自宅へ戻った杏樹はすぐにバスルームへ向かう。
正輝に触られた身体が穢れたような気がしてすぐに洗い流したかった。
身体中を念入りに洗った杏樹はバスタブにゆっくりと身体を沈める。徐々に身体が温まって来ると漸くホッとした。
ジーンズとカットソーに着替え髪を乾かすとお腹がキュルルと鳴った。
(あんな事があってもお腹は空くのね……)
杏樹はキッチンへ行き冷蔵庫を覗く。
(今日買い物をする予定だったから冷蔵庫は空っぽだわ)
杏樹は仕方なくインスタントの袋麺を取り出すと塩ラーメンを作り始めた。
野菜室に残っていたキャベツと人参を切って鍋に放り込む。ちゃんと炒める気力がなかったので手抜きだ。
チャーシューの代わりに煮卵を載せてラーメンが完成した。
テーブルへ移動し早速食べ始める。
室内が静かだと色々と思い出してしまうので慌ててテレビをつけた。すると画面には賑やかなお笑い番組が映し出されたので杏樹はホッとする。
テレビを観ながらラーメンを食べ終えた時、インターフォンが鳴った。
液晶画面を見ると優弥が立っていた。
「副支店長!」
杏樹は慌てて玄関へ向かった。
ドアを開けるとホッとしたような表情の優弥がいた。手にはビジネスバッグと紙袋を提げている。
自宅へ帰る前に杏樹の家に寄ったようだ。
「よかった、顔色もだいぶ良くなったな」
「色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いや、悪いのは君じゃないから。ちょっと入ってもいいかな?」
「あ、どうぞ」
「じゃあお邪魔するよ」
優弥は中に入ると杏樹が出したスリッパを履く。
リビングへ入るとすぐに優弥が言った。
「この匂いは塩ラーメンだな」
「えっ? 匂いだけでわかるんですか?」
「ハハッ、俺は鼻が利くんだ」
「凄い…でも副支店長はインスタントラーメンなんて食べるんですか?」
「食べるよ。インスタントもハンバーガーも牛丼も……ちゃんとした物を作るのは週末くらいだよ」
「そうなんですね」
杏樹は少しホッとする。杏樹もたまにジャンクフードを食べたくなるからだ。
「ほら、これ」
「え?」
「作る元気がないだろうと思って……と言ってデパートの閉店間際に飛び込んだからこれしか買えなかったよ」
杏樹が紙袋を受け取り中を覗くと、中にはとんかつの名店のかつサンドが2人分入っていた。
「うわ、これ大好きです」
「俺もだ」
「あ、副支店長はお夕飯まだなんですね」
「うん、ここで食べていってもいい?」
「もちろんです。今お茶淹れますね。あ、それともコーヒーの方がいいかな?」
「とりあえずお茶で。一緒にケーキも買って来たからコーヒーは後にしよう」
「え?」
杏樹はびっくりしてもう一度紙袋を覗く。すると中には駅前のケーキ店の箱も入っていた。
「うわ、ありがとうございます」
「甘い物はリラックス効果があるからな」
優弥は無造作にネクタイを外すとバッグの中へしまった。
杏樹がキッチンへ行きお茶の準備を始めると優弥が聞いた。
「で、未遂だったのは間違いないんだよな?」
それが何の事を言っているのか杏樹はすぐにわかった。
「はい、間一髪でした。あの時副支店長達が来てくれなかったらと思うとぞっとします」
杏樹が苦々しい顔で答える。
「間に合って良かったよ。あの後支店長達と話し合った結果、森田は処分が決まるまで自宅謹慎になった。処分と言ってもおそらく懲戒解雇になると思う。で、本部へ報告したら警察へ被害届を出すかどうかは杏樹の判断に任せると言っていた。どうする? 奴を警察へ突き出すか?」
「…………」
『警察』という言葉に杏樹は緊張した。今自分の身に起きている事がまるでドラマの中の出来事のような気がして実感が湧かない。そこで不安に思った事を優弥に聞いてみる。
「もし警察に被害届を出したら色々聞かれるんでしょうか?」
「そうなるだろうな」
「実家の親にも知られてしまいますよね?」
「多分な」
「あと私と森田さんが以前交際していたので、もし警察に話しても単なる痴話喧嘩みたいに思われないでしょうか?」
「うーん、それはなんとも言えないけど、でも俺がついて行ってちゃんと説明してやるからそこは心配するな。俺は実際にこの目で見たんだからな」
「すみません……あ、あともし被害届を出したら銀行にも警察が来ますよね?」
「うん。当時の状況の聞き取り調査くらいはするだろうな」
「そうするとみんなに全部わかっちゃいますよね?」
そこで優弥は真剣な表情で言った。
「いいか杏樹、こんな卑劣な行為は決して許されるものではないんだよ。ただ被害を訴えるとどうしても被害を受けた女性側に注目が集まってしまうからそこは覚悟が必要かもしれない。もし杏樹が森田にきちんと制裁を加えたいというならもちろん協力は惜しまない。しかし杏樹がご両親や仕事仲間に隠しておきたいと思うのならそれもアリだ。これは支店長から杏樹への伝言だが、銀行や支店に迷惑がかかる云々は一切考えなくていいと言っていたよ。すべては杏樹がしたいようにすればいいと」
