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その翌日は、新しい店舗で従業員の顔合わせとミーティング、そしてオペレーションがあった。
起ち上げにあたり、俺のポジションはそのまま副店長で、店長はしばらくの間エリアマネージャーが兼任するということだ。
顔合わせを終え、ほかの社員とアルバイトのオペレーションにあたる。
俺はやっぱりキッチン担当で、関係者を招いてのレセプションに向けて、メニューのレシピを元に料理の作り方を教えていく。
今日顔を合わせたばかりのバイトと働くのは、他店舗に応援に来た時のような気持ちだった。だけど今度からはここが自店になり、仲間は今教えているやつらになる。
休憩中、エリアマネージャーから近くのマンスリーアパートに案内された。
契約自体はすでにしてもらっているのは知っていたが、来るのは初めてだった。
カギを受け取り、中に入ると、一人暮らし用のワンルームだった。
ただ狭くて小さいながらも、必要な家具家電はすべてそろっていて、俺の部屋にある段ボールを持ち込めば引っ越しはすぐ完了しそうだった。
店に戻り、オペレーションと片付けを終え、帰宅に車で二時間半。
帰ったのは日付が変わろうとする時間で、俺は駐車場に車を止め、疲れから運転席に座ったまましばらく放心した。
ぼうっとしていると、前をだれかが通り過ぎた。
視界に映ったのはほんの数秒だけど、若菜だとわかると、シートからがばっと体を起こす。
ちらっと見えた若菜の姿は仕事着だった。シートから身を起こし、ドアをあけようとする自分がいることにも気づく。だけど―――。
「あいつ、やっぱこんな遅くまで仕事してるんだ……」
車の中にいるから聞こえないはずなのに、若菜の家のドアが開いて、閉まる音が頭の中で響いた気がした。それはただの想像なのに、胸が苦しくなって唇を噛んでいた。
俺はもうじきここからいなくなるし、若菜の「おとなりさん」でなくなると、今改めて実感したからかもしれない。
ただ家に帰るだけなのにその気力が起きず、どさりとシートに体を預けた。
見るともなしにフロントガラスの向こうを見ていたが、やがて苦しさから目を閉じていた。
30年変わらず見慣れた光景。
その中に自分も若菜もいるのが当たり前だったのに、自分だけいなくなるのがどうしてもイメージできない。
重たい息をついてゆっくり瞼をあける。
このままいても仕方ないし、とりあえず家に帰ろう。
のろのろと動き出そうとした時、フロントガラスの向こうにだれかが見えた。
それが若菜に見えて思わず瞬きするが、街灯の光を背にこちらを向いている若菜は、瞬きした後も姿が消えない。
(えっ)
勢いよく身を起こすと、相手も驚いたようだった。
ここからじゃよく見えないけど、若菜はなんとも言えない顔で、ふっと笑う。
俺は勢い任せにドアを開け、外に出た。ドアが閉まる音がガレージに響き、あたりがまた静まり返ると、道路脇に立っている若菜へと近づいた。
「なんだ、湊、起きてたんだ。さっき前を通りかかって、ふと車の中に湊がいたような気がして戻ってきて見たら、やっぱりいたから」
若菜は呆れとも心配ともつかない顔で、まるで姉が弟に話すような調子で言った。
「……あぁ、さっき帰ってきたんだ」
若菜と話すのはこの間のグランピング以来だった。
あの日はほとんど話さず帰ってきたから、多少の気まずさもあるけど、思いがけず若菜と話せて、ほっとしたような嬉しいような複雑な気分が胸をもたげた。
「車って……湊どこか出かけてたの?」
「あ、新店舗での顔合わせとかがあって」
「そうだったんだ」
「若菜は仕事?」
あまり異動先の話をしたくなくて話題を変えると、若菜は眉を下げて苦笑いをした。
その表情から今まで仕事ではなかったんだと悟ると同時に、よく見れば若菜はすこし飲んでいるとわかった。
