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第4話 説明
朝の空気は、曇った窓みたいだった。
向こう側は見えているのに、はっきりしない。
指でなぞれば線がついて、その線だけ残る。
そんな感じが、教室の扉の前からもうあった。
ミチルは深く息を吸わずに、浅いまま扉を開けた。
机。
いす。
黒板。
窓際の光。
いつも通りの並び。
それなのに、何もかもに順番がついているように見える。
どこを見ればいいか。
いつ座ればいいか。
誰の横を通ればいいか。
少しでも違えれば、その違いを見つけられるような気がした。
「おはよ」
ヒナが言った。
肩の少し上でそろえた髪が、小さく揺れる。
片側だけえくぼが出る笑いではなく、今日は平らな顔だった。
「……おはよ」
ミチルは返した。
声は出た。
でも、自分の声の置き方がわからない。
軽すぎても変だし、重すぎても変だ。
考えるほど、声は自分のものじゃなくなる。
かばんを置き、椅子を引く。
小さく鳴る。
その音に合わせたみたいに、ナナカが振り向いた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目だけが先に動く。
口元はやわらかいのに、そのやわらかさが行き先を決めているみたいに見える。
「ねえ」
たった二文字で、教室の何人かが聞く顔になる。
ミチルは座る前に止まった。
「なに」
「昨日さ」
ナナカは頬杖をついたまま言った。
「何でヒナのこと見てたの?」
何で。
問いみたいな顔をしている。
でも、その問いの前にもう薄い形が置かれている。
ヒナが、筆箱のふたに手をかけたまま止まる。
サエが丸い目でこっちを見る。
ユウタはまだ机に片ひじをついただけの姿勢で、笑う準備もしていない。
「見てない」
ミチルは言った。
すぐに。
すぐに言わないと遅れる気がした。
「見てたよ」
ナナカの声は平らだった。
「いや」
「じゃあ何で、ああいう顔してたの」
また顔。
また見えないもの。
「してない」
「してた」
「してないって」
「うん、じゃあ説明してみてよ」
その言葉は、軽かった。
軽いのに、教室の上にぴたりと乗る。
説明。
たったそれだけで、息のしかたが変わる。
ミチルは椅子に座った。
手が机の下へ入る。
親指が左手のあかぎれを探る。
「何を」
「何をって」
ナナカは首を少しかしげた。
「何でああいう顔してたのか」
「だから、普通に」
「普通に何」
「普通にしてただけ」
「普通にしてて、人のことああいうふうに見るの?」
見る。
顔。
笑う。
馬鹿にする。
これまで散っていたものが、一つの机の上に集められていく感じがした。
サエが小さく言う。
「たしかに」
ユウタが鼻で笑う。
「普通って便利だよな」
まだ強い笑いじゃない。
けれど、入りはじめている。
ナナカの問いの輪に。
ミチルは口を開く。
閉じる。
何を出しても、その形のまま使われそうだった。
「見てたのは、たまたま」
やっとそれだけ出した。
「たまたまね」
ナナカが繰り返す。
「じゃあ、何がたまたまだったの」
「ヒナが前にいたから」
「前にいたから見てた」
「そう」
「じゃあ顔は?」
顔。
またそこへ戻る。
「顔は……」
言葉が遅れる。
その遅れに、ユウタが笑いを混ぜる。
「出た」
サエも口元を押さえる。
「説明できないんだ」
説明できない。
説明しない。
説明したくない。
その三つが、もう近いところに並んでいる。
「別に変な意味じゃない」
ミチルが言うと、ナナカの目が少し細くなった。
「変な意味じゃないなら、どういう意味?」
「意味とかない」
「意味ないのにあの顔になるんだ」
「だから、普通の顔」
