくって、“見てこい!”と、指図した。
古田は、靴を履いたつもりがつんのめって、片方の靴が玄関口まで吹っ飛んだ。
「何を慌ててんだい」
門田は、箸を振りかざして笑った。
古谷は、ケンケンしながら玄関口まで行き、飛んだ靴を履き直して玄関を開けた。
「おおっー!」
雄叫びに近い声を出した。
耳の遠いお婆ちゃんでさえ、「洋介、戦でも始まるんかい」と、からかって聞いてきた。
「お婆ちゃん、気にせんでええで。起伏の激しい男やから」
「正義感の強い男かいや。友達はええ男じゃのう」
〈正義感、友だち、違うけど……。影響ないから、まぁ、ええか〉
「うんうん」と、お婆ちゃんに笑顔で返事をした。
玄関を開け、煌々と照らされる日を見て、古谷は言葉を失った。胸が異様に高鳴った。“ドックンドックン”する音が、頭に響く。
「なんだこれは……」
空を見上げて、口だけパクパクさせて二の句が継げない。
古谷が、胸が高鳴るほど驚いたのは、日が射しこんで来たのはもちろんだが、幾つもの神ノ木、樹木の先端の小枝からなる葉が、一緒に外側に大きく開き、茅葺き屋根にしっかりと日を当てている。
〈あれだけ生い茂って、葉が重なったものが……〉
古谷がこの現象に言葉を失ったのは、お婆ちゃんの“御呪い”っといった仕草だ。樹木に向かって、手をクルクルっとさせた手のひらは、どう見ても神ノ木、樹木に命じていたように思えた。まさか枝葉がこんなに開くか? と、言うくらい開いた。
〈あのお婆ちゃんの“御呪い“は魔法だ〉
古谷は漸く正気に目覚め、玄関から中に入り、門田を見つめ、答えを求めて空を指差した。
「なんて顔してんだ。さっき言ったろう、後で分かるって」
そう言って、手のひらをグルグル回した。
「ここは神の山だ。婆ちゃんの言うことは何でも聞いてくれる」
古谷は、ゆっくり瞼を閉じて首を振った。
〈なんてこったい。こん人、何か取り憑いてやがる。それにしても、このお婆ちゃん、神の使いか?〉
「なんでもええから、上がってこい」
古谷は、思わず深呼吸をした。囲炉裏を囲んで座り込んだ。古谷は、食事の時から珍しそうに囲炉裏を覗き込んだり、大きな樹木を削って造られたと思われる柱や、高い天井に見とれていた。
「なんだ、珍しいもんばっかりか」
門田は古谷の顔が、恐怖心から何か出て来やしないか、恐れ慄く顔に見てとれた。
「心配すんな。婆ちゃんが守ってくれる」
「守ってくれるって……。何か出るんですか?」
古谷の慌てる怖がりが、お婆ちゃんの気をくすぐったのか、顔いっぱいに笑顔の皺を寄せた。
「友だちは、可愛いのぅ」
「ははは、おまえ、婆ちゃんが気に入ったみたいじゃ」
門田は、高らかに笑った。
お婆ちゃんは、意味が分かっているのか、皺を寄せまくって可愛らしい笑顔を見せた。
「さて婆ちゃんよ、こいつだけは俺の裏の姿が見えたらしい」
門田の奇妙な言いっぷりに、お婆ちゃんはニコニコした細い目で、「うんうん」と頷いた。
ドキっとした古谷は、二人の奇妙なやり取りに、〈明日まで、俺もつかいな〉と、手に汗握って、臆病風に吹かれた。
「可愛いお兄ちゃんよ」
「か、可愛いお兄ちゃん!?」
お婆ちゃんのかわゆい物言いと、奇妙な呼びかけに、古谷は笑いにもならず、頬がピクピクっと動いた。
「ああたも、閻魔さんがお気に入りなんじゃろう」
「え、えんま! お気に入り? ああたも……」
古谷は、冷たい小さな針で全身を刺されたように、「うぅうー」と、呻き声で身震った。
「はははっ、おまえなんて声出してんだ」
門田は、腹を抱えて笑った。
「ふっふっふっ、ゲボッ」と、お婆ちゃんは笑って噎せた。
「別にいいじゃねぇか、気にするな」
「気にしますよ」
古谷に即答された門田は、ここまでビビるとは、無理もないかと思った。
「婆ちゃんよ、グタグタ言ったってビビるだけや」
「ほうかいのぅ。友だちは恐れじゃのぅ」