「あー……。今日、ちょっと原田くんとごはん食べてたんだ。この間話してた、お父さんのことお礼言おうと思って」
若菜からその回答がくると心づもりしていなかったから、不意打ちで胸をはたかれたような感じがした。
咄嗟に「そう」と答えたけど、若菜と目を合わせられなくなって、気づけば斜め下へ目を逸らしていた。
原田と会ったなら―――告白の返事をもうしたんだろうか。
気にはなるけど、原田からの告白の返事をしたのか、俺から聞けそうにはない。
俺は部外者だし、原田の告白にどう返事するかは若菜が決めることだ。
ただ、ふたりでどんな話をしたのか気になるのはどうしようもなかった。
俺から言葉は出てこないのに、かといって「じゃあ」とこのまま家に帰るには消化不足でもやもやするし、若菜と久しぶりに会えたのだから、なんとなくもうすこしいたいと思っていたのも事実だった。
原田と若菜がしていた話を、聞きたいような聞きたくないような心持ちでいると、若菜がふっと笑う。
「なんか、不思議だね。湊が異動なんて、嘘みたい」
独り言のように呟かれた言葉に顔をあげると、若菜は俺と目が合う直前、視線を通りの向こうへやった。
俺ではなく、どこを見ているのかわからないその横顔を―――見慣れているはずの若菜の横顔を、とても久しぶりに見ているような、切ない気持ちで見つめる。
「俺も嘘みたいだよ。今日その店に行って働いたけど、借りてきたネコみたいな気分を味わった」
「なにそれ。わけわかんない」
若菜がくすくす笑う。
俺は笑えるほど気分が軽くなったわけじゃなかったけど、すこし力が抜けたからか、苦笑いが浮かんだ。
「湊、原田くんにも言ったんだね。異動になるって。
残念がってたよ。俺が大阪から戻ってきたら、清水が異動かーって言ってた」
「そっか」
そこで若菜は肺から吐き出すような、大きな息をひとつつく。
「……いい人だよね、原田くん。
中学生の頃は話したことはあっても、仲がいいってほどじゃなかったし、あんまりどういう人かわからなかったけど。
今日もずっと励ましてくれててね。お父さんのこととか、お店のこととか、力になるって言ってくれてた」
「……そっか」
「ねぇ湊。湊はいつから知ってたの?
原田くんが……私を好きだってこと」
若菜は笑みをたたえたまま、ゆっくり口にした。
俺を見ないその目は、まだどこか遠くを見つめている。
「前バーベキューした日に、湊、言ったでしょ。原田に告白された?って。あれ地味に引っかかってたんだよ。いつから知ってたんだろうって」
あれはもう原田が告白していると思ったから言ったけど、たしかに若菜にすれば、原田が俺に話していると気付くだろう。気になるのも当たり前か。
「最初にあいつに相談されたのは、中学ん時」
それはさすがに意外だったらしく、若菜は「えっ」と俺を見た。
「でもその時は結局告白しなかったって、あいつに再会してから言われた。その後、もう一度相談されたというか。
だからあいつの気持ちは知ってた」
「そうだったんだ……」
若菜は語尾をしぼませ、どこか気の抜けた声で言う。
諦めとも苛立ちともつかない無力感の中、本当ならこんな話をしたくないのに、と心の底で思っていた。
若菜も若菜で、視線を落としたままなにか考えているらしく、沈黙が続いた。
躊躇ったような間の後、若菜の唇がかすかに動く。
「湊は、それを聞いて……。原田くんが私を好きだって聞いて……」
かすれた若菜の声は、口を閉じたことで聞こえなくなった。
鼓動が大きくなる。
原田が若菜を好きだって聞いて、どうだったのか。
若菜がそれを聞きたいと思っているように感じるから、安易に俺も口を開けなかった。
しかしそれを正直に答えたところで、ここを去る俺がなにを言っても状況がよくなるとは思えない。
本音は別でも、俺は原田と若菜がうまくいくのを応援する立ち位置になったのだから。