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羽海汐遠
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第12話 ナナカのいない教室
朝の教室は、なにかを忘れた部屋みたいだった。
机はある。
いすもある。
黒板の端には昨日の消し残しがうっすら残っている。
窓から入る光も、いつも通り床に細い形を落としている。
それなのに、どこか一か所だけ、見えないものが抜けていた。
ミチルは扉の前で立ち止まった。
右手の親指が左手のあかぎれをなぞる。
いつもの癖。
その小さい痛みだけが、まだ昨日の続きだった。
扉を開ける。
数人が見た。
見て、視線を戻す。
その戻し方に、前までの鋭さはない。
でも、やさしさもない。
ただ、置き場をなくした視線みたいだった。
「おはよ」
ヒナが言う。
肩の少し上でそろえた髪の毛先が、小さく揺れる。
机の上のノートの角をそろえながら、顔だけを向ける。
「……おはよ」
返す。
返した声が、机のあいだに落ちる。
サエは机に肘をついていた。
口元を手で隠していない。
でも、笑ってもいない。
ユウタは後ろの席で首元を引いている。
リオは袖を少しまくり、また戻す。
タクミは前髪を手の甲で払って、窓のほうを見た。
マオはノートを机へ置き、何も言わずに席へ座る。
ナナカの席が、空いていた。
空席というだけで、
こんなに机の形が目立つのかと思う。
椅子が少しだけ奥へ入っていて、
机の横のかばん用のフックだけが、何もかかっていないままぶら下がっている。
担任が入ってきた。
足音は相変わらず小さい。
やわらかい声で朝の会を始める。
出席。
提出物。
連絡事項。
そのあとで、担任は少しだけ間を置いた。
「ナナカさんだけど、今日でこのクラスを離れます」
教室の中に、音にならない揺れが広がる。
「家庭の事情で、急に決まったみたいで」
「さっき職員室に顔を出してくれたので」
「少しだけ、来ます」
来る。
その言葉が落ちたあと、
みんなの目が空いた席へ向かう。
そこへだれも座っていないのに、席だけが一度に見られる。
数分後、扉が開いた。
ナナカが立っていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目。
細い輪郭。
制服はいつも通り整っていて、なにも変わっていないように見える。
変わっていないのに、
その立ち方だけが少しだけ教室の外側にあった。
「急だけど」
ナナカは言った。
声は、いつものやわらかさを保ったままだった。
「ちょっといくわ」
その一言で終わるみたいに。
笑いもない。
説明もない。
泣きそうな顔もない。
ただ、言うべきことだけを小さく置いたみたいな声。
サエが先に笑った。
でも、その笑いはすぐにしぼむ。
「え、なにそれ」
ユウタが後ろから言う。
「急すぎ」
リオも目を丸くしていた。
あごの少し下で切られた髪の毛先が、少しだけ揺れる。
ヒナは細い指でノートの端を押さえたまま止まっている。
タクミは窓のほうを見ていた顔を、ようやく戻した。
担任が言う。
「最後に何か言う?」
ナナカは一度だけ教室を見た。
前から後ろまで。
机。
いす。
窓際の列。
空いた通路。
ミチルの席。
マオの席。
みんなの顔。
その見方は、いつものようで、少しだけ違った。
なにかを決める目ではなく、
なにかをもう決めない目だった。
「別に」
小さく笑う。
「元気で」
その言い方に、何人かがつられて笑った。
笑うしかない感じの笑い。
でも、つづかない。
「じゃ」
ナナカはそう言って、扉へ向かった。
途中で一度だけ振り返る。
そのとき、視線がマオのところでほんの少しだけ止まる。
それから、ミチルのところへ来る。
でも、何も言わない。
言わないまま、教室を出ていく。
扉が閉まる。
音は小さい。
小さいのに、教室の中ではそれがやけに長く残った。
だれもすぐにはしゃべらなかった。
担任が、じゃあ朝の会のつづきね、と言う。
やわらかい声。
でも、そのやわらかさが今日は少しだけ空回りしている。
教室の中のほうが、もっと静かだからだ。
