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きっかけは、ほんの些細な一言だった。
「……あいつ、最近なんか調子乗ってない?」
それを口にしたのは、誰ともわからない。
男子か女子かすら、もう曖昧だった。
ただその言葉は、教室にゆっくりと沈殿していった。
「日下部、やたら正義感出してね? 誰に頼まれたわけでもないのに」
「前はそんなんじゃなかったのにねー。てかさ……ああいうタイプ、一番裏切るよ」
そんな“私語”の裏側にあるのは、攻撃でも批判でもない。
ただの「ズレ」だった。
──日下部は、空気を壊す側に回った。
遥が黒板消しを持ち上げたとき、
彼が手を伸ばしてそれを代わりに受け取る。
その一瞬だけ、視線がいくつか交差した。
「……ねえ、過保護すぎない?」
「付き合ってんの?」
「は? ありえなくない?」
声は小さい。
でもそれは、聞こえるように出された“弾”だった。
遥は、思わず手を引いた。
手の中で、黒板消しが落ちる。
パタ、と乾いた音。
それだけで、何かが壊れた気がした。
日下部は拾おうとした。
でも、遥がそれより早く動いた。
「……いい。オレがやる」
誰も何も言わなかった。
それなのに、空気だけがざらついていた。
日下部は、その違和感に気づいていた。
けれど──まだ言葉にできなかった。
その日の放課後。
昇降口で履き替えようとした彼のローファーの中に、水を含んだ雑巾がねじ込まれていた。
「……は?」
思わずつぶやいた声に、誰も応えない。
ただ、背後で女子たちのくすくす笑う声がした。
悪意のないような、演技がかったような。
けれど、その“無邪気さ”こそが何より冷たかった。
日下部は、雑巾を取り出したあと、そのままローファーを履いた。
中が冷たく濡れているのを感じながら、歩き出す。
廊下の先に──遥がいた。
気づいて、立ち止まる。
遥もこちらに気づいた。
でも、目をそらした。
「……おまえ、何か見た?」
声に出さなかった。
けれど、遥の肩が僅かに震えたのを、日下部は見逃さなかった。
──そうか。
あの空気は、遥にはとっくに見えていたんだ。
けど、口に出すことはできない。
遥にとって自分は“壊す存在”だ。
遥はまた、自分を責めている。
その夜、日下部は思った。
(……そうだよな。あいつが壊れてないわけ、ないんだ)
守ることと、巻き込むことの境界は、曖昧すぎた。
──だが、もう遅い。
誰も、明確には言っていない。
でも、クラスの“空気”は確実に変わっていた。
次に“壊すべき対象”が、ゆっくりと日下部へと向かいはじめている。
そして──蓮司はそれを、笑いながら遠くから見ていた。