テラーノベル
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背後から声がかかる。
振り返ると、倉の管理を手伝っていた中年の役人が、心配そうな顔で縫季を見ていた。
「顔色が悪いぞ。昨夜ちゃんと寝たのか?」
縫季は帳を抱え直し、何でもない顔を作った。
「……大丈夫です。ただの寝不足で」
「地方から来たばかりで慣れないんだろう。無理するなよ。倒れたら元も子もないからな」
役人は善意で肩を叩き、去っていった。その瞬間、縫季の肩がわずかに強張った。
布地越しに伝わる掌の重み。
温かく、ざらついた感触。親しげな一撃は、ただ軽く叩かれただけだ。なのに、肌の下で何かが一瞬だけざわついた。
――まだ、この体は自分のものじゃない。
(ったく、もっと扱いやすい体にしてくれよな……)
感覚が過敏で、ちょっとした接触が妙に鮮明に残る。指先で帳を触るだけで質感がぼやけるように、人の手が触れると、熱が内側に染み込む。
縫季は小さく息を吐き、肩をさりげなくさすった。帳の端を強く握り、指の感覚を仕事の感触で上書きする。
(……馴染むまで、もう少し)
役人の足音が遠ざかる。倉の影が、朝の光に薄く伸びる。縫季は柱から手を離し、歩き出した。
ここでは、ただの「真面目すぎる新入り」だ。
穀倉を出ると、配給の袋を縫う工房がある。麻の匂いと、湿った土の匂いが混ざり合い、針が布を割く音が一定の速さで続いていた。
「破れが出やすいところは、二重に縫え。配給は途中でこぼしたら終わりだ」
年若い職人が、隣の手元を覗き込みながら言う。叱るというより、守るための言い方だった。
縫季は帳に印をつけ、糸の太さと針の摩耗を目で追う。
誰も誇らしげに語らない。けれど、皆が当たり前みたいに『足りるように』手を動かしている。
市井へ回ると、配給を受け取ったばかりの母親が、子の掌に塩をひとつまみ落として舐めさせていた。
子は顔をしかめ、すぐ笑う。
その笑い声が、朝の空気に軽く混じる。
縫季は一瞬だけ立ち止まり、その光景を記録するように目に収めた。
塩の白さが、別の白さを呼び出す。
灯台の記録にあった、骨の輪郭が浮いた小さな頬。泣いているのに声が出ない子供の顔。あの記録では、子供たちはただ泣くだけじゃなかった。笑おうとして、笑えなくて、喉を震わせていた。
今ここにいる子供は、まだ笑える。まだ、塩の味を知って、顔をしかめて、すぐに笑える。
灯台の記録にある『殷』と、いま目の前の殷が、うまく重ならない。重ならないからこそ、怖い。
そして、守りたいと思ってしまう。
記録とは、誰かが残すことを選んだものだ。ならば、残されなかったものは――
――任務は歪みを正すことだ。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
◆
この「良き時代」を守ろうとしているのは、病床にある陛下だけではない。
「おい、殿下がお見えだぞ!」
列の端から、さざなみのように歓声が上がった。
視線を向ければ、護衛も連れず、軽やかな平服姿で歩いてくる王太子、帝辛の姿があった。
(……殿下?)
縫季が呟く間もなく、帝辛は民の列に歩み寄り、気さくに声をかけ始めた。
ある老人には収穫の具合を問い、ある婦人には子供の成長を祝う。その姿は、先ほどの老吏が語った「国王」の面影をなぞっているようにも見えた。
「王太子殿下も、陛下のお心をそのまま継いでおられる。本当に、この国は安泰だ」
周囲の役人たちが安堵の混じった笑みを交わす。
縫季は帳を抱えたまま、少し離れた場所から帝辛の様子を観察していた。
帝辛は列の先頭に立つ農夫に声をかける。
「……それで、配給が届かなかったと?」
最前列の農夫が、恐縮した様子で頷く。
「はい、殿下。先月の末から、我が村には種籾の配給が……」
「どの村だ」
帝辛の声は穏やかだが、鋭い。
「東の、柳渓村でございます」
「柳渓か」
帝辛は少し考え、傍らに控える書吏に目を向けた。
「帳を」
書吏がすぐに帳を差し出す。その手が、ほんの一瞬だけ震えた。
(……?)
縫季は目を細めた。だが帝辛はそれを気にする様子もなく、帳を受け取る。
帝辛はそれを受け取ると、指先で項目を追い始めた。
その動作は速い。だが雑ではない。帝辛の目は帳の数を一瞬で読み取り、問題の箇所を特定していく。
「……ここだな」
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
帝辛は帳の一行を指差した。
「柳渓への配給は、三日前に倉を出ている。だが、途中の渡し場で滞っている」
コメント
1件
おお、第2話、めっちゃ良かった…! 縫季の「まだこの体は自分のものじゃない」感、めちゃくちゃ伝わってきた。他人の手の感触が異様に残る違和感とか、リアルだなあ。それと、灯台の記録の中の殷と、目の前で笑ってる子どもが重ならない怖さ、そして「守りたい」って思っちゃう気持ち、すごく刺さったわ。王太子の登場と、書吏の手が震えたシーン…何か来るな?続きが気になる!