一時間目は数学だった。
黒板に式が並ぶ。
ノートを取る音がする。
シャープペンの先が紙をこする。
その全部が、ちゃんと普通の授業のはずなのに、
だれも完全にはそこへ乗れていない。
ナナカの席は空いたまま。
そこだけ、授業中も目に入る。
空席なのに、空席より濃い。
ユウタが何度か後ろを向きかけて、やめる。
サエは口元に手を持っていきかけて、下ろす。
リオは袖をまくる回数が増える。
ヒナはノートの角を何度もそろえる。
タクミは前髪を払う手が少し早い。
マオはまっすぐ前を見ている。
ミチルは黒板を見ていた。
数字が並ぶ。
線が引かれる。
答えが一つに決まる。
一つに決まるものを見ていると、少しだけ楽だった。
休み時間になっても、だれも空いた席へ近づかなかった。
そこだけ、使っていない机ではなく、
まだだれかが戻ってくる席みたいな形をしている。
サエが先に口を開く。
「……まじで行ったんだ」
笑って言うつもりだったのかもしれない。
でも、笑いにはならない。
ユウタが肩をすくめる。
「ちょっといくわ、って」
リオが小さく笑った。
でも、その笑いもすぐ消える。
「意味わかんない」
マオは何も言わない。
ヒナも黙っている。
タクミは、空いた席を見ないようにしているみたいに、窓のほうを向いたまま。
そして、その沈黙の中で、
ミチルは初めて気づく。
だれも、自分のほうを見ていない。
それは楽なはずだった。
楽になるはずだった。
でも、胸の奥に溜まっていた硬いものは、うまくほどけなかった。
だれにも見られないと、
自分の置き方が逆にわからなくなる。
立てばいいのか。
座ればいいのか。
だれの横を通っていいのか。
声を出していいのか。
今までナナカが決めていたというより、
ナナカが決めたあとに、教室がそれを引き受けていた。
その引き受ける流れだけが残っている。
二時間目の移動教室になった。
列を作る。
廊下へ出る。
順番に並ぶ。
いつもなら、ミチルの前後に半歩分の距離ができた。
今日は、それがうすくなっていた。
でも完全には消えない。
前にいた後ろの女子が、一度だけ振り返って、それから少しだけ位置をずらす。
気づいてやっているのか、
もう体が先に覚えているのか、そのどちらともつかない。
ミチルはその後ろに入る。
だれも止めない。
でも、だれもそのことをなかったことにもできない。
「……あ」
小さな声がする。
だれかが距離の近さに気づいた音。
でも、そのあとに続く言葉が出ない。
サエが一度だけ口元へ手をやり、すぐにおろした。
ユウタは笑いかけて、笑わない。
リオは列の先で、まっすぐ前を見る。
ヒナだけが少しだけ振り返って、それから何も言わない。
ワルツがない。
だから、止め方も、広げ方も、もうだれにもわからない。
理科室へ向かう階段で、ミチルの肩が前の子の背中へほんの少し触れた。
ほんとうに少し。
前なら、そこからすぐに言葉が伸びた。
危ない。
また。
そういうとこ。
こわい。
今日は、なにも出ない。
ただ、前の子が少しだけ早足になる。
それだけ。
それだけが、逆にきつい。
言葉にならないぶん、理由もなく残るからだ。
昼休み。
弁当箱のふたが開く。
パンの袋が鳴る。
教室のあちこちで匂いが混ざる。
ミチルは弁当を机へ置いた。
卵焼き。
小さい唐揚げ。
白いごはん。
家の匂い。
ユウタが言う。
「なんかさ」
だれに向けたのかわからない声。
「静かすぎて逆に変」
サエがすぐに返す。
「わかる」
「前のほうがまだ」
そこまで言って、ユウタは言葉を切る。
前のほうが、何だったのかを言うのをやめる。
まだ楽だった。
まだ分かりやすかった。
まだ笑えた。
たぶん、そういう言葉が続くはずだった。
でも、だれもそこまで言わない。
ヒナが小さく言う。
「静かなほうがよくない?」
正しいことみたいに聞こえる。
でも、その正しさも、教室の中ではすぐにそのまま置けない。
サエが箸を止める。
「よくないっていうか」
「なんか、変」
「何が変なの」
マオが聞く。
肩に届かない長さの髪の線が、うつむいた角度でまっすぐ見える。
前髪は少し短く、額の上に軽く浮く。
サエは答えに困る。
