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鬱蒼とした森の奥の奥で人工的に開かれた場所に建つ、魔女の館。領主の別邸でもあるその屋敷の広々としたホールの床に、男は頭をべたりと擦り付けていた。とにかく今はそれしか出来ることはなかった。
父親から薬店を譲り受けてから二年と少し。自宅兼用の小さな店だったが、街では唯一の薬屋なので売上も絶えることはないし生活するには困らなかった。
店の売上の大半は森の魔女が作る薬だった。街の人は勿論だが、他所から来る旅人や冒険者などがまとめ買いをしていくことも多い。彼らから聞くところによると、グラン領の魔女の薬の品質が良いのは当然なのだが、他と比べてもかなり価格が安いらしい。
だが、困ったことに入荷状況はまちまちで常に品薄状態だった。特に人気の回復薬に至っては幾ら催促してもなかなか納品されてこない状態が続いていた。
先代の店主である父に相談しても、「魔女様はそういう方だから」と言われるだけで一向に状況は良くはならなかった。「他所の魔女とは違って生活の為に薬作りされている訳では無いから気長に待ちなさい」と言われても、売れるのが分かってるのに納品が少ないことに苛立ちを感じていた。
そんな中、ついに残り少なかった回復薬の在庫が完全に底を尽きてしまった。もう我慢の限界とばかりに「回復薬無しの納品は受け付けない」という脅しとも受け取れるような手紙と共に薬瓶を送りつけてみた。するとどうだろう、今まではどう催促しても返ってくることが無かった青い瓶が次々に送り返されてくるようになった。
当然のように入荷すればすぐに売れていたが、しばらくすると少しずつ在庫にも余裕が出始めてきた。そんなある日、一人の行商人が店を訪れてきたのだった。彼は言った。
「グランの魔女の薬なら、どこに持って行っても売れるぞ」
元々安く仕入れることができているので多少の輸送費を掛けても十分に儲けは出る。その費用分を価格に上乗せしたところで、一般的な薬の値段とは変わらないし、何よりも品質は問題ない。
薬店の若い店主はあまり深く考えず、先代に相談することもなくその話に乗ってしまった。
ソファーに腰掛けるように促され、おずおずと森の魔女の向かいに座ってみたものの、まともに顔を上げることができないでいた。慣れないフカフカの座り心地も全く落ち着かなかった。
「き、近隣の領地で、販売するとは聞いております……」
緊張のあまり、声が震えていた。自分には場違いとしか思えないこの空間に、見たこともない高価そうな調度品の数々、向かい合っている相手が自分よりも遥かに歳若い娘であろうと、完全に萎縮してしまっていた。
「具体的には?」
「わ、分かりません……」
実際に売り捌いているのは彼に話を持ち掛けてきた行商人だったので、詳しい販売ルートは聞いていなかった。ただ言われるままに薬を渡して、その対価を受け取っていただけだった。
ベルは眉をひそめて、じっと男を見ていた。
「もし国外に持ち出されていたら、どういうことになるかしら?」
他国へ薬の持ち出しをすれば、他国の戦力補強に手を貸すことになる。もし対外関係にある国に流れたとなると、それは言うなれば売国行為に値する。どこの国へ持って行っても間違いなく回復薬や傷薬などは重宝されることだろう。
「国を超えていなくても、他の領での販売行為は魔法使いの倫理に反するわ」
魔法使いにはそれぞれの領域がある。他の領地にはそれぞれの魔法使いがいて、その領内の調薬などを担っている。もしベルの薬を他領で販売したとなると、そこの領の魔法使いの領域を犯すことになるし、さらに価格の安い彼女の薬が侵犯してくることでその領での薬の価格崩壊にも繋がりかねない。
他領とのトラブルは、領主である叔父にも迷惑をかけてしまうだろう。
「も、申し訳ございませんでしたっ!」
腰掛けたまま、膝に付いてしまいそうなくらいに頭を下げた。道具屋の女主人から届けられた手紙を読んだ瞬間、自分のしでかしたことの重大さにやっと気付いた。店舗以外での販売はしていないかという確認の文面の下に付け加えられた、場合によっては契約の見直しをという一文に、頭から血の気が引いていくのを感じた。
彼の店から魔女の薬が無くなれば、間違いなく経営は成り立たない。薬の販売ならば許可さえ取れば道具屋にも出来るし、グラン一族の資金力があれば新しい薬店の一つや二つ新設することだって容易い。
「残っている分は直ちに回収いたしますっ。金輪際、店舗以外での販売はいたしませんっ!」
なのでどうか、契約解除だけは……と必死で懇願する薬屋に、ベルは冷ややかな目を向けた。裏切られるのは好きじゃない、けれど、ただの出来心だから大目に見てやってくれと言っていた庭師の言葉を思い出し、ふぅっと溜息を一つついて心を落ち着ける。
「二度目は無いわ」
「はい。肝に銘じます……」
涙目になりかけている薬屋に、今後は必要な分以外の発注はしてこないようにと釘を刺す。調薬もそろそろ飽きてきたから丁度良い。
「その行商人って、次はいつ?」
「特に決まってはいませんが、週に一度ほど顔を出しに来ます」
薬の相場も理解しているようだし、横流しのルートも持っている。薬屋のことは見逃しても、そちらは放っておく訳にはいかなさそうだ。彼が言う行商人とやらのことをさらに詳しく聞き出すと、ベルは外に向かって魔力を飛ばし、契約獣を呼び寄せた。
「報告はしないつもりだったけど、そういう訳にはいかなさそうね」
その言葉を聞いて一気に顔を青ざめさせた薬屋に、きちんと指示に従えば問題ないと言い聞かせる。今後の対応は森に籠っているベルではどうしようもない。後は叔父に任せようと手紙の準備をしに作業部屋へと向かった。
後に残された薬屋は途中までマーサに付き添われながらも、ふらふらと廃人のような足取りで館を出て行った。とりあえず職を失うことはなかったと、ホッと息がつけるようになるのはしばらく後になってからだろう。ベルの手紙が本邸へと届けば、しかるべき場所での事情聴取が始まるのだから。