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「遅くなってごめんね」

「どう……して……」


去年まで、樹梨の手首にはなかった。どうして、今になって――。


「これね……あの日に買ったの――」と言った樹梨の声が、少し震えていた。

『あの日』が、十二年前の事件の日だとわかった。

「あの日、咲から行けなくなったって電話があった時、約束の時間より随分早かったのに私と千鶴は一緒にいたでしょう? 咲の誕生日プレゼントを買いに行ってたの」

そうだ。約束の時間の二時間も前だったのに、千鶴と樹梨は一緒にいた。理由なんて、考えなかった。

「ちゃんと、咲の誕生日に渡すはずだったのに、あんなことになって……」


また、だ――。

息が苦しい……。


樹梨の姿がぼやけて見える。

「咲、今まで渡せなくてごめん」

私は夢中で首を振った。

「咲、誕生日おめでとう」

私を見上げて、樹梨が笑った。瞳に涙を浮かべて、幸せそうに。

「咲、今まで私を守ってくれてありがとう」

「え……」

「知ってたよ。あの事件の後からずっと、咲が私を心配して守ってくれてたこと」

「な……に……」

そんなはず、ない。

「あの男たちを罰してくれたの……咲でしょう?」

「ちがっ――」

「もう、大丈夫だから」

涙で、樹梨の顔が見えない。

息苦しさで、上手く声が出ない。

「私、日高さんと結婚するの」

樹梨がハンカチで私の涙を拭ってくれた。そのハンカチは蒼が差し出したもので、蒼と同じ香りがした。

「私はもう、大丈夫だから。心配しないで?」

「だけどっ……」

「咲、もう自分を責めないで。咲は何も悪くない。咲を責めてるのは、咲だけだよ?」

「私がっ――! 私がちゃんと二人を引き留めていれば……。私が……一緒にいた……ら……」

「違うよ、咲。咲はちゃんと言ってくれたよ、『危ない』って。咲の言葉を無視してあんなところに行った私と千鶴が馬鹿だったの」

「違う!」

自分でも自分の声に驚いた。

蒼が私の肩を抱いた。

「聞いて、咲。私も千鶴もあんな目にあって、本当に怖かった。でもね、咲を恨んだことは一度もない。怖かったし苦しかったけど、咲が一緒じゃなかったことを恨んだりしてない」

「だけど――」

「咲が一緒にいて、何が出来た? 咲が一緒だったら何も起こらなかったと思う?」

「だけど……、私だけ……」

自分でも情けないほど、涙が止まらなかった。毎年樹梨に会っていたのに、面と向かって事件の話をするのは初めてだった。

「一緒に地獄に落ちて欲しかったなんて、思ってない!」

樹梨が強い口調で言った。

「咲に、一緒に傷ついて欲しかったなんて、思ってないよ」

「樹梨……」

「なんて……偉そうなこと言う資格、私にはないの……」

樹梨が顔を伏せた。

「一人だけ無事だったこと、咲が後ろめたく思ってるの知ってた……。事件が広まらないように、動いてくれてたこと知ってた。千鶴が死ぬのを止められなかったこと、苦しんでたの知ってた……。千鶴の自殺が他殺になるように、嘘をついてたこと知ってた――」

「な……にを……」

「咲のせいじゃない……」

私の手に雫が落ちた。

「千鶴が自殺したの……私のせいなの――」

樹梨が泣いている……。

「千鶴が一人であのビルに行ったの……私のせいなの……」

「え……?」

「あいつらに写真撮られて……。写真をバラまかれたくなきゃあのビルに来いって……呼び出されて……」

知っている。

呼び出されて一人でビルに行った千鶴は、再び男たちに犯されて、飛び降りた。

でも、呼び出されたのは千鶴一人のはずだ。

「私も呼び出されたの……。だけど、千鶴一人で行かせた……」

「待って……。写真はないって……言った」

携帯で撮られた写真はすべて、私が消去した。

そして、そのことを二人に伝えた。

「うん、聞いた。写真は咲が消してくれたって……。咲は『もう大丈夫』って言ってくれたのに……私は信じきれなかった――」

「どう……いう……」

「あいつらに呼び出された時、千鶴は『咲が大丈夫だって言った』って、呼び出しを無視しようとしたの。でも、私は咲の言葉を信じきれなくて、千鶴に言ったの。『もし、写真がまだ残っていたら?』って……」