古谷は、「誰でもビビりますよ」の、「だ」と言った後の言葉をグウィっと呑み込んだ。刑事たるもの、ビビるとか御法度だ。首を振った。
それを見たお婆ちゃんは、「そんなに恐れんでええぞな」と、口の中をクチャクチャさせながら、曲がった指の手で、“よしよし”と、手招きの慰め顔を見せた。お婆ちゃんは、ふ~んと息を吹き出して、すぅーと吸い込み、肩と一緒に鼻からゆっくり息を吐き出して、古谷を見つめて喋りだした。
「ここの山はのぅ、神の山と言われとるがの、本当は閻魔さんが生まれたとこなんじゃ」
「……」
古谷は、生唾を呑み込むだけで、声を出すことさえ忘れ去っている。
「生まれたと言ってもな、人間がこの世に存在した頃からじゃから、何千歳かのぅ」
「ほっほっほ」と、薄黒い銀歯を見せて、目じりに数えきれない皺を寄せ、小さな笑い声を出した。
「……」
古谷は、ゆっくりと顔を門田に向け、助け船を求めた。ニヤリとされた。笑い返そうとしたが、頬が引き攣った。
「あたいは、ここで生まれ育った」
そう言った後、ゲホッと痰咳をしたので、古谷は、「ああっ!」と手を差し出し、「大丈夫ですか」と言うと、萎びた手で思いっきり握られた。
「ありがとう、ありがとう」と、唇を結んで、顔を皺だらけにしてニコリとした。
その唇を結んだ顔が、やけに可愛かった。小さな手で、萎びた手だったが、妙に温かかった。
「門田さん、何ちゅう恐ろしいとこですか。本当にこんなところで遊んでたんですか? この辺りの木は、樹齢何百年ってやつですよ」
古谷は、「でっけぇー」と、暗がりの中、硬い表情で大きな樹木を高々と見つめた。
「子供の頃は、ここに来てよく遊んだもんだ」
門田は飄々と述べた。
周りは暗く、細い道と言っていいのか、道らしきものと言っていいのか? ハッキリとした道しるべはない。子供が来て遊べる雰囲気は、これっぽっちもない。懐中電灯の光が、とんでもない獣でも捉えそうだ。身震いとかの胸中は超えている。獣の鳴き声でも聞こえたら、胸の鼓動は止まりそうだ。月の明かりが、高い樹木の先端の枝葉から洩れて、いっぱいに重なっている落ち葉を照らす。
「門田さん、この辺で神社を見つけたんですか?」
古谷の声は震えている。
「おまえ、刑事がビビるんじゃねぇよ」
「び、ビビりますよ」
古谷の唇は、ブルブルと微かに揺れていた。刑事たる者“ビビり”は御法度との信念は、絵に描いた餅に落ち込んだ。
シャリシャリと落ち葉を踏みしめながら、門田の言う伝説の神社を探し歩いた。
恐る恐る歩を進める古谷を尻目に、門田は慣れ親しんだようにさっと歩を進める。
右顧左眄(うこさべん)して何回と繰り返す、古谷の、「ちょっと待ってくださいよ」にも、門田は、聞く耳を持たぬ修験者ごとき歩を緩めない。一瞬目を離すと、小高い山の麓で見えなくなった。
「おぉー、あったぞー、古谷!」
見えなくなって不安げになる間もなく、木陰で寝ている小鳥が、目を覚まして飛び立ちそうな大声が聞こえた。
古谷は宙に一瞬浮いた。脈動は加速した。
「なんでしか?」
言葉にならない。
走って門田のところへ行こうと足を上げた途端に、大きく突き出た、くねくねした樹木の根っこに蹴躓いた。前のめりに手をついて、手のひらを擦り剥いた。
「痛てぇ! 何だよ、いったい」
自分に嘆いた。直ぐに立ち上がり、汚れた膝頭部分を叩きながらため息をついたが、図太い根っこに片足を乗せた途端に、ツルンと滑り転げ、太い根っこに尻を打ち付けた。
「痛てぇー!」
しかめっ面で尻を摩っていると、“若いの!”と、雲がかった声が、古谷の身体を透き通っていくかのように聞こえた。爽やかな風を一瞬に浴び、ドキリと鼓動が全身に響いた。
「……」
古谷は、口元が開いたまま、目の玉をきょきょろさせた。
「か、門田さん。な、何か言いました!」
声が出たか出ないか、囁いた。
“若いの! 迷ったか?”
