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南部遊牧民連合は、阿鼻叫喚の中にあった。
昨日まで肩を並べていたはずのキプチャン軍は、すでにいない。
残された者たちは、逃げ惑い、追われ、斬られた。
スブタイは容赦しなかった。
そして――。
殺戮が終わると、モンゴリア軍はすぐさま馬首を返した。
向かった先は西。
大量の家畜、金銀、宝石、絹。
モンゴリアからもらった莫大な宝物を運びながら、
悠々と帰路についていたキプチャン軍の背後だった。
コンチャクが異変に気づいた時には、すでに遅かった。
地平線を埋め尽くす騎馬。
翻る旗。
昨日まで自分たちと共に戦っていた軍勢。
そこでようやく、コンチャクは悟った。
――騙された。
最初から。
スブタイは、自分たちを逃がすつもりなどなかったのだ。
「ユーリー!」
コンチャクは息子を呼んだ。
「逃げろ!」
「父上!」
「行け!」
息子の馬を叩き、わずかな護衛とともに戦場から送り出す。
そして自らは残った。
コンチャク率いるキプチャン軍はドニプル川まで追い詰められ――。
その日、草原に名を馳せた族長は、
ドニプルの流れに露と消えた。
戦いが終わった。
奪われた財宝は、今度はモンゴリア軍の前に山と積まれていた。
金。
銀。
宝石。
豪奢な織物。
数え切れぬほどの戦利品を前に、ジュベはしばらく目を輝かせていた。
やがて隣にいるスブタイを見る。
「なあ」
「なんだ」
ジュベは黄金の杯を一つ持ち上げた。
「これ、どうすんだ」
少し考えてから、
「俺、貰っていいか?」
「やるよ」
スブタイは、こともなげに言った。
「……いいのか?」
「ああ」
ジュベは黄金の杯とスブタイの顔を交互に見た。
「お前、こういうの欲しくないのか?」
「いらん」
「じゃあ何が欲しいんだ?」
その問いに、スブタイは少しだけ考えた。
そして遠く、西の地平線へ目を向けた。
「敵かな」
ジュベはしばらく黙った。
「……お前、本当に変な奴だな」
ドニプル川を越えた時、ユーリーの軍勢は、
もはや軍と呼べるものではなくなっていた。
鎧を捨てた者。
馬を失った者。
傷口を布で縛ったまま、ふらつくように歩く者。
誰もが泥と血にまみれ、ただ西へ、西へと逃げ続けていた。
父コンチャクは、もういない。
最後に見た父の姿は、迫り来るモンゴリア騎兵へ馬首を返したところだった。
「行け!」
そう叫び、息子を逃がした。
それから先のことを、ユーリーは知らない。
知る必要もなかった。
あの状況で、生きているはずがない。
ユーリーは何度も後ろを振り返った。
地平線の彼方。
いつ黒い騎馬の群れが現れるか分からない。
川を越えても。
森を抜けても。
街道を走っても。
恐怖は消えなかった。
あの男なら来る。
必ず来る。
そう思えてならなかった。
そして数日後。
ユーリーはようやく、ヴァンガルド帝国の帝都――モスコウビアへと辿り着いた。
モスコウビア。
ヴァンガルド帝国の心臓部、
エウロピアの盟主の居城である。
皇帝セヴェリウスは南部遊牧民を犠牲にして
時間を稼ぐ策をとろうとしていたが
彼の予想をはるかに上回る速度で、事態は動いていた。
「コンチャクが死んだ?」
大広間に響いた声には、驚愕が混じっていた。
玉座の前。
泥だらけの姿で膝をついているユーリーを、
セヴェリウスは信じられないように見つめていた。
「……はい」
ユーリーは掠れた声で答えた。
「父はドニプルの東で、敵を食い止めるために残りました」
「キプチャン軍は?」
「壊滅しました」
広間がざわめいた。
居並ぶ諸侯たちが顔を見合わせる。
ムスチラフは眉をひそめた。
「待て。お前たちは南部遊牧民と共に、モンゴリア軍と戦っていたのではないのか」
ユーリーは唇を噛んだ。
「……違います」
「何?」
「我々は騙されたのです」
そして語った。
モンゴリア軍がキプチャンへ同盟を持ちかけたこと。
南部遊牧民を見捨てれば、自分たちには手を出さないと約束したこと。
その言葉を信じ、コンチャクが兵を引いたこと。
そして――。
南部遊牧民を皆殺しにした直後、
モンゴリア軍が背後から襲いかかってきたことを。
話を聞き終えた広間には、しばらく声がなかった。
やがて一人の老侯が、低く呟いた。
「……野蛮人め」
別の貴族が立ち上がった。
「大公! 一刻も早く討伐すべきです!」
「奴らをドニプル川より西へ入れてはなりませぬ!」
次々と声が上がる。
だがセヴェリウスは黙っていた。
考えていた。
モンゴリア軍。
その兵力、およそ二万。
こちらは各地から兵を集めれば、それを大きく上回る。
問題は――。
時間だった。
敵の進軍が、あまりにも速い。
コンチャクが敗れたという知らせが届く前に、
その息子自身が帝都まで逃げ込んできたのである。
「急がせろ」
セヴェリウスは立ち上がった。
「南部諸侯すべてに伝えよ。兵を率いて帝都へ集結せよ」
「はっ!」
