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柘榴とAI

225
ふわもちお餅
165
羽海汐遠
16,375
【あと4日】 最後の証言
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、耳の近くまで伸びた少し癖のある茶色の髪と、濃い茶色の瞳を持つ。紫色のシャツに灰色のパンツ、歩きやすい靴を合わせている。失われた文化を知ってから、自分の好みや感情を以前より表へ出すようになった。巨大地震が現実へ近づくにつれ、研究を続けながら避難についても考え始めている。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪に、細い樹脂縁の眼鏡を掛けている。背は低め。茶色の上着に深い緑のシャツ、灰色のパンツを着ている。長年文化学を研究してきたが、自分の研究対象そのものが大規模な社会実験の結果だったことを知り、これまで以上に極秘資料へ執着するようになっている。
戸倉
七十代後半ほどの老人。短い灰色の髪と深いしわのある顔を持つ。茶色の長い上着と灰色のパンツを着ている。文化抹殺計画について深い事情を知る人物。計画側との関係を問われても、これまで明確には答えていない。
瀬名トウジ
文化抹殺計画に参加していた記録担当者。当時四十代。短い茶色の髪を横へ流し、細い眼鏡を掛けていた。灰色の上着とベージュのシャツを着ていた。計画の進行状況を数値として記録していた一方、後年になるにつれて実験への疑問を個人的な日記へ残すようになった。
◆
午前五時五十七分。
水城レンは、揺れで目を覚ました。
音より先だった。
身体がわずかに左右へ動く。
寝台の横に置いた端末が、机の上を細かく滑った。
レンは目を開けた。
揺れている。
昨日までのような、一瞬の振動ではない。
ゆっくり。
長い。
壁。
照明。
収納棚。
部屋全体が呼吸するように動いている。
レンは寝台から起き上がった。
床へ足を置く。
まだ揺れている。
十秒。
十五秒。
二十秒。
ようやく弱くなる。
完全に止まるまで、三十秒近くかかった。
レンは端末を取った。
画面はすでに緊急情報へ切り替わっている。
広範囲で地震を観測。
複数地域で交通設備点検。
一部地域で停電。
沿岸部では潮位監視を強化。
レンは画面を進める。
今日の地震そのものは大規模ではない。
だが。
昨日までと違う言葉がある。
一連の地殻変動との関連を調査。
「一連」
レンが呟いた。
もう単発の異変として扱われていない。
微小振動。
地下水。
潮位。
地面の変形。
道路の亀裂。
そして今日。
広い範囲の地震。
レンは日付を見る。
あと四日。
胸の奥が冷たくなる。
戸倉は言った。
来る。
資料も当たっている。
一つ。
また一つ。
現実が極秘資料の記録を追いかけている。
レンは収納棚へ向かった。
紫色のシャツを取る。
着る。
灰色のパンツ。
靴。
鏡を見る。
顔。
眠そうではない。
緊張している。
眉。
口元。
昨日調べた感情表現。
隠そうと思えば隠せる。
でも今日は、そのままにした。
「怖い」
鏡の中の自分へ言う。
声にすると、少しだけ頭が整理された。
端末を鞄へ入れる。
その前に。
避難情報。
確認。
国外への交通。
確認。
航空便。
一部で予約増加。
まだ大規模な避難は始まっていない。
地震との関連が確定していないからだ。
レンは画面を閉じる。
研究室へ向かった。
午前七時二十一分。
駅。
いつもと違った。
人が多い。
壁面画面。
地震の映像。
棚から物が落ちた店舗。
停止した列車。
道路へできた細い亀裂。
沿岸部の観測設備。
