(んっ、いい香り……この香り好きっ)
翌朝杏樹はウッディアロマの香りで目覚めた。
杏樹がこの香りを好きなのを知っている優弥はシャワーの後につけてきてくれたようだ。
その大好きな香りに包まれながら杏樹は眠りに落ち、そして今目覚めた。
優弥は杏樹が眠るまでの間、腕枕をしながら色々な話をしてくれた。
それは優弥が銀行マンとしてまだ新人だった時の事やニューヨーク支店に赴任していた時の事等、同じ銀行に勤める杏樹にとってはどれも興味深い話ばかりだった。
最初は夢中になって聞いていた杏樹だが疲れていたのかいつの間にかうとうとし始める。
眠りに落ちる瞬間瞼に軽く優弥の唇が触れたような気がした。そこで杏樹の意識は途絶える。
そして今もすっぽりと優弥の腕にくるまれていた。しかし杏樹はそこでハッとする。
(あれ? 昨日目覚まし掛けていなかったかも?)
杏樹が時計を見ると時刻は既に7時半を過ぎていた。
「キャッ、大変っ! 副支店長起きて下さいっ! 遅刻ですっ!」
「んっっ、杏樹……おはよう……」
「おはようなんて呑気な事を言っている場合じゃないですっ! 遅刻っ、遅刻しちゃいますっ!」
そこで優弥がパチリと目を開けた。
「マジか?」
時計を見た優弥はすぐに上半身を起こすと、同時に起き上がった杏樹にチュッとキスをしてから言った。
「杏樹、10分で出かける用意をしろ」
「はっ、はいっ……でも、もう間に合わないかもっ」
杏樹はいつも8時に銀行に着くようにしているので今からではとても間に合わない。それに気付いてからもうすでに5分経過しているのであと25分でロッカールームへ辿り着くのは絶対に無理だ。
「今日は奥の手を使うから大丈夫だ。とにかく10分後に玄関の前で待ってろ」
「わ、わかりましたっ」
そこで優弥はもう一度杏樹のおでこにチュッとキスをすると自宅へ戻って行った。
杏樹は急いで支度を始める。
とりあえず顔をさっと洗い、焦って震え気味の手で急いでメイクをする。
髪は寝癖を直したかったが時間がないので寝癖直しスプレーを吹き付けてからブラッシングをし後ろで一つに結んだ。
それから慌てて着替える。着替える際に慌て過ぎてストッキングを一足駄目にしてしまった。
そしてバッグの中身をチェックしてからバタバタと玄関へ向かった。
時刻は既に7時45分になっていた。
玄関の鍵をかけるとちょうど優弥も出て来たので二人はエレベーターへ飛び乗る。
すると優弥は地下1階のボタンを押した。
「え? 1階じゃ?」
「今日は車で行く。みんなには内緒だぞ」
「いいんですか?」
「大丈夫だ。たまに支店長や融資課長もやっているからな」
優弥はそう言って微笑む。
地下駐車場へ着くと二人はすぐに車に乗り込みマンションを後にした。
いつもワックスで軽くスタイリングしている優弥の髪は今朝はナチュラルなままだった。
時間がなくてそのまま来たのだろう。
スーツ姿はいつものようにビシッと決まっているのに髪型が違うだけでいつもと雰囲気が違う。
今日の優弥はソフトなイメージでまるで王子様のようだ。
「いつもと髪型が違いますね」
「時間がなかったからな。変か?」
「いえ、変じゃないです」
(凄く素敵です……)
杏樹は心の中でこっそりと呟く。
銀行の近くまでは10分かからずに着いた。やはり車だと早く着く。
「なんとか間に合ったな。俺は駅の反対側へ車を停めてくるから杏樹はここで降りて先に行きなさい」
「わかりました」
ひと気のない裏通りに入り優弥が車を停めたので杏樹はシートベルトを外した。
その時優弥が杏樹の頬に手を当て自分の方を向かせる。そして杏樹の唇を奪った。
「あ……」
触れるようなソフトなキスだった。唇を離すと優弥が杏樹の耳元で囁く。
「言うのを忘れていたけど、杏樹のスッピンは綺麗だったよ」
急にそんな事を言われたので杏樹は口を半開きにしたまま頬を染めた。
「やめてくれ、朝からそんな色っぽい顔を見せるのは…離したくなくなるだろう」
「え? そんなつもりじゃ……」
そこでもう一度杏樹の唇が塞がれる。
今度は熱く絡みつくようなキスだった。
「はぁっっ……」
