風が梅枝を吹き渡る。
後宮の庭には、ちらほらと春の芽吹きが漂っていた。
「今日は、ご気分がよろしいようで」
寝台に身を起こすドンレに、リンは声をかけた。
「さあ、薬湯をお持ちしました」
大振りの白磁の茶碗を差し出す美しい指。輝く瞳に、血色のいい頬。
ドンレは、思わず目をそらした。
「どうされました?」
「年には勝てぬ。私のことなど、もうかまわなくてよい」
「また、そのようなことを。私は、ドンレ様に命を救われたのです。ですから、私はお役に立ちたいのです」
グソンが王に斬られ、リンも捕らえられた。
謀反を企てた者と関わっていた――。それだけで、十分、死罪になりえる。
しかし、ドンレが救った。
美しいリンの命をみすみす取るのは偲びないと、側に仕えさせるために――。
近頃、ドンレは臥せりきりで、床《とこ》から起き上がるのもままならない。
リンにとっては好都合。夜伽《よとぎ》の相手をしなくていいからだ。
グソンを失い、しかも、女を相手にしなければならないと思うだけで、虫ずが走った。
それも、愛しいグソンを陥れた女であれば、なおさらのこと……。
「そうか……」
リンの胸のうちなど知りもせず、ドンレは弱々しく微笑むと、受けた薬湯を口にした。
──冷えきった後宮の廊下を抜けて、リンは足ばやに自分の屋敷へと向かっている。
後宮は静まりかえっていた。
王妃が亡くなり、ドンレまで病に臥せっていては、勤める女達も自然萎縮した。
王妃は乱心した王に切りつけられた――。
いや、かの国と戦を起こす口実の犠牲になった――。
さまざまな噂、憶測が飛び交って、宮殿自体とてつもなく深い闇に閉ざされている。
リンは、脇へそれた。グソンと暮らした屋敷は、リンのものになっていた。
彼がドンレにねだって、守り抜いた思い出の館《やかた》……。
従者達が深々と頭を下げて出迎える中を、黙って通り抜け、自分の寝室へ向かっていく。
「ああ、待たせたね」
「お呼びでしょうか?」
若い男が控えていた。
纏う白い作務衣から、ほのかに薬草の香りが漂ってくる。
男を気にすることなく、リンは従者を呼びつけ、宦官の黒衣を脱ぎ始めた。
従者の用意した部屋着に着替えると、リンは人払いを言いつける。
「それで、効き目はいつ現れるんだい?」
「そう早くは……」
「そうだね。あまりに早いと、宦官の仕業と、陰口を叩かれる」
リンの物わかりいい返事を受けて、男は表情を緩めた。
「でも、私は、はやくあの女を消し去りたいんだよ。さっさと毒がまわればいいのに」
「しっ、お声が」
いさめる男を押しやるように、リンがいきり立つ。
「はん!誰しも、ドンレは鼻につくだろう?私が皆の変わりに殺《あや》めてやるだけのことじゃないか」
男は、リンの有り様におどおどと周囲を気にかける。
「……わかりました。もう少し、量を増やしてみましょう」
男は、宮殿の薬師。リンがまだ見習いとして働いていた時、出入りしていた薬房で知り合った。
まさか、こんな形で役立つとは思ってもいなかった。
リンは、控える男に吐息のような声をかける。
「いいかい?頼れるのは、お前だけだからね」
男はリンの言葉に頬を染めた。