口元を手で隠す。
でも笑わない。
「なんか」
「前まで普通だったものが、普通じゃなくなる感じ」
その言い方に、だれもすぐ反対しない。
普通だったもの。
だれかを見て笑うこと。
だれかの声をまねること。
少しだけぶつかること。
だれかが悪い前提で話すこと。
それが普通だったと言ってしまうのは、
たぶん少しこわい。
でも、言い切らなくても、みんなの顔にそれはあった。
リオが箸を置いた。
「私さ」
その声に、教室のいくつかが静かになる。
「昨日まで、べつに平気だったんだよね」
「ミチルにちょっと返したりしても」
「だって、そういう流れだったし」
流れ。
その言葉が、やっとここへ出る。
「でも今日、ナナカいなくなって」
「なんか」
リオはそこで止まる。
袖を少しまくり、また戻す。
その細い動きに、言葉の続きを探している感じが出る。
「なんか、急に」
「私がやったやつ、変だった気がして」
だれも笑わなかった。
ユウタも。
サエも。
後ろの女子も。
ミチルは弁当箱のごはんを見つめた。
それは白いまま、ただ白い。
そこへ意味はあとからつかない。
タクミが、窓のほうを見たまま小さく言う。
「……俺も」
その一言に、教室の空気が少しだけ軋む。
前髪を手の甲で払う。
横顔だけ少し大人びて見える、そのままの角度で。
「見てただけだけど」
「見てただけで、あっち側だったし」
あっち側。
その言葉の置き方が、やけにまっすぐだった。
サエがすぐに口を開く。
「でも、ミチルだってさ」
そこで止まる。
止まったあと、言い足す。
「悪くないわけじゃないじゃん」
悪くないわけじゃない。
それは最後の杭みたいだった。
完全に崩さないための。
でも、その杭の打ち方にももう迷いがある。
ヒナが細い指で弁当箱の端を押さえながら言う。
「そうかもしれないけど」
「だからって、何してもいい感じだったのは変だったよね」
変だった。
その言葉が、今日は二度目に出る。
今度は、もう少しだけはっきり。
マオはそれを聞いて、パンの袋を小さく折った。
片手で雑に見えるのに、中身だけはきっちり整える、その手つきのまま。
「やっとそう見えるようになっただけじゃない」
やわらかくも、きつくもない声。
「前も変だったんだと思う」
それは責める声ではなかった。
ただ、順番を直しただけみたいな声だった。
前も変だった。
ナナカがいたから変だった。
でも、ナナカがいなくなっても、変だったこと自体は消えない。
だれもすぐには答えない。
午後の授業は美術だった。
机を寄せる。
道具を出す。
水入れ。
筆。
絵の具。
ミチルは水を入れた。
少しもこぼさないように。
少しも音を立てないように。
でも、水を入れ終えたあとで思う。
いまはもう、こぼしても前と同じようにはならないかもしれない。
それなのに、体はまだ前の教室の形で動いている。
そのことのほうが、今日はよく分かる。
サエが横で筆を洗っていた。
長めのカーディガンの袖が少しだけ下がる。
指先が半分ほど埋まっている。
「ねえ」
サエが小さく言う。
ミチルではなく、空気へ言うみたいに。
「ミチル、ごめんとかじゃないんだけど」
その出だしが、もう変だった。
ごめんではないのに、
ごめんに近いところから始まる。
「なんか」
「べつに、全部ナナカのせいってわけじゃないけど」
「でも、あのときのノリ、ちょっと変だった」
ミチルは筆を持つ手を止めた。
返事はしない。
できない。
サエがこんなふうに言うのを、想像したことがなかった。
丸い目のまま、口元を手で隠さずにしゃべる。
笑っていない。
ユウタが後ろから言う。
「変だったっていうか」
「変なのに、普通みたいになってた」
普通みたいになってた。
その言い方は正しかった。
正しいのに、少し遅い。
遅いことも、だれも分かっている。
リオが筆を置く。
「でもさ」
「ミチルも、何もなかったことにはならないよね」
その言葉に、教室が少しだけ落ち着く。
それは救いではなく、均衡だった。
だれか一人だけが悪くて、
ほかが全部間違っていたことにはしない。
そうしないことで、自分たちの置き場所も守る。
ミチルはその言い方を聞きながら、
