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第3話 嘲る
朝、教室の窓は少しだけくもっていた。
外は晴れているのに、内側にだけ薄い膜がかかっている。
誰かの息が残っていたみたいだった。
ミチルはその窓のそばを通って、自分の席へ向かった。
机の角。
いすの背。
床のこすれ。
毎日見ているものなのに、教室の中に入ると形が少し変わる。
何も増えていないのに、見られる場所だけが増えている気がした。
「おはよー」
ヒナの声がした。
前の列。
肩の少し上でそろえた髪が、振り向いた拍子に小さく揺れる。
笑うと片側だけにえくぼができる顔。
ノートをきれいに重ねて、ペンをその上にまっすぐ置く癖がある。
ヒナはたいてい誰にでも同じように声をかける。
特別明るいわけでも、特別やさしいわけでもない。
でも、そこに棘がない。
ミチルは少しだけ肩の力を抜いた。
「おはよ」
返すと、ヒナは目を細めた。
そのあと、何か言いかけてやめた。
教室の空気を見た顔だった。
ミチルは席に座った。
椅子の脚が軽く鳴る。
後ろのほうでユウタが笑っている。
その笑いにサエが混ざる。
そしてナナカの声が入ると、笑いの向きが決まる。
今日もそうだった。
ナナカは頬杖をつき、窓からの光を片頬に受けていた。
髪は肩より少し下までまっすぐ落ち、前髪の下の目だけが先に動く。
口元はやわらかい形をしているのに、そこへ出てくる言葉はやわらかく終わらない。
「ねえ」
その声に、教室のいくつかが止まる。
ミチルは自分へ向けられたと、もうすぐにわかった。
「なに」
「さっき笑った?」
笑った。
たったそれだけだった。
ミチルは一度、まばたきをした。
ヒナがすぐそばでノートを開く手を止める。
「笑ってないけど」
「え、でも」
ナナカは少し首をかしげた。
「笑ったよね」
ユウタが鼻で笑う。
そこへサエが視線だけ寄せてくる。
まだ本気ではない顔。
でも、もう聞く体勢には入っている顔。
「いや、別に」
ミチルが言う。
「今、ヒナのほう見て」
ナナカの指は向けられない。
ただ目だけでなぞる。
「なんか、ふってしたじゃん」
ふってした。
曖昧な言い方なのに、教室の中では妙に通じる。
ヒナが口を開いた。
「え、私なんかした?」
その声は困っている声だった。
責めている声ではない。
だから余計にまずい。
ミチルはすぐ首を振った。
「違うよ、何も」
「何もしてないのに笑われたってこと?」
ナナカが言った。
一拍。
「いや、笑ってないって」
二拍。
「でも見てたよね」
三拍。
その三つが並んだ瞬間、教室の空気が少しだけ前へ傾いた。
ミチルは自分の口元に意識が集まるのを感じた。
口角が上がっていたのか。
下がっていたのか。
引いていたのか。
そんなもの、さっきまで気にしていなかった。
「見ただけじゃん」
「見て笑った」
「笑ってない」
「笑ってたよ」
サエが言った。
試しに入れた声ではなかった。
もう少し踏み込んだ声だった。
ミチルはサエを見た。
サエは目をそらさない。
丸い目で、そのままこちらを見る。
「笑ってないってば」
「でもさ」
ユウタが椅子にもたれたまま言う。
「そういう顔してた」
そういう顔。
また見えないものが増える。
ヒナが困ったように笑った。
でもその笑いは、助けるための笑いではなかった。
どうしていいかわからない人の笑いだった。
「べつに、私はいいけど」
その一言で、ミチルの喉がきしんだ。
いいけど。
許している形。
なのに、何かが起きたことは前提になっている形。
ナナカが小さくうなずく。
「ヒナがいいって言ってもさ」
そこで少し間を置く。
「周りが嫌じゃん」
みんなのものになる。
またそれだった。
ミチルの手が机の下で固まる。
親指が左手のあかぎれに触れる。
そこだけがやけに痛い。
担任が入ってきて、朝の会が始まった。
日付。
提出物。
小テストの連絡。
普通の声が教室を通る。
けれど、ミチルの耳の中ではまだ、笑った、が残っていた。
その日、国語の授業で朗読の順番がまわった。
ヒナが先に読んだ。