それでも人々は静かだった。
大声で騒ぐ人はいない。
感情を抑える。
冷静に行動する。
社会が長年求めてきた姿。
レンは改札を通る。
列車は十五分遅れていた。
普段なら大きな問題だ。
今日は誰も文句を言わない。
待つ。
端末を見る。
ニュース。
専門家。
現時点では巨大地震の発生を断定できない。
観測を継続。
備蓄確認を推奨。
レンは画面を閉じた。
「断定できない、か」
自分は別の資料を持っている。
四日後。
そこまで書かれている。
列車が到着した。
乗る。
窓の外を見る。
昨日までより、景色を意識する。
建物。
道路。
川。
駅。
遠くの山。
あと四日。
この景色が変わる。
そう考えると、いつもの街まで違って見えた。
午前八時十九分。
文化学研究室。
扉を開ける。
秋庭教授がいた。
茶色の上着。
深い緑のシャツ。
灰色のパンツ。
机の上には鞄。
しかも大きい。
レンは扉を閉める。
「教授」
「ああ」
「その鞄」
「避難用品だ」
レンは少し安心した。
「ちゃんと準備してたんですね」
「君は?」
レンが自分の鞄を見る。
「……普通の鞄です」
教授が眉を寄せる。
「今日帰ったら準備しろ」
「はい」
「研究資料も複製を始める」
「国外へ?」
「その準備だ」
教授の端末。
大量の保存作業。
祭り。
音楽。
遊び。
服飾。
感情。
旅行。
文化抹殺計画。
レンは机へ近づく。
「全部?」
「可能な限り」
「まだ四日あります」
教授がレンを見る。
「四日しかない」
同じ数字。
言い方だけで重さが変わる。
レンは自分の机を見る。
九冊目。
数字の「9」。
その上に、小さな保存媒体。
そして一冊の古い日記。
紙。
角が傷んでいる。
表紙は茶色。
文字はない。
レンは手を伸ばさなかった。
「これが今日の?」
教授が頷く。
「九冊目に入っていた」
「日記?」
「計画参加者の私物らしい」
レンが椅子へ座る。
教授も隣へ来る。
九冊目を開く。
第九資料。
計画内部記録。
個人証言。
記録者。
瀬名トウジ。
レンの目が止まる。
「昨日の映像の人」
「そうだ」
文化抹殺計画。
会議映像。
淡々と説明していた男。
文化を禁止してはいけない。
対象者自身が不要と判断する状態を作る。
事実の中から、計画に適した事実を選ぶ。
昨日、その声を聞いた。
レンは日記を見る。
「本人の日記?」
「複製ではないようだ」
「本物?」
「そう書かれている」
レンは慎重に表紙を開く。
最初。
日付。
計画開始より前。
文字は整っている。
計画承認。
対象地域決定。
調査準備。
文化分類。
レンは読み進める。
瀬名は最初、計画を疑っていない。
むしろ期待している。
文化活動が人間社会へ与える影響を大規模に測定できる。
長期実験。
世代単位。
前例のない規模。
「研究者ですね」
レンが言う。
教授が頷く。
「最初はな」
頁を進める。
実験開始。
対象文化第一群。
祭り。
娯楽。
遊戯。
服飾。
旅行。
音楽。
映像。
物語。
食文化。
収集。
装飾。
祝い。
「こんなに」
レンの指が止まる。
昨日聞いた以上に多い。
教授が別の資料を確認する。
「同時ではない」
「順番?」
「影響を測るためだろう」
日記。
最初に祭り。
調査。
事故率。
混雑。
騒音。
費用。
廃棄物。
地域住民の苦情。
全部、実際の記録。
瀬名の日記には、その数字をどう使ったのかまで残っていた。
事故発生率そのものは低い。
しかし絶対数で提示すれば印象が変わる。
レンは読み返す。
「絶対数」
教授が資料を見る。
「参加者が多ければ事故の件数も増える」
「割合じゃなく件数を見せた?」
「そういうことだろう」
次。
騒音。
祭り開催日の苦情件数。
増加。
