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この一連の出来事は、思春期の奏の心に暗い影を落とした。


(男なんて……結局ただヤリたいだけなんだ。こんな思いをするなら、もう彼氏なんかいらない……)


あの一件以来、奏は失恋の痛手を打ち払うかのように、部活と音大受験を両立すべく音楽に打ち込んだ。


しかし、十年ほど経った今も、この黒ずんだ影は奏の中でこびりついたまま。


中野の、挿入直前に見せたあの下衆な笑いは忘れられない。


思い出すだけで、背筋に悪寒が迸る。


今思い返すと、当時の奏は男女の事や性の事など知識不足で、あまりにも幼過ぎた。


そして、これをきっかけに纏い始めた、心の鎧。


男に声を掛けられても、中野との一件が、人を寄せ付けないために冷たい態度を取る元凶なのだ。




***




怜に核心を突かれ、未だに答えられない奏。


左手首は、まだ彼に掴まれたままだ。


こんな過去の恋愛黒歴史、一週間ほど前に出会ったばかりの怜に、言えるわけがない。


視界が潤み、十年前の悔しさと悲しさを嫌でも思い出し、表情も歪みそうになるが、耐えるように更に強く唇を噛み締めると、うっすらと血の味がした。


奏の身体が強張り、小さく震える。


心の奥底に忍ばせていたパンドラの箱の蓋は、もう完全に開いてしまったのだ。


未(いま)だに彼女を鋭い眼差しを送る怜に、声を振り絞りながら、ようやく奏は答えた。


「もう……勘弁…………し……て……下さ……い……」


か細い声音で呟いた彼女の言葉に、怜は、先ほどとは様子が全く違う奏に目を見開いた。


「……音羽……さ……ん?」


「お願……い……で……す…………本当にもう…………勘弁……し……て……下…………さい……」


今にも消え入りそうな苦痛混じりの奏の声に、怜の手は、おずおずと彼女の手首から離れていく。


俯き加減のまま、奏は怜に会釈すると、小走りで立ち去った。


「音羽さん!」


怜が奏を呼び止めるが、彼女は振り返りもせず、ホテルのエントランスを抜けていく。


「あの様子……尋常じゃないな……」


怜は立ち上がると走り出し、奏を追い掛けた。




エントランスを抜け、怜は辺りを見回した。


「どこ行ったんだ? もう駅に向かってしまったか?」


彼は、首を左右に数度振り、もう一度ホテル周辺を探す。


「行ってしまったか……」


ガックリしながらホテルの中へ戻ろうと、エントランスへ向かう。


何気なく視線を横に向けると、離れた所で奏が立ち竦んだまま、天を仰いでいるのが見えた。


「ああ……いた……」


結婚式の日、彼女はそのまましゃがみ込んでしまったが、今はしっかりと地に足を付けて立っている。


怜は、ゆっくりと歩みを進めていくが、途中で立ち止まってしまった。


奏の後姿を見た瞬間、怜は声を掛けてはいけないような気がした。


彼女の小さな背中が、あらゆる物を拒絶しているように見えたのだ。


涙が零れ落ちないように、顔を上に向けているのだろうか。


微かな街の喧騒に混じり、時折聞こえる鼻を啜る音。


怜は、奏を強く抱きしめたい衝動に駆られるが、身体と足が固まったように動かない。


「彼女……心に何を…………抱えているんだ……」


彼は、奏に対して何もできない自分に苛立ち、前髪を荒々しく掻き上げ、顔を歪めさせながら、彼女の後姿をただ見つめる事しかできなかった。

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