「――っ!?」
雫にその一撃が届く刹那、不意に感じた違和感。
“何だこのっ――身体にのし掛かる圧力は?”
錐斗の一撃は――身体は直前で阻まれていた。
マイナス電磁波――否、違う。これは何か“物理的”な力の類い。だが錐斗の速度域を止められる物理的な力等、現時点で存在しようが無い筈。
錐斗の右腕での一撃に対し、雫の突き出された掌。
「――んなっ!?」
その意味に錐斗は驚愕に目を見開き――絶句した。
見えない壁――己を止める程の、その力の意味に。
「氷……だと? そっ――そんなもんで!?」
そう。それは物理的な氷の壁。
「おっ――押し戻されっ!」
だが只の氷ではない。
雫の掌から波紋のように拡がる、幾重にも列なる氷の壁。
錐斗の身体はその膨大な質量に阻まれ、そして弾き飛ばされ――地に叩き着けられた。
「ぐぉっ! なっ……何だこれは!?」
錐斗はすぐに立ち上がったが、これで終わりではない。
目前に迫り来る、止めどなく拡大し前方はおろか――“全方位”から押し寄せる氷の積層。
逃げ場は何処にも無い。
「勝弘……終わりだ」
雫は掌を翳して終焉を告げる――
“フィールド・ゼロ・リバースバベル――【コキュートス】 ~反量子檻:第九圏層――氷獄霜陣”
迫り来る巨大な質量の氷、それは正に氷の牢獄。全てを呑み込むかのように錐斗を包み込もうとしている。
「ふっ……何かと思えば氷如きで俺を――」
だが錐斗は微笑を浮かべ、全く臆する素振りを見せない。
最初は戸惑ったが、所詮は物理的現象。己の破壊力の前では物質等、砕くのは容易――
「なら全てブチ壊してくれる!」
金色に輝く右拳を、眼前に迫る氷壁へと叩き付けていた。
氷は中心点から亀裂が入り、脆くも崩れ散る――
「……なっ?」
筈だったのに、それは崩れる処か――
“ひびすらも入らない……だと?”
一瞬、打撃で氷の膨脹は止まったが――それだけだ。
物理現象を超える威力を持つ筈のルシファーズ・アームの力が、物質に過ぎない氷を壊せないこの事実に、錐斗の思考も解答を提示出来ない。
「無駄だ――」
無から氷を形成しながら、檻に囚われる形となった錐斗へ雫は、遠目に冷たく言い放っていた。
「これは九階層から列なる、氷の重複結界層……。その相互反転作用で累積した重力も加わり、逃れる事も……如何な力を以てしても壊す事は出来ない」
その決して破る事が不可能な理由を。
※氷とは固体の状態にある水の事。無色透明で六方晶系の結晶を持ち、融点は通常の気圧で摂氏0度。これが所謂“普通”の氷だ。
だが――
「くっ! 何故っ――何故割れない!? この力で砕けない筈はっ――」
極めて高い圧力下では水素結合が縮み、水分子の配列が変わる。
錐斗は再度氷の壁を殴りつけるが、その氷面は微動だにせず。
氷は衝撃を加えると脆くも分解するが、それは通常の氷に於いて。
だが氷はその実――時と場合によっては、最も堅固な物質となる。
10万倍の大気圧では数百度の高温の氷が存在。
水分子が水素結合で強固に結びついた氷は――
「何故っ――!!」
砕く事も溶かす事も不可能。
「……嘆くには及ばん。“元”の地に堕ちるだけだ」
脱出――破壊しようと、何度も無意味な労力を繰り返す錐斗に対し、雫はこれが“必然”である事を事も無げに告げる。
「第九圈――“反逆地獄”は元よりルシファーの棲まう地……。本来の場所に還るのに何の不備もあるまい?」
そして――再び動かす。錐斗を包囲する氷壁を、その無慈悲な意向を以て。
“コキュートス”
全九階層に及ぶ地獄に於いて、その最下層に位置する『反逆地獄』。またを『氷地獄』、『絶対地獄』とも。
神に反逆した悪魔がその罪により氷の中に閉じ込められている世界で、サタンの――ルシファーの罪は此所に位置し、この地獄を統治する宰相でもある。
「――何て凄まじい氷なの……」
結界に守られた極寒の辺りを目の当たりにし、悠莉はその凄まじい質量の氷の力に――そしてこれ迄に見た事の無い、幸人の本気の力に、ただただ呆然とするしかない。
「幸人……お前は本気で――」
“勝弘を殺すだけじゃなく、その魂ごとロストさせるつもりか!?”
腕に抱かれたジュウベエの危惧。それは『何もそこまで』との思い。しかも敵対するしかないとはいえ、親友相手にだ。
これ程の質量から算出される威力の前では、肉体の死滅のみでは留まるまい。
それは滅殺――“全消去”。
“フィールド・ゼロ・リバースバベル・コキュートス ~反量子檻:第九圈層――氷獄霜陣”
※数十万気圧で結合した水分子の氷壁を九枚重ねに連ねる事で、事実上破壊する事を不可能とした『絶対地獄コキュートス』を模した力の総称。
その質量からなる圧力は重力とも比例して膨大なものとなり、その力に捕らえられた様は正に、神に反逆した罪人が地の獄まで堕とされる様相を呈している事からこの名が付いた。
数多の技力に分岐した雫の特異能の中でも、これは最上位技能力の一つに位置している。
「ふ……ルシファーを再度、コキュートスへと堕とす……ってか?」
迫り来る氷壁。錐斗も既に悟ったかのように見えたが、少々落ち着き払い過ぎている。
自身の力が通用しなかった以上、最早策は無い。潰されて終わり――の筈なのにだ。
「――だがっ! ルシファーがコキュートスを統治してる事を忘れたか!?」
錐斗は再度右腕を振り上げる。しかしこの氷壁を壊せない事は先刻承知の筈。
だがその刹那――光り輝くその右腕は、更にその形態を変えていく。
肥大化――それはかつての数倍は在るだろう、巨大な右腕へと。
「無駄だ……ルシファーで在るからこそ、未だにコキュートスへの獄縛を余儀無くされている。幾ら巨大化した処で、この氷地獄は破れない」
毒を以て毒を制する――雫の絶対なる自信。
「舐めんな! なら今こそ地獄の蓋をブチ抜いてみせる!」
そしてそれは錐斗もまた同じ。
だが追う者と追われる者、錐斗の不利は疑いようがない。
再度その巨大化した右拳を叩き付けるも、氷壁は微動だにしないからだ。
何度同様の行為を繰り返しても――結果は変わらない。
ただ無為に足掻いているように見えるのが、傍目には虚しいまでに滑稽に映った。
「堕ちろ……地の獄、その果てまで――」
闇と光の鮮明なコントラスト。残酷なまでの対比となった決着の刻。雫は緩やかにその終焉を告げた。
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