だが開催日以外と比較するのではなく、苦情の内容だけを連続して提示。
「嘘じゃない」
レンが言う。
「全部、本当にあった」
教授が頷く。
「だから強い」
日記。
計画開始一年。
祭り参加意欲。
七十八パーセント。
三年。
六十九。
五年。
五十七。
十年。
四十一。
十五年。
二十三。
レンの指が止まる。
数字。
昨日まで各資料で見てきた数字。
ここにはさらに細かい。
地域別。
年代別。
年齢別。
子ども。
若者。
中年。
高齢者。
参加したい。
どちらでもない。
参加したくない。
「ずっと測ってた」
レンが呟く。
教授が別の頁を見る。
「毎年だ」
「国全体を?」
「標本調査だろう」
「何十年も」
「実験だからな」
レンは次を読む。
祭り参加率が一定以下へ低下。
第一目標達成。
地域運営組織の高齢化。
後継者減少。
自主的中止増加。
重要なのは最後。
行政による禁止件数。
ほぼなし。
レンは日記を閉じかけた。
「本当に自分たちでやめた」
「計画通りだ」
教授が言う。
レンはまた開く。
次。
ゲーム。
初期調査。
一週間の平均遊戯時間。
年齢別。
ゲーム所有率。
友人と遊ぶ頻度。
ゲームの話をする頻度。
そこから。
過度な利用。
睡眠不足。
学習時間。
費用。
依存。
問題事例を集める。
教育資料。
報道。
保護者向け冊子。
企業研修。
瀬名の日記。
禁止を求める必要はない。
遊戯を選択した者が、時間管理能力の低い人物として見られる状態が形成されつつある。
レンは眉を寄せる。
「遊んでるだけで」
教授が続ける。
「人間の評価へ結び付けた」
日記。
遊ぶ。
暇。
暇がある。
仕事が少ない。
努力不足。
自己管理不足。
生産性が低い。
少しずつ言葉がつながっている。
「ゲームそのものを攻撃しなくても」
レンが言う。
「遊んでる人を恥ずかしくさせればいい」
教授は何も言わない。
その理解が正しいから。
日記。
ゲーム利用率。
八十一。
七十四。
六十。
四十二。
二十七。
十一。
三。
最後。
測定不能。
市場規模縮小。
開発企業撤退。
専門職減少。
新作供給停止。
レンは数日前に触った盤上遊戯を見る。
「ゼロになったんじゃない」
「作る人がいなくなった」
教授が言う。
「遊ぶ人が減る。売れない。作られない。さらに遊べなくなる」
「それで消える」
レンは日記を進める。
音楽。
服。
旅行。
食。
笑顔。
全部に数字がある。
音楽を自発的に聞く時間。
楽器を演奏できる人の割合。
服を外見で選ぶ割合。
旅行希望率。
写真撮影時に笑う割合。
食事を味で選ぶ割合。
誕生日などの祝いを行う家庭。
物語作品を読む時間。
収集を趣味とする人。
装飾品の所有数。
文化を一つずつ数字へ変えている。
「文化って」
レンが言う。
「数字にできるんですね」
教授が少し考える。
「一部はな」
「一部?」
「回数。時間。人数。金額。そういうものは測れる」
教授は日記を指す。
「だが、好きだったかどうかまでは完全には測れない」
レンは自分の紫色の袖を見る。
この服が好き。
数字にすると何になる。
週何回着た。
購入額。
使用期間。
それでも、
着たとき少し嬉しい。
それは数字だけでは残らない。
日記を進める。
実験開始二十二年。
瀬名の文章が少し変わる。
最初は、
成功。
達成。
低下。
有効。
効率。
そんな言葉が多かった。
この頃から、
疑問。
という言葉が現れる。
今日、帰宅途中で旧劇場の前を通った。
閉鎖されていた。
幼い頃、親に連れられて入った記憶がある。
レンは止まる。
「瀬名自身も文化を知ってた」
「実験前の世代だからな」
日記。
劇場の閉鎖は計画上の成功である。
しかし、建物の前で成功という言葉を使うことに抵抗を感じた。
次の日。