「農民兵でも構わん。動ける者は集めろ」
こうして帝都には、各地から軍勢が集まった。
歩兵。
騎兵。
弓兵。
大小さまざまな諸侯の私兵。
その数――およそ四万。
完全な統制が取れているとは言い難かった。
それでも、数だけを見れば十分だった。
敵は二万。
こちらは四万。
倍である。
やがてモンゴリア軍がドニプル西岸へ姿を現したとの報が届く。
皇帝は軍を率いて帝都を出た。
郊外の平原。
ヴァンガルド軍四万が陣を敷く。
その向こう。
地平線を黒く染めるように、
二万のモンゴリア騎兵が静かに並んでいた。
両軍の間には、広い草原だけがある。
皇帝は馬上から敵陣を眺めた。
「……あれが」
ユーリーが隣で答えた。
「モンゴリア軍です」
セヴェリウスは目を細めた。
想像していたより、静かだった。
雄叫びもない。
威嚇もない。
こちらの倍近い軍勢を前にしているというのに、
まるで恐れている様子がない。
ただ待っている。
その静けさが、妙に気味悪かった。
その時。
敵陣から、十騎ほどが進み出た。
「何だ?」
一人の騎士が目を凝らす。
先頭の騎兵は、白い布を掲げていた。
「使者です!」
ざわめきが広がった。
ムスチラフの眉が動く。
「使者?」
「はい。十名おります」
十人。
多い。
普通なら、一人か二人で十分なはずだった。
やがて十騎は両軍の中間で止まり、
武器を外した。
そのうち一人が声を張り上げる。
「ヴァンガルドの皇帝セヴェリウス殿に申し上げる!」
その声が草原を渡った。
「我らモンゴリア帝国軍は、貴国と争うためにここへ来たのではない!」
セヴェリウスの周囲で、諸侯たちが顔を見合わせる。
使者は続けた。
「我らの敵はキプチャンである!」
その瞬間。
ユーリーの顔から血の気が引いた。
「……駄目だ」
小さな声だった。
誰にも聞こえないほどの。
だが次の瞬間、ユーリーは馬を進めた。
「信じるな!」
突然の叫びに、周囲の視線が集まった。
ユーリーは敵の使者を指差した。
「皇帝陛下! あいつらの言葉を信じてはいけませぬ!」
使者は表情を変えなかった。
「キプチャンは我らとの盟約を破った。ゆえに討ったまで」
「嘘だ!」
ユーリーが怒鳴る。
「あいつらは父にも同じことを言った!」
その声は震えていた。
怒りなのか。
恐怖なのか。
本人にも分からなかった。
ただ一つ分かることがある。
また始まったのだ。
あの時と同じだ。
言葉で安心させ、
疑わせ、
仲間同士を分ける。
そして最後には――。
皆、死ぬ。
「ユーリー殿」
使者の一人が静かに言った。
「あなたがここにおられるとは好都合です」
ユーリーの背筋に冷たいものが走った。
「我らの要求は一つ」
使者は皇帝セヴェリウスへ視線を戻した。
「キプチャンのユーリーと、その一族を我らに引き渡されたい」
「そうすれば――」
草原を風が吹き抜ける。
モンゴリアの旗が、遠く揺れた。
「我らは貴国と一戦も交えることなく、東へ帰ろう」
沈黙。
諸侯たちは互いの顔を見た。
ユーリーは、その様子を見ていた。
一人。
また一人。
自分を見る。
その目が変わっていく。
ほんの一瞬前まで、
共にモンゴリアと戦おうと言っていた男たちの目が。
――まさか。
ユーリーは息を呑んだ。
そして遠く。
モンゴリア軍の中央。
馬上に座り、
ヴァンガルド軍四万を眺めている男がいた。
スブタイ。
彼は戦場を見ていなかった。
敵の数も見ていなかった。
十人の使者を囲む、
皇帝と諸侯たち。
そのわずかな動きを見つめていた。
誰がユーリーを見るのか。
誰が皇帝を見るのか。
誰が怒り。
誰が迷い。
誰が黙るのか。
そのすべてを。
隣でジュベが尋ねた。
「なあ」
「なんだ」
「あいつら、話し合いに行ったんだよな?」
「ああ」
スブタイは答えた。
ジュベは遠くの敵陣を眺めた。
「……十人も必要か?」
スブタイは少しだけ笑った。
「必要だよ」
「なんで?」
「十人いれば――」
その視線は、なおも敵陣へ向けられていた。
「向こうが勝手に考えて殺してくれるかもしれないだろ」
ジュベはしばらく黙った。
そして小さく呟いた。
「……やっぱり、お前怖えよ」
アドラル皇国
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#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
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コメント
1件
第5話、読み終えました。スブタイのしたたかさが本当に恐ろしいですね…「十人いれば向こうが勝手に考えて♡♡♡てくれる」という台詞、ゾッとしつつも戦略家としての凄みを感じました。ユーリーが再び同じ騙しの手口に遭い、周囲の目が変わっていく様子も切なかったです。人間の心理をここまで冷静に描ける作者さんの筆力に、毎回引き込まれています。