胸の奥で、小さく笑いそうになった。
笑うような話ではないのに。
何もなかったことにはならない。
たしかにその通りだ。
でも、それはどこまでのことを言っているのだろう。
自分が見られたこと。
言われたこと。
黙っていたこと。
ぶつかられたこと。
だれかが笑ったこと。
だれかが止めなかったこと。
どこからどこまでを、いまこの教室は「何もなかったことにはならない」と呼んでいるのか、
その輪郭はまだ曖昧だった。
放課後。
帰りの会が終わる。
教室の中に夕方の光が長く入る。
ナナカの席は、今日も空いている。
空いているのに、その席のまわりだけがまだ少し濃い。
いなくなった人の形が、席の上に残っているみたいだった。
サエがその席を見て言う。
「なんか、あそこだけまだいる感じしない?」
ユウタが笑う。
でも、前みたいな笑いではない。
「わかる」
リオも小さくうなずく。
「変に静か」
ヒナがノートを閉じる。
細い指で表紙をなでる。
「でも、もういないよ」
ただの確認みたいな声。
なのに、それが教室の中で少しだけ頼りない。
マオはかばんを片手で持ち上げた。
雑に見えるのに、中身だけはきっちり整っている。
「いなくても、残るものあるし」
それだけ言う。
タクミが前髪を払った。
窓のほうを見ていた目を、ようやく教室の中へ戻す。
「……たぶん、しばらくこうなんだろ」
だれも否定しない。
しばらく。
その短い時間の感じが、逆に長かった。
ミチルはかばんを持った。
肩にかける。
そのとき、だれも少しずれたりしない。
それだけで、体が一瞬、置き方を失う。
通路を歩く。
机のあいだをすり抜ける。
だれも「こわ」と言わない。
だれも笑わない。
でも、その静けさは、許された静けさではない。
教室を出る前に、ミチルは一度だけナナカの空席を見た。
机。
いす。
何もかかっていないフック。
窓からの光。
そこに、なにもない。
なにもないはずなのに、
あの席の周りだけ、まだだれかの言葉の形が残っている。
ミチルは教室を出た。
廊下は明るい。
窓の外では部活の声がする。
ボールの音。
笛。
ただの夕方。
でも、そのただの夕方の中で、
教室だけがうまく今日へ着地できていない感じがした。
翌朝。
ミチルはいつも通り扉の前で立ち止まる。
右手の親指が左手のあかぎれをなぞる。
扉を開ける。
教室の中には、また机といすがある。
光が入る。
だれかがノートを開く。
だれかが椅子を引く。
そして、ナナカの席は、今日も空いている。
もう戻ってこない席として、ようやく見え始めている。
でも、その席が空いたことで消えたものと、
その席が空いたあとも消えないものとが、
まだ教室の中でうまく分かれていない。
「おはよ」
ヒナが言う。
「おはよ」
ミチルが返す。
その短いやりとりに、だれもすぐには何も足さない。
サエも、ユウタも、リオも、タクミも、マオも、
それぞれ自分の席にいる。
それぞれ自分の朝をしている。
静かな朝だった。
でも、その静けさは、何もなかった朝ではない。
だれもそれを間違えられない。
ナナカはいない。
悪者の席も、もう少しずつ薄くなっていくのかもしれない。
それでも、この教室で起きたことまで、
何もなかったことにはならない。
机の木目にも、
通路の幅にも、
目をそらす速さにも、
まだその名残は残っていた。
そしてミチルも、
それを知っている顔のまま、
今日の席へ座った。
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読み終えたわ……。第12話、すごく静かで、でも胸の奥がぎゅっとなった。 ナナカがいなくなった教室の“間”の描写がめちゃくちゃリアルで、机のフックや椅子の入り方、みんなの視線の置き場のなさに、こっちまで息を詰めて読んでた。特に「だれも自分のほうを見ていない」って気づくミチルの感覚、分かりすぎて痛かった。「言葉にならないぶん、理由もなく残る」って表現、めっちゃ刺さる。ワルツがいなくなって、教室の流れが止まった感じがずっと続いて、次の日もまだ着地できてない余韻がすごいよ。柘榴とAIさん、こんなに繊細な空気を書けるの、本当にすごい。続き、待ってます🔥