計画会議。
文化活動率の低下を報告。
評価。
良好。
その夜の日記。
何が良好なのか分からなくなった。
レンはゆっくり頁をめくる。
午前十時十一分。
研究室が揺れた。
レンの手が止まる。
日記の文字も揺れて見える。
カタ。
カタ。
窓。
棚。
再生装置。
揺れは小さい。
だが長い。
教授が日記を押さえる。
十秒。
止まる。
二人とも端末を見る。
地震情報。
広範囲。
朝とは別。
規模は小さい。
一部鉄道で再び点検。
レンは時刻を見る。
「二回目」
教授は答えない。
ニュースを開く。
専門機関。
地殻活動が通常より活発。
大規模地震との関連は不明。
レンは笑わない。
「いつまで不明なんでしょうね」
「科学的には、断定できる材料が足りないんだろう」
「こっちにはある」
レンは九冊目を見る。
教授が言う。
「だからこそ、この資料が本物か最後まで確認する必要がある」
レンは日記へ戻る。
実験開始三十一年。
瀬名。
街から音が減った。
以前は店舗から音楽が流れていた。
現在は案内音のみ。
効率は改善。
苦情は減少。
だが歩いていても場所ごとの差を感じにくい。
実験開始三十五年。
衣料店。
商品種類削減。
購入時間短縮。
廃棄量減少。
計画上、成功。
日記。
娘が服を選ばなくなった。
必要なものを端末に決めてもらっている。
昔、自分が服を選ぶのに時間を使っていたと話すと、不思議そうな顔をされた。
レンは教授を見る。
「家族がいた」
「当然だろう」
「自分の子どもまで実験対象」
教授は黙る。
実験開始三十八年。
旅行。
娘に、行ってみたい場所はあるかと聞いた。
仕事で必要ならどこへでも行くと答えた。
景色を見たい場所はないのかと聞いた。
映像で十分だと言った。
昨日。
レン自身が同じことを言った。
景色なら映像でいい。
教授も気付いている。
二人とも言わない。
日記。
私は計画が成功していることを理解した。
同時に、
初めて失敗してほしいと思った。
レンの指が止まる。
「変わった」
教授が頷く。
日記はさらに乱れていく。
文字。
以前より大きい。
線が曲がっている。
実験開始四十二年。
計画終了の提案。
却下。
理由。
継承停止まで観測する必要。
瀬名は内部会議で反対。
文化の一部保存を提案。
却下。
理由。
保存された文化が再流入すれば、実験結果に影響。
「保存まで嫌がった」
レンが言う。
「純粋な実験結果が欲しかったんだろう」
「人間相手に?」
教授は答えない。
実験開始四十五年。
瀬名。
内部資料の複製開始。
個人保存。
規則違反。
「これ」
レンが日記へ顔を近づける。
「この資料?」
教授も見る。
祭り映像。
音楽。
ゲーム。
服飾雑誌。
旅行写真。
文化資料を個人的に保存。
計画側は消失を確認するため資料を保有していた。
瀬名は、その複製を外へ持ち出した。
「じゃあ俺たちが見てる資料」
レンが九冊目を見る。
「瀬名が残したものが元になってる?」
教授が頁を確認する。
「可能性は高い」
さらに進む。
実験開始四十八年。
日記の文字。
文化は消えている。
だが人は生きている。
仕事をする。
食べる。
眠る。
学ぶ。
移動する。
社会は動いている。
計画担当者たちは成功だと言う。
私は最近、成功という言葉が怖い。
レンは窓の外を見る。
今の街。
そのまま。
生きている。
困ってはいない。
でも。
楽しい。
面白い。
美しい。
そういう感覚を表へ出す機会は少ない。
「成功」
レンが呟く。
昨日も見た言葉。
次の頁。
実験開始五十年。
計画最終段階。
文化継承率。
基準値以下。
新世代における旧文化認知率。
極めて低い。
文化抹殺実験。
成功判定。
その下。
瀬名の個人的な文章。