「へぇ~」
息遣いだけで答えた。
「か、か、かどたさん」
パクパクさせて叫んだが、声は出ない。暗闇の中、大男の黒い影が目に入った。
〈かどたさ、んえ、えらく……、大男になりましたね〉
声は出ないが、心の呟きもぎこちない。
〈分かってる。門田さんじゃないのは分かってる……〉
恐怖におののく思いだ。
“若いの、迷うたか!”
〈俺は食われちまう!〉
とんでもないことが頭を過った。
門田であってほしいという願い事と、おどろおどろしい一心の紐帯は、目の前の影しか見えない大男に心情を披瀝した。
“若いの、あの坊主の連れ合いか?”
心を透き通っていくデカい声に、漸く自分を見つめ直せた。
〈坊主? そうだ、俺は刑事だ!〉
竦然(しょうぜん)たる顔つきだが、勇気を振り絞って声を出そうとしたら、デカい声が心の中に入り込んで来た。
“そうか、若いのは、坊主と一緒で刑事か”
〈えっ、なぜ分かったんだ〉
“若いの! 俺は心で話す。人間は口から言葉が出た時は、偽善がついて回る。だから舌を抜くのだ”
〈ええっー、あんたは閻魔さまか!〉
“ははは、それは畏敬の念のつもりか!”
デカい声で抑え込まれ、口をもぐもぐさせた。
〈舌が……、舌がない‼ 俺は悪いことはしてない!〉
咄嗟に、身体全体を使って叫んだ。
〈い、いえ、その……〉
しどろもどろの心の声は、樹木の根っこに座り込み、両手で身体を支える姿とマッチするように、控えるような心情に変化した。
〈け、刑事で、あ、ありながら、若い子を見て、平和で過ごせるのは、俺たちのお陰だろう! と、不徳なことを思ってしまいました!〉
“ははは!”
だだっ広い森の中に響くような笑い声だ。笑い声に釣られるように、門田が見えなくなった小山の麓を見て、不安に駆られた。
〈か、門田さんはどうなった?! やっぱり舌が無い! 俺はどうやって喋ってんだ〉
震えることさえできない。
〈もう終わりだ。俺は地獄に行くのか! だが、あの人こそ正義の人だ! あの人は、何人もの極悪非道な連中を成敗してきた! あん人は、閻魔さん、あんたの使いとして悪を退治してる。閻魔さん! あん人はこの世に必要な男だ。どうか、あん人だけは地獄に落とさんでくれ!〉
大きな影男、閻魔さまは言った。
“若いの、おまえはどうなんだ?
一瞬、眼の玉が一回転した。
〈くそ! なんて世界だ〉
“どうなんだ!”
声が、胸の中を透き通ってきた。
〈俺は刑事だ! どんなことでも悪に屈する訳にゃいかねぇ。気に食わねぇなら、地獄に落としてくれ!〉
“はははっ‼”
笑い声が、座っている尻ぺったにズンズンと響き渡り、気の根っこまで揺れている。
“おまえの‘実’は、よ~く見えている。おもしろいの、若いの! やんちゃで、慌てん坊のようだな。迷ったか? と聞いただけだ”
すると、影男のでかーい大きな手が伸びて、座って樹木にへばり付いている古谷の目の前に、にゅうーと差し出されてきた。
“若いの! 指切りげんまんじゃ!”
〈ええっー、ゆ、指切りげんまん?!〉
“ここで約束しろ! 哀しんでおる人々に光を与えてやれ!”
目の前に、樹木の根っこぐらいの小指を差し出してきた。古谷も小指を出した。自分の小指が、小人のように見えた。
“指切りげんまんだ!”