高すぎない、聞き取りやすい声だった。
句点のところで小さく息を置く。
教科書を持つ手首が細い。
袖口からのぞくそれが、黒板の前の光で少しだけ明るい。
読み終わって座ると、ヒナは小さく息を吐いた。
その瞬間、ミチルの口元も少しだけ動いた。
ほんのわずか。
緊張がほどけたときみたいに。
たぶん、それだけだった。
けれど、ナナカは見ていた。
「ほら」
小さな声。
でも、近くには十分届く。
「また」
ヒナがそれを聞いたかどうかはわからない。
けれどサエは聞いた。
ユウタも聞いた。
その後ろの子もたぶん聞いた。
ミチルは教科書の文字を追った。
字が滑る。
行の切れ目が頭に入らない。
次の休み時間、消しゴムがミチルの机に落ちてきた。
誰のものかわからなかった。
拾って顔を上げると、ヒナの机のほうから誰かが言った。
「投げた?」
「違う」
ミチルはすぐ言う。
「今、持ってたよね」
サエだった。
「拾っただけ」
「でもなんで笑ってたの」
話が戻る。
戻るというより、ずっとそこにいる。
「笑ってないって」
「じゃあ何」
何。
その問いの前で、ミチルはいつも少し遅れる。
言葉を出す前に、出した先の形を考えてしまう。
考えるから遅れる。
遅れると、もう意味がつく。
「普通にしてただけ」
「普通?」
ナナカが言う。
頬杖をついたまま、静かな目で。
「普通の顔って、人見てああいうふうになる?」
ああいうふう。
そこにも形がない。
ないのに、全員が同じものを見ているように進む。
ヒナが小さく首を振った。
「もういいよ」
やさしいような声。
けれど、ミチルはそのやさしさの薄さを聞いてしまった。
紙一枚のやさしさ。
光に透けるくらいの。
「私、別に怒ってないし」
怒ってないし。
また同じだ。
許す側の位置。
その言葉を出せる位置。
ミチルは、怒らせたつもりもないまま、もう怒らせたことになっている。
給食の時間、ミチルはなるべく顔を上げないようにしていた。
上げると見てしまう。
見ればまた何かになる。
トレイの上の揚げ物を箸で切る。
汁の表面は静かだった。
「そんなに黙る?」
ユウタが向かいの席から言う。
今日の班はそこだった。
ほんの一週間前なら、何でもない席だったはずの位置。
「喋ることないし」
「怒ってるみたい」
サエが言う。
「いや、怒ってない」
「じゃあ何」
またそれ。
ミチルは箸を置いた。
自分の口元に力が入っているのがわかる。
緩めようとして、余計に変になる。
そのとき、ヒナが笑った。
向かいの子がこぼした牛乳のことを見て、小さく。
片側にえくぼが出る笑い。
ミチルはつられてほんの少しだけ目元をゆるめた。
それだけだった。
「ほら」
ナナカの声。
「やっぱヒナのこと笑ってる」
教室の空気が、目に見えない布みたいに一度ひるがえる。
「違う」
ミチルがすぐ言う。
「今のは違う」
「何が」
「別のことで」
「でもヒナ見てた」
「たまたま」
「たまたまでそうなる?」
ナナカの声はまだ静かだった。
静かだから、周りが入りやすい。
ユウタが笑う。
「わかりやす」
サエも、口元を押さえて笑う。
その笑いの先に、ミチルの顔がある。
ヒナは困ったようにトレイを見た。
助けない。
でも責めない。
その曖昧さが、いちばん刺さる。
「べつに私はいいって」
またそれ。
ミチルは、胸の奥で何かがざらつくのを感じた。
いい、なら、なぜ続くのか。
怒ってない、なら、なぜ広がるのか。
答えは出ない。
出ないまま、言葉だけが出る。
「だから何もしてないって」
一瞬、教室が静かになった。
強く言ったつもりはなかった。
でも、語尾が少し固かった。
ナナカがそこで、はじめて少しだけ笑った。
「何もしてない人って」
その口元だけがやわらかい。
「そんな言い方する?」
サエが、あ、と小さく息をもらす。
ユウタが鼻で笑う。
後ろの子が、たしかに、とこぼす。
ミチルは自分の声の形を思い返す。
強かったか。
冷たかったか。
でも、思い返せば返すほど、もう自分のものではなくなっていく。
昼休みのあと、廊下ですれ違いざまに、二年の女子がこちらを見た。