杏樹が熱い吐息を漏らしたのを合図にキスはさらに激しくなる。しかしそこで優弥は名残惜しそうに唇を離した。
「これ以上やったらマズいな……」
そこで杏樹がクスッと笑う。
「副支店長、口紅がついちゃいました」
杏樹はバッグからハンカチを出すと優弥の唇を拭った。
「ありがとう。よーし、じゃあ仕事モードに切り替えるぞ」
「はい。じゃあ先に行ってますね」
杏樹は車を降りて歩き始めた。歩きながら杏樹を追い越していく優弥に手を振る。
優弥も運転席から手を振り返すとアクセルをグイと踏み込んだ。
「くそっ、可愛過ぎるぞっ」
優弥は嬉しそうに微笑むとコインパーキングへ向かった。
銀行に着いた杏樹がロッカールームへ行くとまだ誰も来ていなかった。
(そっか、車だからいつもよりも早く着いちゃったんだ)
杏樹が着替え始めて少しすると美奈子がやって来た。
「あれー、杏樹早いね。昨日は大丈夫だった?」
「美奈子先輩、昨日はありがとうございました。とりあえずなんとか落ち着きました」
「良かったー、もしかしたら今日休むんじゃないかと思って心配してたよー。あれ? 珍しいね、今日は髪の毛結んでる?」
「あ、は、はい……ちょっと寝坊して寝癖を直す時間がなくて」
そこで美奈子はピンときたようだ。
「ふぅーん寝坊ねぇーっ、へぇーそうなんだぁー♡」
美奈子はニヤニヤしている。
「ちっ、違いますよっ、違いますってば」
「あれ? 私まだ何も言ってないよー」
「先輩意地悪過ぎですっ」
「あははごめんごめん、でも杏樹の顔見たらすぐにわかっちゃった」
「そんなはずないですっ、勘違いですってばぁ」
そこへ女子行員が入って来たので話はそこで中断した。
「続きは窓口で聞くわよー」
「話す事なんて何もないですっ」
そんなやり取りをしながら二人は1階へ向かった。
そしていつものように二人並んで開店準備を始める。
そこで美奈子は根掘り葉掘り杏樹に聞いた。
「へぇー心配して来てくれたんだー、で一緒に寝たの? 添い寝? キャーッ、なんか副支店長優しいーっ!」
「せ、先輩、声大きいですっ! それに『副支店長』呼びはここではNGですっ!」
「じゃあ『F』って呼ぶわ。それにしても『F』はいい男よのぉー」
その時二階から優弥が下りてきた。優弥の姿を見た女子行員達が口々に優弥に話しかける。
「副支店長、今日はいつもと髪型が違いますねー」
「ほんとほんと、ナチュラルスタイルも素敵です」
「ヘアスタイルチェンジなんて何か心境の変化ですかー?」
すると優弥は微笑みながらこう答えた。
「女性もたまにイメチェンしたくなるだろう? それと同じだよ」
優弥は傍に集まって来た女性行員達にニッコリと微笑むと机の書類を持って再び二階へ戻って行った。
その後ろ姿をうっとりと見つめていた女子行員達はまた騒ぎ始める。
「あれ、絶対女の部屋に泊まったんだよ」
「私もそう思った。髪につけるヘアワックスがなかったからあのまま来たんでしょう?」
「え? でもネクタイは昨日と違うような。スーツも違うよね?」
「服は一式女の部屋に置いてあるんじゃない?」
「あーっ、副支店長って抜かりないから準備してそうだよねー」
「じゃあなんでヘアワックスはないの?」
「ちょうど切れちゃったとか?」
「なるほどー、それはあるかも」
「あーっ、やっぱり女いるんだぁー」
「がっかりー」
散々噂話をした後、女子行員達は自分の持ち場へ散っていった。
それを聞いていた美奈子が杏樹にコソッと言った。
「その女はここにいますよぉーっ」
「先輩っ!」
杏樹は顔を真っ赤にして美奈子に怒ると笑いながら開店準備の続きを始めた。
コメント
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美奈子先輩っっ🤣ハラハラした話の後だから、余計に和む🤭 杏樹ちゃん、元気が出たようで安心😊優弥さんがいてくれて心強いね🥰
先輩っ!🤭
くちびるにうばわれたぁ、あの、あいの、しんきろぉのなかで、みだれていた、このむね、こころ、どぉでもいいと(GLAY『口唇』よりブックオフ永田店長ヴァージョンで)悪魔のささやきに、仕事を休みたなるなぁ。