身体の芯まで届いた。
〈指切りげんまん〉
古谷の小指が柔らかく包み込まれ、一瞬にして気が遠くなった。
「古谷! 起きろ! 婆さまが飯用意したぞ」
うっすら門田の顔が見えた。
「うわぁー、閻魔!」
寝ぼけ眼で、大きな影男に見えた。
「何言ってんだ、おまえは?」
門田は、呆れに御礼をした。寝転んでいる古谷を覗き込んだ。黒い瞳は右往左往して、覗き込む門田の顔を捉えた。
「あぁ、門田さん!」
突然飛び起きた拍子に、覗き込んでいた門田の顔に頭をぶつけた。
「痛ぇー」
古谷の泣き叫ぶような声は、家の周りに茂る樹木の葉を揺らした。
外にいたお婆ちゃんが、「何事じゃ」と、入って来た。
「葉がびっくりしとるぞ」
ぶつかった古谷は、お婆ちゃんの不可思議な言葉に痛みさえ忘れた。
「はぁー? 何だらほい」
地元の田舎弁が、思わず古谷から出た。
門田は、声こそ出さなかったが両手で顔を覆っている。
古谷は、眠りからようやく覚め、我に返った。
「門田さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねぇだろう」
「えっ、どうしたんですか。夜中にあの薄気味悪い森で、閻魔さんの神社を見つけたと、あの森の中で大声出して……」
門田は、???の顔だ。
「大丈夫かって何のことや。そんなことより、おまえの頭突きで鼻の骨がどうかなったわ! そっちを心配しろ!」
「あっ、どうもすいません」
古谷は、思い出したように頭を下げた。
「しかし、どうやってあの森から帰ったんですか?」
「閻魔さまが帰してくれたんじゃ。洋介が子供の時、森で迷子になってのう、閻魔さまにここまで連れて来てもらっただや」
「えっ?」
古谷は、お婆ちゃんの奇天烈な話にポカンとした。
門田を見て、通訳まがいの助けを求めたが、鼻端を押さえながら眼を細め、小刻みに顔を振った。
“思い込んどる”
そう伝わって来た。
「そうなんですか」と、お婆ちゃんの笑顔に釣られて笑顔で返した。
「友だちは、よう寝とったのう」
寝てた? 古谷は不思議な顔をした。
「門田さん、昨日森に入って、伝説の閻魔神社を探しに行ったんじゃないですか……」
「何言ってんだ、おまえ! 婆さまの手を握ったまま寝ちまったんだよ」
「嘘だぁー!」
「だぁーあ、なにガキんちょみたいなこと言ってんだ!? おまえは、昨日ここで昼飯食って、今まで寝てたんだよ」
「嘘だろ……」
呟きは、トーンが落ち込んだ。
「嘘から出た実か? 実から出た嘘か?」
古谷の口から惑わすような言葉が。
「……」
お婆ちゃんはそれを聞いて、目が隠れてしまうほど皺を寄せて笑った。
「おまえ、何訳の分からんこと言ってんだ。早く飯食って退散するぞ!」
門田に当然のように怒鳴られ、現実に戻された。
外は今日も快晴のようだ。ようだと言うのは、樹木の先端の枝葉が、相変わらず日を通さなかったからだが、隙間から青空が見える。
「それじゃお婆ちゃん、お世話になりました。寝ちゃって申し訳ありません」
「いんじゃいいんじゃ。喜んじょるがな」と、曲がった指で山奥の方を指した。
「はぁ」
さすがに古谷も、お婆ちゃんの奇妙奇天烈な言動には、慣れまではいかないが驚きはしなかった。
「それじゃ婆ちゃん、また来るけ」と、門田は車のノブに手を当てた。
「洋介、友だちはやんちゃで慌てん坊じゃが、洋介を助けようとしたぞな。ええ友だちじゃ」
「えっ!」
古谷は、お婆ちゃんの一驚な物言いに、目ん玉を仰天させた。剥いた目ん玉のまま、門田に顔を向けた。
門田は、ゆっくりお婆ちゃんに顔を向け、「合格やな」、そう言って頷いた。
合格? 古谷の、?の表情に、門田はしかめた顔で、小刻みに顔を振った。
〈えっ、思い込み!〉
「帰るぞ」
門田は、お婆ちゃんに手を上げ車に乗り込んだ。
古谷は、お婆ちゃんに、「失礼します」と頭を下げ、顔を見た。
ニコリとして曲がった指で、高い樹木の先端を指した。葉が大きく揺れだした。
古谷は、爽やかに揺れる葉を見た後、お婆ちゃんを見ると、しっかりと手を振っていた。
「そういうことか!」
妙に納得して、微笑み返した。