ただそれだけのことなのに、ミチルは自分の口元を確認したくなる。
今どんな顔だろう。
笑っていないか。
引いていないか。
ゆがんでいないか。
窓ガラスに映る自分を見ても、よくわからない。
肩の少し上でそろえた髪のヒナとは違う。
頬杖のまま目だけで切ってくるナナカとも違う。
当たり前なのに、その当たり前が頼りない。
教室へ戻ると、ヒナがノートを開いていた。
角をきれいにそろえる指。
細い指。
片側だけにえくぼが出る笑い。
そのどれもが、今はミチルを緊張させる。
自分がまた何かをしてしまうかもしれないから。
いや、してしまうのではない。
何かになってしまうから。
五時間目は美術だった。
机を寄せて、道具を出す。
絵の具。
水の入った容器。
筆。
ヒナが隣の席に来た。
近くで見ると、睫毛の影が頬に薄く落ちている。
ノートをそろえるときと同じ手つきで、筆を並べる。
「これ使う?」
水入れを少しこちらへ寄せる。
ミチルは一瞬迷ってから、首を振った。
「だいじょうぶ」
ヒナが少しだけ間を置いた。
それから、水入れを戻す。
そのときだった。
「避けた?」
サエの声。
美術室のざわめきの中でも、近くにはよく届く声。
ミチルは顔を上げる。
サエは自分の筆を持ったままこちらを見ていた。
「え」
「今、ヒナの使うの嫌で避けた?」
「違う」
「でも断ったよね」
「自分のあるから」
「そういう言い方」
ナナカが入る。
「感じ悪いよね」
ヒナがすぐ言った。
「いや、そんなことないよ」
困っている声。
助けようとしているつもりの声。
でも、その声もまた、すでに起きたことの後ろに立つ声だった。
「ヒナがそう言うとこもあるけどさ」
ナナカが言う。
「普通わかるでしょ」
普通。
また、逃げ場のない言葉。
ミチルは水入れを強く持った。
指に力が入り、水面が揺れる。
その揺れを見て、ユウタが笑った。
「図星っぽ」
「違うってば」
「じゃあなんでそんな顔してんの」
何の顔。
もう何度目かわからない。
美術の授業が終わるころ、ミチルの絵の具皿のふちに茶色の筋がついていた。
ただの混ざり方。
でも、それすら見られている気がする。
帰りの会で担任が連絡事項を話しているあいだ、ミチルは前を向いていた。
前しか向けなかった。
ヒナの背中が少しだけ見える。
肩の少し上でそろった髪。
袖からのぞく細い手首。
その背中へ目を向けるのも怖い。
向けたらまた、何かになる。
会が終わり、みんなが立ち上がる。
椅子の脚が鳴る。
かばんの金具が当たる。
窓際の光は少しだけ傾いている。
ヒナが先に教室を出ようとした。
その背中を、ミチルはほんの一瞬だけ見た。
たぶん、何も考えていなかった。
見るしかなかった。
ただ、そこにいたから。
「まだ見るんだ」
ナナカの声。
短い。
静か。
でも十分。
ヒナが足を止める。
振り返る。
困った顔。
片側にえくぼが出ない、ただ困っただけの顔。
「え」
ミチルの口から出る。
「何が」
「ずっとじゃん」
サエが言う。
「顔もやだけど、見方もやだ」
顔。
見方。
ユウタがかばんを肩にかけながら笑う。
「嘲ってるみたい」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が変わった。
嘲ってる。
笑った、よりも重い。
たぶん、笑い方よりも深い。
口元だけでなく、目線も、沈黙も、全部そこへ入る言葉。
「そんなことしてない」
ミチルが言う。
「何もしてない」
そう言った瞬間、ナナカの口元がほんの少しだけ動いた。
「あ」
とても小さな声。
「何もしてない人って、またそれ言うんだ」
サエが笑う。
ユウタも笑う。
美術の道具を片付けていた後ろの子までつられる。
ヒナは困ったまま立っている。
止めない。
かといって、責めきらない。
その曖昧な場所にいる。
でも、もうそれで十分だった。
「してないならさ」
ナナカが机に手をつく。
立ち上がるわけでも、近づくわけでもない。
けれど、その声はまっすぐ来る。
「なんで毎回、ヒナのこと見てそういう顔になるの」
「そういう顔じゃない」
「じゃあどういう顔」
「普通の」
