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泡咲めろあ🫧🪄
843
りんご
904
弔いの村。
その名を聞いてから、旅僧の胸騒ぎは消えない。
山を越えた。
谷を下った。
幾度か道を外れ、それでも鐘の音だけを頼りに歩いた。
夕暮れ。
ようやく村が見えた。
二十戸ほどの小さな集落だった。
田畑がある。
細い川も流れている。
子供の声まで聞こえた。
どこにでもありそうな山村。
だが。
門をくぐったところで、旅僧の足が止まった。
「……何ですか、これは」
風に揺れている。
白い布だった。
一軒。
また一軒。
どの家にも掛かっている。
軒先だけではない。
窓にも。
戸口にも。
柱にも。
まるで村そのものが、喪に服しているようだった。
佐衛門は何も言わず歩いている。
視線だけが、あちらこちらへ動く。
やがて一軒の家の前で止まった。
縁側に老人が座っている。
目を閉じている。
動かない。
眠っているのかと思った。
旅僧が近づく。
「お爺さん」
返事はない。
もう一度。
「お爺さん?」
肩へ手を置いた。
冷たい。
硬い。
旅僧の顔から血の気が引いた。
「……亡くなっています」
佐衛門は老人を見る。
娘らしい女が、家の中から顔を出した。
「そうだよ」
あまりにも普通の返事だった。
旅僧が振り返る。
「ご存じなのですか?」
「うん」
娘は首を傾げる。
「お爺ちゃんだよ」
「……死んでおりますぞ」
「そうだけど」
娘は不思議そうに老人を見る。
「だから何?」
旅僧の言葉が詰まった。
娘は老人の肩へ毛布を掛ける。
「夜は冷えるから」
死者の身体へ。
生きている家族と同じように。
「風邪ひいちゃうでしょう」
旅僧は何も言えなかった。
佐衛門は、その光景を黙って見ていた。
*
村を歩く。
どの家にも死者がいた。
縁側に座る老婆。
囲炉裏の脇で眠る男。
庭先で煙草を持ったまま動かない老人。
子供のいる家もあった。
死者が、生者の隣にいる。
誰も騒がない。
誰も恐れない。
むしろ。
大切にしている。
人影が、ぽつりと言った。
「そういう村か」
旅僧が振り向く。
「ご存じなのですか」
「いや」
白い布を見つめる。
「思い出しただけだ」
それ以上は語らなかった。
やがて村長が現れた。
年老いた男だった。
「旅のお方ですか」
「ああ」
佐衛門が答える。
「一晩、泊めてもらいたい」
「それは構いません」
村長は笑った。
その笑顔にも、どこか疲れがある。
旅僧が尋ねた。
「どうして、死者を埋葬しないのです?」
村長は少し考えた。
「埋めたら」
声が小さくなる。
「帰れなくなるからです」
「帰れない?」
「ええ」
村長は村の奥を見る。
「昔から言われております」
「鐘が鳴るまで、家に置いておけ、と」
佐衛門の目が細くなった。
「鐘?」
「迎えの鐘です」
村長は当たり前のことのように答えた。
「鳴れば、死者は帰る」
その言葉を聞いた瞬間。
どこかで、犬が鳴いた。
一度。
それきりだった。
旅僧は何となく山を見る。
何もない。
木々が風に揺れているだけだった。
「……いつからです?」
旅僧が尋ねる。
村長は少し黙った。
「さあ……」
「昔からです」
それだけだった。
佐衛門は山を見ている。
「その鐘は」
「今夜も鳴るでしょう」
村長はそう言って、家へ戻っていった。
残された三人は、しばらく山を見ていた。
何も聞こえない。
風の音だけ。
虫の声だけ。
それが妙に大きく聞こえた。
*
夜。
三人と人影は、村外れの空き家を借りた。
囲炉裏の火が小さく爆ぜる。
外は静かだった。
あまりにも静かだった。
旅僧は横になった。
目を閉じる。
眠れない。
昼間に見た老人の姿が頭から離れない。
死んでいる。
なのに。
家族は生きている者と同じように接していた。
怖い。
そう思う。
けれど。
それだけではなかった。
あの娘は、祖父を本当に大切にしていた。
だからこそ。
余計に怖かった。
火が一つ、弾ける。
パチッ。
その音に、旅僧が目を開けた。
静かだ。
佐衛門は眠っている。
お師さんは壁にもたれている。
人影は、目を閉じていた。
旅僧は再び目を閉じる。
しばらくして。
――ゴォォォォン。
遠くで。
何かが鳴った。
旅僧は目を開けた。
身体を起こす。
「……鐘?」
返事はない。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
気のせいか。
そう思った。
その時。
――ゴォォォォン。
二度目。
今度は、はっきり聞こえた。
佐衛門の目が開いた。
同時に起き上がる。
何も言わない。
ただ外を見る。
お師さんも立ち上がった。
人影だけが動かなかった。
「……始まった」
低い声だった。
佐衛門が戸を開ける。
冷たい夜気が流れ込む。
村は暗い。
明かりも少ない。
人の気配もない。
旅僧が外へ出る。
「何も……」
言いかけて。
止まった。
遠くの家から。
戸が開く音がした。
ギィィ……。
一軒。
また一軒。
ギィィ……。
村のあちこちで、戸が開いていく。
旅僧の喉が鳴った。
「……まさか」
人影が山を見ている。
「まだだ」
「え?」
「鐘が三度鳴るまでは」
ゴォォォォン――。
三度目。
鐘が鳴った。
その瞬間。
村の家々から。
人影が出てきた。
ゆっくりと。
白い布の下から。
一人。
二人。
三人。
昼間、縁側に座っていた老人。
庭先にいた老婆。
囲炉裏の脇で眠っていた男。
皆。
立ち上がっていた。
誰も喋らない。
誰もこちらを見ない。
ただ。
山を見ている。
そして。
歩き出した。
ゴォォォォン――。
鐘が鳴るたび。
一歩。
また一歩。
死者たちは山へ向かって歩いていく。
村人たちも外へ出てきた。
誰も止めない。
誰も泣かない。
ただ見送っている。
あの娘もいた。
老人の姿を見つめている。
旅僧が叫んだ。
「止めないのですか!」
娘は首を振る。
「迎えが来たから」
「ですが、あれは――」
「大丈夫」
娘は微笑んだ。
「また帰ってくるから」
その言葉に。
佐衛門の目が細くなった。
死者の列の向こう。
山の闇の中から。
また鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
今度は。
今までより近かった。
佐衛門は刀の柄へ手を置いた。
「……行くぞ」
旅僧が振り返る。
「どちらへ?」
佐衛門は山を見る。
「鐘だ」
死者たちは歩いている。
白い布を揺らす家々を背に。
誰も引き留めない。
誰も追いかけない。
まるで。
それが正しい弔いであるかのように。
佐衛門たちは、その後を追った。
山の奥へ。
鐘の音が待つ場所へ。
コメント
1件
ああ、この話、すごく好きです。死者がまるで生きているみたいに家に置かれている日常の、あの不気味さと温かさが混ざった空気感がたまらなかったです。「また帰ってくるから」って娘さんが笑うところ、ぞっとするのにどこか切なくて……。鐘の音とともに動き出す死者たちの描写が静かで美しくて、でも怖くて。佐衛門さんが刀の柄に手をやる最後の場面、続きが気になりますね。