相変わらずでこぼこの道のりを、バウンドしながら車は走っていた。古谷はしっかりハンドルを握り、バウンドに身を任せていたが、門田は助手席で、どたんばたんのすっ飛びを演じて、天井に手を当てたり、ウィンドウに顔をぶつけたり、ドタバタ喜劇を演じているように見えた。
山奥の道を過ぎると、漸く平坦な道に出た。
古谷は昨日の出来事を話すつもりだったが、道が落ち着いて来ると、門田は睡魔に襲われたようにスヤスヤと眠りに入った。結局、話せたのは僅かだった。
「門田さん、お婆ちゃんは不思議な人ですね」
「ん~、閻魔神社を唯一知ってる人だ。生まれた時から、あの森で育って遊んでいる。閻魔神社を守ってるし、閻魔さんの遊び相手だ。今じゃ、森と閻魔さんが婆さまを守ってる」
「……」
古谷の瞳は点になった。何から何まで奇怪で奇譚な一日だった上に、門田の話だ。
「門田さんは、閻魔神社を見たことがあるんですか?」
「小さい頃、親父と婆さまのとこに行って遊んでいたら、迷子になって、その時に見つけた。それ以来見たこともないし、見つけられもしない……」
「でも、お婆ちゃんは知ってるんでしょう」
そう聞いた時には、眠りに入っていた。
聞きたいこと、話したいことは山とあった。なんと閻魔さまに、子供のように扱われ、指切りげんまんまでさせられた。
「閻魔神社を見つけたぞ」と、門田の声。
〈あれは夢なんかじゃない! 第一、今日は寝られんぞ! と俺に言ったんだ。それに、お婆ちゃんの神がかりな“御呪い”。お婆ちゃんは俺が体験したことを知っていた。こんな不思議な体験は、俺の人生をも覆してしまう……〉
そうこう考えている間に、署に戻った。
慌ただしく、仲間の刑事たちが飛び出してきた。
目が覚めたのか、門田が、「なにごとや、事件やな」と呟いた。
「古谷、俺たちも行くぞ!」
まったく懸け離れた別天地から、現実世界に帰された。強盗犯に似た人物の男をパトロール隊の警官が発見し、職質しようとしたところ逃
げ出したとの事。そこから強行班の出場となった訳だ。数時間後にその逃げ出した男と思われる男を公務執行妨害で緊急逮捕した。
さて、明日の古谷の尋問が楽しみだ。門田は頬を震わせて笑った。
「門田係長、、昨日公務執行妨害で引っ張ってきた矢田磯路、古谷の奴が取り調べで強盗したことをゲロさせたぞ」
課長の国貞守が、少し青ざめた顔をして、パソコンと向かい合っている門田にそう言った。
「あいつも、落としの術を覚えたんですよ。はははっ」と、笑いながら背もたれに肘を付け、振り返って国貞を見た。
「どうしたんですか? 顔が青ざめてますよ」
門田は、唖然と突っ立っている国貞を気遣った。
「いや、それが……」
様子がただ事じゃない。
門田は立ち上がって「どうしたんですか?」と、聞き直した。
「びっくりするな!」
「ええ、びっくりしないと思いますけど」
飄々と答えた。好対照な二人だ。
「古谷の奴が、十年前に広島で起きた女子高生殺人事件まで自供させやがった!」
「ふっ、ふっ、ふっ」
門田は、気味の悪い笑いをした。
「何だ、気味が悪いな。どう思う」
「ふっふっ、閻魔さんが認めたんですよ」
「閻魔! 気味が悪いな、おまえら二人」
国貞は青ざめた顔のまま、自分の椅子に座って大きく息を吐いた。
一課の強行犯のドアが、忙しく開いた。
「門田さん、いま、杉田さんから電話がありました」
古谷が息を弾ませた。
「杉田って誰だ?」
「ハァー、今治署の杉田果実さんですよ」
「あぁ、果実か。どうした」
「東村山での派出所の事件、あの写真の容疑者を埼玉県警が検挙したそうです」
「で、どんな様子だ」
「もちろん否定してます」
「よっしゃ、警視庁東村山署に出張だ!」
古谷は、「ふぅふぅ」と、不気味に笑った。
「舌を引っこ抜きに行きますか!」
「いいね。地獄に叩き落とすか!」
門田は古谷の手を見て、「その手、どうした?」と、訊ねた。
古谷は、擦り剥いた手を門田に見せた。
「森でこけて、擦り剥いたんですよ」
手のひらを見せ、自慢げに言った。
「そうだったな、合格の証だ。よし、果実に連絡しろ」
「東京に行くぞ! ですね」
古谷は、急いで連絡をしにドアから出ようとした時、思いっきりドアの角で膝を打った。
「痛ぇー!」
「ははっ、やっぱりやんちゃな慌てん坊だ」
完