私は今日、成功報告書へ署名した。
帰宅してから、一人で昔の音楽を聞いた。
レンは再生装置を見る。
五分三十八秒。
もしかすると。
この音も。
瀬名が聞いたものかもしれない。
日記。
途中で泣いた。
理由は説明できない。
感情制御教育を受けた若い職員なら、この状態を不安定と評価するだろう。
私はそう思わない。
人間は、
こういうものだった。
レンは頁から手を離した。
教授も何も言わない。
午後零時三十二分。
昼食。
レンは食べながら日記を見ていた。
教授が止める。
「食べるときくらい離せ」
「続きが気になります」
「原物だ。汚すな」
レンは仕方なく日記を机の奥へ置く。
端末。
ニュース。
また異変。
沿岸部の一部で潮位変化が拡大。
地下水の変化。
地面から低い音を聞いたという報告。
映像。
道路。
住民。
不安。
それでも大きな混乱はない。
レンは食事を止める。
「教授」
「何だ」
「避難、いつ始めます?」
教授も止まる。
「明日までに決める」
「遅くないです?」
「研究資料の移送先を確保している」
「俺たちより資料?」
「両方だ」
レンは教授を見る。
教授が続ける。
「文化を研究している人間が、資料だけ助けて自分が死んだら誰が説明する」
レンは少し笑った。
「それもそうですね」
「君も避難用品を準備しろ」
「今日やります」
「必ずだ」
「はい」
午後一時十四分。
日記再開。
残りは少ない。
瀬名が文化抹殺計画から外された記録。
内部資料の無断複製が発覚。
処分。
監視。
だが日記は続いている。
そして。
ある頁から話題が変わった。
地震。
レンの指が止まる。
「来た」
教授が近づく。
瀬名の日記。
計画開始以前から存在した地質予測。
日本に壊滅的な災害が発生する可能性。
それを理由に、日本が実験対象へ選ばれた。
昨日、戸倉が話した内容と一致。
さらに。
瀬名は内部で地震予測資料を閲覧していた。
当初。
発生年代不明。
誤差。
数十年。
その後。
観測技術の進歩。
予測範囲縮小。
十年。
数年。
一年。
「待って」
レンが頁を戻す。
「発生日、最初から分かってたわけじゃない」
「戸倉もそう言っていた」
「じゃあ十二日後っていう記録は」
「後から追加された」
次の頁。
瀬名が計画から外された後も、別経路から情報を受け取っていた記録。
地殻変動。
地下水。
潮位。
地磁気。
地形変化。
複数の観測。
年代が進むほど予測が狭まる。
そして。
日記の最後に近い頁。
予測誤差。
一か月。
さらに後。
七日。
レンの呼吸が浅くなる。
日付。
今から何十年も前に書かれたものではない。
後世に追記されている。
複数の筆跡。
瀬名の日記は、彼一人の死後も受け継がれていた。
「これ、瀬名の字じゃない」
教授が確認する。
「別の人間が記録を続けたんだ」
日付。
巨大地震発生予測。
現在の四日後。
レンは固まる。
昨日まで見てきた日付と同じ。
だが今日は、
その根拠がある。
予測更新記録。
異変発生日。
十二日前。
十一日前。
十日前。
九日前。
八日前。
七日前。
六日前。
五日前。
そして今日。
四日前。
予測現象。
広範囲の地震。
地殻活動増加。
交通障害。
沿岸部変化拡大。
レンは端末を取る。
ニュース。
今日。
広範囲の地震。
交通設備点検。
潮位変化拡大。
一つずつ照合。
「全部」
声が震える。
「今日も一致してる」
教授は資料から目を離さない。
「時刻も近い」
「脅しじゃない」
老人が作った話ではない。
文化研究を続けさせるための嘘でもない。
何十年。
観測。
更新。
予測。
今日まで。
「教授」
レンは日記を閉じる。
「これ、本当に来る」
教授は答えない。
レンが強く言う。
「来ますよ」
「ああ」