「支店長が?」
杏樹は支店長の気遣いに胸が熱くなる。
そこで真剣に考える。
もちろん杏樹は両親や伯父にも心配はかけたくはなかった。
それに杏樹が正輝と交際していた事は三人とも知らない。出来ればこのまま一生隠しておきたい。
でももし杏樹が被害届を出せば三人には全て知られてしまう。いや、三人だけではない。同僚達にも迷惑をかけてしまう。
考えた末杏樹は決心した。そして勇気を出して優弥に伝える。
「被害届は出しません。未遂でしたし森田さんには銀行からの処分だけを受けていただきます」
「それで後悔はないか? 森田をきちんと反省させる為には警察へ突き出すのも手だよ」
そこで杏樹はもう一度考える。
その時杏樹の脳裏に付き合い始めて間もない頃の正輝の笑顔が過った。
もちろん正輝に対する怒りはあるが、全てを失い自暴自棄になっていく元恋人の姿を見るのも辛い。
だから彼には失職という形の罰を受けてもらう。そしてそこで充分反省してもらえればいい。
そして今後は杏樹とは無縁の世界で生きていって欲しい…杏樹は心からそう願った。
「大丈夫です。被害届は出しません」
「了解。それなら支店長にはそう伝えるよ。明日は出社出来そうか?」
「大丈夫です。皆気づいていないみたいなので」
「うん、それは大丈夫だ。役職者以外は誰も知らないから安心しろ」
「ありがとうございます」
そして杏樹はお茶をテーブルへ運んだ。
その後優弥はガラリと話題を変えた。今日外回り先であった事を色々と杏樹に話して聞かせる。
優弥はとにかく杏樹の心をリラックスさせようと楽しい話ばかりを続ける。
ラーメンを食べた後の杏樹はかつサンドを全部は食べられなかったので半分優弥にあげた。
しっとりふわふわパンの高級かつサンドはとても美味しかった。
食事の後はコーヒーを淹れ優弥が買って来てくれたケーキを二人で食べた。
甘いケーキは杏樹の心を一気にリラックスさせてくれた。
デザートを食べ終えると優弥が席を立ってから言った。
「今日は杏樹の家に泊まるよ。でも一旦家に帰ってシャワーを浴びて着替えてくる」
「え?」
杏樹は驚く。
「大丈夫だ、今夜は何もしない。ただ杏樹と一緒にくっついて寝るだけだ。あ、それともうちの広いベッドの方がいいか?」
「えっと……どちらでも」
「じゃあこっちで。狭いベッドの方がくっつけるしな」
優弥はニヤリと笑うとバッグを手にして自宅へ戻った。
40分後、優弥が戻って来た。
優弥は細身の黒のスウェットにカーキ色のトレーナーを着ている。スウェット姿もさまになっていた。
杏樹は一人で寝るのが心細かったので優弥の優しさが嬉しかった。
その時突然優弥が杏樹の前で両手を大きく広げた。
「よーし、杏樹、来いっ!」
それは初めて出会った日の夜、優弥がホテルで杏樹にした仕草と同じものだった。
杏樹には目の前の光景がまるでデジャブのように思えた。
あの日酔っていた杏樹は魅力的な優弥の笑顔とウッディアロマの香りに誘われ何のためらいもなく逞しい腕の中へ飛び込んだ。
杏樹はあの時を思い出しながら思い切り優弥の腕の中に飛び込んだ。
飛び込んだ瞬間大粒の涙が溢れてくる。そこで杏樹は激しく泣き出した。
切ない声でわんわん泣く杏樹を抱き締めながら優弥が耳元で囁いた。
「我慢する必要はないぞ。俺の前ではもう我慢するな」
その声はどこまでも果てしなく優しい。
「だって……だって……うぅっっ……」
「思っている事を俺に全部ぶつけろ」
「うぅっ……だって…いくら振られた相手…でも……一度は好きになった…人だから……だから情けない姿は……見たく…ない……ヒック……」
そこで優弥は更にギュッと抱き締めてから杏樹の頭を優しく撫でる。
「そうだよな、男は何があっても女にみっともない姿だけは見せたら駄目なんだ……それなのに森田は本当に馬鹿だよなぁ…」
杏樹は涙を流しながら優弥の腕の中でうんうんと頷く。
そんな杏樹の事を優弥はしっかりと守るようにいつまでも抱き締め続けていた。
コメント
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この優しさはたまらなく嬉しいね!!
怖い目に遭い、身も心も傷ついている杏樹ちゃん.... 優弥さんの深い愛情と、優しい気遣いが嬉しいね😭 たくさん抱きしめて 癒してもらってね♡
どうしておなかがへるのかな(『おなかのへるうた』より) 確かに、ラーメンの後にカツサンドは、なかなかヘヴィ。 ビョーキなキノコにはカーーーーーーーーーッツ。では、足りんな。