その日は朝から、るかが少しそわそわしていた。
洗面所の鏡をじっと見つめたり、
何度も服を替えようとクローゼットを開けたり。
「どっか行くの?」
そう訊くと、るかは気だるそうに答えた。
「ちょっとだけ。……買い物」
「誰かと?」
「ひとり。……たぶん」
たぶん、ってなんだよ、と思ったけど
それ以上は聞かなかった。
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昼過ぎ。
るかは黒いパーカーを羽織って、出かけていった。
髪の毛をいつもよりしっかり整えて、
イヤホンを両耳に差したまま、目も合わせずに。
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帰ってきたのは、19時すぎ。
「……ただいま」
玄関から聞こえた声は小さくて、
どこか湿っていた。
「おかえり。雨、大丈夫だった?」
「降ってない」
返事はしたけど、靴を脱ぐ動作が妙に雑で、
バッグを床に置く音も少しだけ強かった。
それだけで、なんとなくわかる。
ああ、たぶんうまくいかなかったんだな、って。
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そのままリビングに来るでもなく、
るかは自分の部屋に引っ込んだ。
ドアは閉めきられていない。
でも、話しかけていい空気ではなかった。
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夕飯の時間。
とりあえず皿をふたつ並べて、
「できたよ」と声をかける。
しばらくして、るかが出てきた。
パーカーを脱いで、Tシャツ姿になっていたけど、
その表情はずっと、どこか遠かった。
黙ったまま、箸を持つ。
食べる。けど、味はたぶん、あまり入ってない。
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「……なにかあった?」
俺がそう訊いたのは、食べ終わる直前だった。
るかは一瞬、顔を上げたけど、すぐに目をそらした。
「べつに」
「そっか」
それ以上は訊かなかった。
でもそのあと、小さな声がぽつりとこぼれた。
「……なんかさ。わかってたのに、ちょっと期待した自分がバカみたい」
「……」
「もういいけど。そういうの、あたし向いてないし」
るかは水を飲んで、テーブルのコップをそっと置いた。
「味噌汁、今日のはちょっと濃かった」
「ごめん、分量間違えた」
「……でも、わりと好きかも」
小さな笑いが混ざったそのひとことに、
俺はなにも言わず、ただうなずいた。
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こういう夜は、寄り添うよりも、黙っている方がいい。
気づいてることを、言葉にしないことが、
優しさになる夜もある。
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