教授がようやく答える。
「ああ」
短い言葉。
それだけで十分だった。
午後二時。
研究室の扉が鳴る。
レンと教授が同時に見る。
戸倉。
そう思った。
レンが扉を開ける。
老人が立っている。
短い灰色の髪。
深いしわ。
茶色の長い上着。
灰色のパンツ。
戸倉は研究室へ入る。
机の日記を見る。
「読んだか」
レンがすぐ聞く。
「瀬名を知ってますね」
戸倉は日記を見る。
「知っている」
「直接?」
「いや」
「じゃあどういう関係です?」
戸倉は椅子へ座る。
「瀬名が始めた保存活動を引き継いだ者の一人だ」
レンと教授が黙る。
「一人?」
「何人もいた」
戸倉は日記へ手を置く。
「瀬名は計画内部から文化資料を持ち出した。その後、少数の人間が記録を守った」
「文化を戻そうとはしなかった?」
教授が聞く。
「できなかった」
「なぜ」
「人々が求めなくなっていた」
戸倉は静かに言う。
「音楽を渡しても、雑音だと言われた。ゲームを見せても、時間の浪費だと言われた。昔の服を見せても、非効率だと言われた。旅行を勧めても、映像で十分だと言われた」
レンは数日前の自分を思い出す。
全部。
自分も言った。
「だから保存した?」
「いつか必要になる可能性に賭けた」
戸倉がレンを見る。
「そして君たちがいた」
「文化学研究室」
「そうだ」
教授が腕を組む。
「だから私たちに十二冊を?」
「文化を知らない人間に渡しても意味がない」
レンが聞く。
「何で一日一冊だったんです」
「最初に文化抹殺計画だけを読めば」
戸倉は八冊目を見る。
「君たちは怒っただろう」
レンは黙る。
昨日、実際に怒った。
「だが、何を奪われたのか知らないまま怒っても、計画の本質は分からない」
戸倉は一冊ずつ見る。
祭り。
音楽。
遊び。
服。
笑顔。
旅行。
「先に知る必要があった」
レンは自分の紫色の袖を見る。
音楽。
盤上遊戯。
展望台の写真。
全部、自分で体験した。
だから昨日の計画が許せなかった。
ただ昔の制度として読んだだけなら、
そういう時代もあった。
それで終わっていたかもしれない。
「瀬名の日記」
レンが言う。
「最後の証言なんですね」
戸倉が頷く。
「計画内部を知る者が、文化が消える過程を個人の言葉で残した最後のまとまった記録だ」
「瀬名は最後、どうなったんです?」
戸倉は少しだけ目を伏せる。
「亡くなるまで資料を集めた」
「文化は戻らなかった?」
「戻らなかった」
研究室が静かになる。
午後三時四十六分。
戸倉が帰った後。
レンは今日の研究記録を書く。
文化抹殺計画では、文化の消失を継続的に数値化していた。
入力。
祭り参加率。
遊戯時間。
音楽聴取時間。
服飾選択。
旅行希望。
笑顔。
食文化。
物語。
文化は、人々が自ら手放していく過程まで測定されていた。
入力。
計画参加者の瀬名トウジは、当初その結果を成功として記録した。
しかし、自分の家族や街から文化が消えるにつれ、計画へ疑問を持つようになった。
入力。
瀬名は文化資料を密かに保存した。
その活動は後世へ受け継がれ、現在の文化学研究室へ資料が届けられた。
レンは止まる。
最後。
巨大地震の予測は、計画初期から存在した長期的な地質予測を、後世の観測者たちが更新し続けた結果だった。
現在発生している異変は、残された予測記録と一致している。
巨大地震まで。
あと四日。
保存。
午後四時。
レンは研究記録とは別の保存領域を開いた。
展望台の写真。
教授と自分。
笑っている。
川。
昨日までの資料。
再生装置の演奏。
盤上遊戯。
紫色のシャツ。
「教授」
「何だ」
「瀬名が残してなかったら」
教授が顔を上げる。
「何も知らなかったな」
「祭りも?」
「ああ」
「ゲームも」