「普通の顔で人、馬鹿にしないでしょ」
馬鹿にする。
また一段、重くなる。
ミチルは息を吸った。
でも言葉が間に合わない。
普通の顔なんて、自分で見えない。
見えないものをどうやって否定するのか。
その形が出てこない。
「ほら」
ナナカが言う。
「黙る」
黙る。
認める。
またつながる。
「違う」
やっと出たその声は、自分でも弱いと思うほど薄かった。
「違わないよ」
サエが言う。
「だってさ、ずっとそうだもん」
ずっと。
いつから。
どこから。
そんなもの、誰も測っていないはずなのに。
でも、ずっとと言われた瞬間、前からそうだった気がしてくる。
ユウタが口を開く。
「最初から感じ悪かったし」
最初から。
前にも聞いたその言葉が、今度は別の形で刺さる。
いす。
足。
汁。
顔。
見方。
笑い。
全部が一本の線にされる。
ヒナが小さく言う。
「もういいよ」
けれどその声は、もう届かない場所にあった。
教室の流れが先にある。
その上に乗る声は軽い。
ナナカが首をかしげる。
「ヒナがよくてもさ」
そのあと、ゆっくり教室のほうを見る。
「みんな気分悪いよね」
後ろの席の子が目を伏せる。
別の子が、うん、とも違う曖昧な音を漏らす。
タクミはかばんを持ったまま、こちらを一度見て、すぐ目を外した。
だれもはっきり言わない。
でも、だれも否定しない。
それで足りる。
ミチルは、自分の頬が熱いのか冷たいのかわからなくなった。
口元に触れたくなる。
でも、触れたらそれもまた何かになる気がした。
「何もしてないのに」
こぼれたのは、ほとんど独り言みたいな声だった。
「うわ」
ユウタが言う。
「出た」
「何もしてない、ね」
サエも言う。
ナナカはそこで、ほんとうに少しだけ笑った。
きれいな、やわらかい口元で。
「何もしてないのに、そういう顔して」
「何もしてないのに、そういう見方して」
「何もしてないのに、そういう言い方するんだ」
三つ。
短く。
逃げ場なく。
みんなへ渡せる形で。
「だから嫌なんだよ」
その最後の一言で、ヒナまで目を伏せた。
ミチルは立ったまま、自分の机に置いた指先を見た。
震えてはいない。
でも、力の入り方が変だ。
机の木目がやけに細かく見える。
窓の外で風が吹く。
カーテンが揺れる。
ただの放課後。
ただの夕方。
なのに、教室の中だけ、鏡が増えたみたいだった。
どこを向いても、自分の顔の話をされる。
見えない自分の顔だけが、いちばん大きくある。
「ねえ」
ナナカが最後に言う。
「被害者みたいな顔やめなよ」
その言葉で、笑いが起きた。
大きくはない。
でも、はっきり起きた。
ヒナは笑わなかった。
でも止めもしなかった。
そのことが、いちばん静かに残る。
帰り道、ミチルは校舎の窓に映る自分を何度も見た。
階段の踊り場。
昇降口の横。
外へ出る前のガラス。
どれも少しずつ違う。
口元の線。
目の細さ。
頬の影。
笑っていない。
そう見える。
でも、教室でそう見えなかったなら、もうそれは足りない。
家に帰って、部屋の鏡の前に立つ。
肩口で切りそろえた髪。
目を伏せたとき頬に落ちる睫毛の影。
もともとやわらかいはずの口元。
それを少し引いてみる。
緩めてみる。
何もしない形を探してみる。
何もしない顔が、いちばん難しい。
次の日の朝、ミチルは口元に力を入れすぎていた。
教室へ入る前から、表情を作っていた。
無害そうに。
無表情すぎず。
でも笑わず。
扉を開ける。
ナナカがすぐに見た。
前髪の下の目だけが先に動く。
そして、小さく言う。
「なにその顔」
サエが笑う。
ユウタも笑う。
「こわ」
誰かが言う。
ミチルはそこで、はじめてわかった。
笑ってもだめで、
笑わなくてもだめで、
普通にしていてもだめで、
普通にしようとしてもだめなのだと。
ナナカは頬杖をついたまま、教室の空気を眺める。
「ほらね」
その一言に、もう説明はいらなかった。
この教室では、ミチルの無意識の表情まで、もう悪いものになっていた。
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