日高さんが樹梨にハンカチを差し出した。樹梨は受け取って、涙を拭う。

「そんなことを言ったら、写真が残っているのか、千鶴が確かめに行くことはわかってたのに……。私、怖くて……」

ずっと、千鶴が私の言葉を信じきれずに、あのビルに行ったんだと思っていた。

「千鶴は、自分が私を巻き込んだって……苦しんでた……。だから、私に言われて……確かめに行ったの。もしも、写真がまだあるなら……取り返すって……」

「樹梨……」

「それを……私は黙ってたの……」

「樹梨……」

そうだ、思い出した。

樹梨は一度だけ告白した。

『千鶴が死んだのは私のせいなの』と。

「黙って……ずっと生きてきた……」

『だから、私も死にたい』と。

「ずっと……私だけ咲に守られてきた……」

違う。

『死にたい』と言った樹梨を引き留めたのは、私だ。

「樹梨……」

『今度こそ、私も一緒に連れて逝って――』と。

「ごめんなさい――!」

「もし、あの時……」

いつの間にか、私の涙は乾いていた。

「あの時、そのことを知っていたとしても、同じことを言ったよ?」

私は樹梨を抱き締めた。

「絶対、一人では逝かせなかった――」


許されたかったのは、樹梨だった――。


*****


翌日、私は千鶴の十三回忌法要を終えて、蒼と千鶴のお墓の前にいた。

昨日、樹梨と日高さんが帰った後、蒼は何も言わなかったし、聞かなかった。私は泣きすぎてひどく疲れてしまって、フルーツをぺろりと平らげて、蒼とお風呂に入って、セックスをして、朝までぐっすりと眠った。

目が覚めた時、蒼の腕の温かさに涙が出た。

この腕を離したくないと思った。

「千鶴、これ……ありがとう」と私はブレスレットを見せた。

千鶴のブレスレットは、亡くなった時に千鶴が身に付けていて、遺体と一緒に棺に入れられたのだと、法要の後で千鶴のお母さんに聞いた。

千鶴のブレスレットには薄い紫のアメジストが付いていた。アメジストは二月の誕生石。

「ねぇ、蒼……」

私は千鶴から目を逸らさず、隣に立つ蒼の手を握った。

「私が蒼の邪魔になる時が来たら……迷わず手を離してね。もう……私からは離せそうにないから……」

途端に、蒼がパッと私の手を離した。

「いきなりっ?」

「いや、邪魔だったから……」と言いながら、蒼はジャケットのポケットから小さな箱を出した。

「え……」

蒼は箱の中から白いベルベットの箱を取り出し、私に差し出した。

私は受け取るのを躊躇した。

中身が高価なアクセサリーであることは、開けてみなくても想像できた。

「誕生日プレゼント」

私は蒼の言葉を信じて、箱を受け取った。「ありが――」

箱を開けて、すぐにパタンと閉じた。

「ちょっと……待って……」

ちらっと見えたのは、神々しい輝きを放つ指輪。

「なに……これ」

「だから、誕生日プレゼント」

「誕生日プレゼントのレベルじゃないでしょう?」

「じゃあ、虫よけ」と言って、蒼は私の手から箱を拾い上げた。

ケースの中から指輪を出して、私の左手の薬指にはめた。

プラチナのリングにダイヤが三つ飾られている。

「虫よけって……」

「名前なんて、なんでもいいんだよ。咲が、俺が贈った指輪をはめていてくれるなら、虫よけでも、誕生日プレゼントでも、婚約指輪でも……」

蒼が優しく微笑んで、私のおでこにキスをした。

「愛してるよ、咲」

蒼の唇が私の唇に触れて、初めてのキスのように胸が高鳴った。

「生きていてくれて、ありがとう」


結婚式の誓いのようだと思った――。

女は秘密の香りで獣になる

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