「ああ」
「音楽も」
「そうだ」
レンは演奏記録を再生した。
音が流れる。
五分三十八秒。
何十年も前。
瀬名も一人で聞いた。
泣いた。
今。
二人で聞く。
レンは盤上遊戯を出す。
教授が笑う。
「今日も?」
「今日は必要です」
「遊びなのに?」
「だから必要なんです」
教授が向かいへ座る。
駒を並べる。
その途中。
揺れ。
二人の手が止まる。
今度は強い。
棚が鳴る。
照明が揺れる。
再生装置が机の上で動く。
レンが押さえる。
十秒。
二十秒。
教授が日記を押さえる。
三十秒。
止まった。
二人とも動かない。
端末が一斉に鳴る。
緊急地震情報。
複数地域で地震。
一部建物で軽微な被害。
交通停止。
沿岸監視強化。
レンは画面を見る。
「教授」
「ああ」
「避難準備」
「ああ」
「今日絶対やります」
「そうしろ」
レンは立ち上がる。
窓の外。
街。
一部の列車が止まっている。
道路には人。
端末を見る人。
空を見上げる人。
不安そうな人。
それでも街はまだある。
レンは端末を取り出す。
窓の外を撮影する。
教授が見る。
「なぜ撮った」
レンは保存する。
「覚えておくため」
昨日と同じ。
旅行で学んだこと。
景色は、そこにあるうちに見る。
写真は、自分がそこにいた記録。
レンはもう一枚。
研究室。
机。
教授。
日記。
盤上遊戯。
再生装置。
撮る。
「教授、笑って」
「今?」
「今です」
「地震の直後だぞ」
「それでも」
教授は呆れた顔をする。
それがおかしくてレンが笑う。
教授も少し笑う。
撮影。
保存。
あと四日。
レンは画像を見る。
怖い。
でも笑っている。
瀬名の日記。
最後の文章を思い出す。
人間は、
こういうものだった。
レンは端末を閉じる。
教授が盤上遊戯を見る。
「一回だけやるか」
レンは椅子へ戻る。
「もちろん」
駒を並べ直す。
音楽を最初から再生する。
窓の外では、
止まった列車。
点検する人々。
速報。
増え続ける異変。
研究室の机には、
文化を消した者の記録。
文化を守ろうとした者の証言。
そして、
文化を知らずに生まれ、
今になって初めて文化を好きになった二人。
レンは駒を一つ動かした。
「教授」
「何だ」
「瀬名、成功したと思います?」
教授は少し考える。
「文化抹殺計画は成功した」
「はい」
「だが」
教授が駒を動かす。
「全部消すことには失敗した」
レンは笑う。
机の上。
日記がある。
音楽が流れている。
ゲームをしている。
好きな服を着ている。
今日撮った写真もある。
記憶もある。
文化はほとんど消えた。
それでも、
ゼロではなかった。
端末。
あと4日。
数字が静かに表示されている。
巨大地震は、
もう脅しではなかった。
一つずつ。
予測された現象が、
現実になっている。
それでも二人は、
ゲームの続きを始めた。
瀬名が最後まで残したものを、
ただの資料として終わらせないために。
今度は、
自分たちの記憶にするために。
コメント
1件
みぅです、読ませてもらいました🥀 今回も重かった…特に瀬名さんの日記が心に刺さりました。最初は研究者として計画に期待してたのに、自分の娘さんの変化を見ていくうちに「失敗してほしいと思った」ってところがもう…言葉にならなくて。自分の子どもが服選ばなくなった、景色を見たいとも思わなくなった——それを目の当たりにしながら記録を取り続ける苦しさがひしひしと伝わってきました。 それでいて、文化を一度体験したレンが「覚えておくため」に写真を撮る場面、教授とゲームを続ける姿に、瀬名さんの「人間はこういうものだった」っていう言葉が重なって。ゼロじゃなかったんだなって、胸が熱くなりました。あと4日、この静かな覚悟が美しくて苦しいです。