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#ヒューマンドラマ
Hp2
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王太子府に配属されて、三日目の朝だった。 この任務での名は、縫季。
香の海から人界へ落ちる感覚は、何度経験しても慣れない。 任務のたびに組み上げられる肉体は、毎回ほんの少しずつ癖が違う。
肺に空気を吸い込むと、喉の奥がまだ擦れる。 息を吸うたびに、肺が「新しい」ことを思い出させてくる。
足が地を踏む。靴底の感触は、まだどこか遠い。 指先で帳の端を触れば、その質感が薄い膜を一枚挟んだみたいにぼやける。
世界に馴染むには、もう少し時間がかかる。 いつものことだ――けれど、いつも、この違和感は消えきらない。
縫季は旅装を整え、倉の壁に映る自分の影を一瞬だけ見た。
三十手前に見える男。 几帳面で、清潔で、どこか余白がない。
「大人」に見える代わりに、若さが削られている。 真面目そうな佇まいだが、目の下に薄い隈がある。 寝不足というより、何かを抱えて生きている――そんな疲れ方だ。
けれど、その疲れが妙に色を持つ。
目を伏せた時の影、指先の落ち着き、声の低さ。 余裕がないはずなのに、なぜか人は安心する。
倉の管理役人たちは、こういう「真面目すぎる新人」を信用する。 余計な詮索もされない。
縫季は影から目を離し、周囲を見回した。
――殷の朝は早い。
王都の市場に活気が満ちるのと同時刻、縫季は「配給監査吏」としての巡回を始めた。 内庫司の末端官吏という立場は、この国の毛細血管を覗き見るには最適だった。
「――はい、次の者。米一升と塩一袋、確かに」
朝霧が漂う巨大な穀倉地帯。 厚く築かれた倉の前に、整然と並ぶ民たちの列があった。 縫季は手元の帳を突き合わせながら、運び出される物資の質と量を鋭い目で見極める。
(……まだ、指先の感覚が薄いな)
帳を繰る指が、わずかにぎこちない。 けれど、それも時間が解決する。いつものことだ。
帳の数は整っている。 米の量、塩の量、受け取った者の印。 どこにも齟齬はない。
だが縫季の目は、数ではなく別のものを追っていた。 墨の滲み具合。書き直した痕の有無。 欄外に走る細い注記――誰かが急いで書いた文字は、筆の運びが変わる。
(……帳は正しい。だが、正しすぎる)
現場で配給を受け取る民の顔と、 帳の数が、うまく噛み合わない。 帳には「足りている」と書いてある。 だが列の端の老人は、袋を受け取る前から手が震えていた。
記録に残るのは数だけだ。 震える手は、残らない。
「立派な倉ですね、ここは」
ふと、隣で作業を仕切る老吏に声をかけた。 老吏は誇らしげに白眉を揺らし、倉の壁を愛おしそうに撫でた。
「ああ、これは陛下が、即位されてすぐに整えられたものだ。 それまでは雨が降ればすぐに米が湿けちまっていたが、陛下が自ら設計に口を出されてな。 『民の腹を空かせるのは、王の不徳だ』と仰って、風通しのよいこの構造に作り替えられたんだよ」
「……王御自らが、ですか」
「そうさ。今でこそお体が優れず奥にお休みになられているが、陛下はいつでも民の声を直接聞こうとなさる方だ。 この配給の仕組みだって、陛下が礎を築かれた。 この方がおられるから、今の殷の安寧がある。我ら役人も民も、皆そう思っているよ」
老吏の声は、途中から少しかすれていた。倉の壁を撫でる手つきが、義務では出ない速さで止まる。 縫季はその指の止まり方だけで、これが上から言わされた台詞ではないと分かった。
縫季は改めて、巨大な倉を見上げる。
灯台の記録にある殷は、ここではない。 ――黒い香。玉座の影で震える目。涙を一筋だけ流しながら、『民を、犠牲にせよ』と命じる帝辛の姿。
だが今ここにあるのは、一人の王が民を想い、数十年をかけて積み上げてきた誠実な政治の結晶だ。
(帳の数は正確だ。だが、正確すぎる帳は現場を映していない)
それはつまり――この倉の美しさも、老吏の熱も、灯台の記録には残っていない、ということだ。
胸の奥に、小さな疼きが走る。
縫季は帳を閉じ、倉の周りをもう一度だけ歩いた。 壁の継ぎ目は滑らかで、石に触れた指先に、夜露の冷たさが薄く残る。 倉の裏手には排水溝が走り、落ち葉が詰まらないよう木の枠が渡してある。 誰かが、毎朝そこを覗き、棒で掻き出しているのだろう。
王の言葉が礎になり、名も知らぬ誰かの手が、それを毎日支えている。 そこが、妙に胸に刺さった。
次の工房へ向かおうと足を踏み出した瞬間、視界がわずかに揺れた。
――足が、まだ自分のものじゃない。
縫季は柱に手をついた。さりげなく。
「おい、新入り」
コメント
1件
うわあああ第2話もめっちゃ良かった…!!😭✨ 縫季くんの「まだ自分のものじゃない」体の違和感とか、帳簿は正しいのに「正しすぎる」って感じ取る目の鋭さ、もうプロすぎるでしょ…!しかも王様が民想いで作った倉庫の話、老吏の熱量が本物すぎて胸がぎゅってなったよ…「震える手は、残らない」の一文がもう刺さりまくり💘 灯台の記録と現実のギャップ、どう繋がっていくのか続きが気になりすぎる!!次話も待ってるよ〜📖💫