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父さんには共同経営者がいたと聞いたことがある。体調を崩し、早々に引退したとも。それが咲の父親、成瀬明久さんだった。
自分がいかに間抜け面しているか、自覚はあった。成瀬さんが俺を見て小さく微笑んだが、微笑み返す余裕なんてなかった。
咲がT&Nに肩入れするはずだ。父親の会社なんだから。
ヒントは転がっていたのに、全く気づけなかったことに落胆していた俺は、さらに深みに突き落とされた。
成瀬さんのさらに数歩後に、会いたくてたまらなかった女性の姿を見た。
咲————!
俺は目を丸く見開き、口をぽかんと開けた間抜け面で、咲が『筆頭株主』の席に着くのを眺めていた。
まさかっ!
俺が視線を向けると、和泉兄さんも充兄さんも笑いを堪えて俺を見ていた。
やっぱり——!
和泉兄さんと充兄さんは咲の正体を知っていたんだ!
またも、知らされていなかったのは俺だけだった。
ここまで驚かされると、怒りよりも爽快感の方が勝る。俺は開き直って、顔を上げた。
父さんの隣に立つ咲は、黒のパンツスーツに身を包み、髪を束ねていた。首元に光るのは、俺がプレゼントしたネックレス。手首には、俺とお揃いの時計。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見据えて立つ姿は、会議室の誰よりも格好良かった。
一瞬、咲と目が合ったが、咲は表情を変えなかった。
「取締役会を始める前に——」と、父さんが口火を切った。
「今回の議題を鑑みて、お三方に同席を求めました。まず、顧問弁護士の藤川博氏」
父さんが腕を伸ばして末席を指した。紹介された藤川弁護士は、一礼する。
「次に、我がT&Nグループの共同創立者であり、取締相談役の成瀬明久」
成瀬さんが一礼する。
「そして、筆頭株主である成瀬咲さん。咲さんは成瀬明久の娘さんで、相談役の後任予定です」
咲が紹介されると、会議室内が騒めいた。
当然だ。筆頭株主がこんなに若い女性な上に、筆頭株主であり取締役となれば絶対的な決定権を持つことなにる。
内藤社長は平静を装ってはいるが、内心ははらわたが煮えくり返る思いだろう。
咲が一礼し顔を上げると、父さんが着席を促した。
「では、取締役会を始めます」と、進行役のホールディングスの取締副社長が言った。
「今回の議題は内藤社長のご勇退に伴う後任者の決定と、先の事件における和泉社長と充副社長の責任問題、それに伴う会長職後任の妥当性について、となっております」
「まず、内藤社長の後任についてですが……」
不意に挙げられた細い腕が、進行役の話を遮った。
「成瀬咲さん、なにか——?」
進行役は娘ほども年の違う咲に、物怖じしていた。咲が立ち上がる。
「内藤社長、長きのご精勤お疲れさまでした」と言って、咲が内藤社長に笑顔を向けた。
「前回の取締役会で、世代交代について提議されたと伺いました。我々株主としましても、大変興味深い問題です。そこで、今回の内藤社長ご勇退を機に、ご出席の取締役の皆さまにご勇退の意思を確認させていただきます」
騒めくどころではなかった。
突然、取締役会が筆頭株主と名乗る小娘に乗っ取られたのだ。還暦間近、もしくはとっくに還暦を過ぎた重役たちが大人しくしていられるはずはない。
咲の発言に顔色を変えない父さんと成瀬さんは、事前に知らされていたようだ。
「意思を確認するだけです。誰も辞める気がないというのなら、それで構いません」
咲、何を考えている……?
何をしようとしている……?
俺は成り行きを見守ることしか出来なかった。表情を見る限り、兄さんたちも咲が何をしようとしているのか、知らないようだった。
「ただ、確認の前に一つだけ条件を提示させていただきます」
条件……?
「この場でご勇退を決断され、直ちにこの場からご退出されるのであれば、無条件で、役員退職時の功績倍率を五割増しとさせていただきます」
この一言で、会議室内がまるで無人のように静寂に包まれた。
T&Nグループでは会社役員が退職する場合、退職時の給与×役員を務めた年数×功績倍率によって退職金が決定される。倍率が二・〇なのと三・〇なのとでは何百万もの差が生じる。
重役の八割は、頭の中で数字を並べているだろう。
「俺、ご勇退していいか?」と、徳田社長が俺に耳打ちした。
「冗談やめてくださいよ」
「冗談なわけあるか。十分後にこの場の半数が出て行っても、驚かないね」
半数……。
まさか……、いや、有り得る。
「質問してもいいかな」と、徳田社長が手を挙げた。
「はい、徳田社長」
咲が微笑む。
「筆頭株主といえども、役員の退職金の算定基準を一存で変更する権限はないのでは? 割増した退職金はどこから捻出するんです?」
徳田社長の尤もな指摘に、重役たちが頷いた。
咲の顔色は変わらない。
「ご心配には及びません。まだ非公開ではありますが多額の剰余金の用途については私に一任いただけることは、上位株主の皆さんには了承いただいております。藤川先生、いかがですか?」
藤川弁護士が「ええ。問題ありません」と言った。
三か月間、咲から何の連絡もなかったことに納得できた。こんな根回しをしていたなら、俺に連絡する暇などあるはずがない。俺なんかより、ずっと忙しかったはずだ。
「徳田社長、ご納得いただけましたか?」
「ええ」
徳田社長は咲をどう思っているだろう……。
社長には咲を認めてもらいたい。
咲自身を。
「では、お伺いいたします」と、咲が満面の笑みを浮かべた。