「普通の顔で、人を嫌な気分にさせるんだ」
ミチルは息を吸った。
浅くしか入ってこない。
教室の窓が少し開いていて、朝の風がカーテンを押している。
布がふくらみ、戻る。
ふくらみ、戻る。
その動きが、今のやりとりと同じに見えた。
言葉が来る。
返す。
また来る。
もう少し大きくなって戻る。
ヒナが口を開いた。
「もういいよ」
やわらかい声だった。
でも、そのやわらかさは薄い紙みたいで、すぐ向こうが透ける。
ナナカはヒナを見て、うなずいた。
「ヒナがよくてもさ」
そのあと教室のほうを見た。
「周りは気分悪いよね」
みんなのものになる。
後ろの席の子が視線を落とす。
別の子が筆箱をいじる。
タクミはまだ来ていなかった。
空いている席が一つあるだけで、教室の偏りが余計にはっきりした。
「私、別に」
ミチルが言う。
言いながら、何を言おうとしているのかわからなくなる。
「別に何」
ナナカが聞く。
「別に、そういうつもりじゃ」
「じゃあどういうつもり?」
またそこへ戻る。
どういうつもり。
どういう意味。
何で。
何を。
問いが増えるたび、答えは細くなる。
細くなって、出る前に折れる。
担任が入ってきて、朝の会が始まった。
教壇の上の声は整っている。
日付。
提出物。
係からの連絡。
その間、ミチルは黒板を見ていた。
黒板の字の端。
消し残しの線。
チョークの粉。
説明してみてよ。
その言葉だけが、板書の裏に薄く残る。
一時間目は数学だった。
ノートを取る音が揃う。
シャープペンの先が紙に触れる。
ページをめくる指。
ミチルは問題を写した。
数字は決まっていていい。
答えも一つしかなくていい。
そう思った。
でも、先生が「じゃあこの式の意味わかる人」と言った瞬間、肩が強ばる。
意味。
説明。
どうしてそうなるか。
教室のどこかで椅子が鳴る。
だれかの咳。
窓の外の鳥。
それだけで、自分が立たされる気がする。
休み時間、タクミが教室へ入ってきた。
鼻筋の通った横顔。
前髪を手の甲で払う癖。
大きい手でかばんを机に置く。
その一連の動きが、教室の空気に対して少しだけ鈍い。
鈍いというより、まだ完全に乗っていない。
ミチルは一瞬だけ、その鈍さに目を向けた。
けれど、すぐにナナカの声が来た。
「ねえ、朝の続きだけど」
続き。
もう休み時間なのに。
授業が一度挟まっているのに。
それでも続きになってしまう。
「説明してよ」
タクミが椅子を引く手を止めた。
ほんの一瞬だけ。
それから何も言わずに座る。
ミチルは机の端を見た。
木目がある。
細い線がいくつもある。
それだけなのに、そこへ視線を置くしかない。
「何を」
声が自分でも驚くほど小さい。
「ヒナのこと」
「だから、何も」
「何も、ね」
ナナカの声は少しだけ笑っていた。
「何もないのに、あんなふうになるんだ」
「あんなふうって何」
言い返した瞬間、しまったと思った。
でももう出ている。
ナナカは、その一言を待っていたみたいな顔をした。
「何って」
一拍。
「嫌そうな顔」
二拍。
「見下したみたいな目」
三拍。
「笑ってる口元」
並ぶ。
渡される。
周りが受け取る。
「うわ」
ユウタが息を漏らす。
「それな」
サエも小さく言う。
その声は前より自然だった。
混ざり慣れてきた声。
ミチルは顔を上げた。
顔のことを言われるたび、顔を上げるしかなくなる。
上げるとまた見られる。
「そんな顔してない」
「じゃあしてないって説明してみて」
ナナカは、ほんとうに不思議そうな顔をした。
「できるでしょ、してないなら」
できるでしょ。
その言葉が机の上に置かれる。
教室の何人かが、それはそう、という顔をする。
説明できないのは、やましいから。
その短い道が、すぐできる。
「説明って、顔のことなんか」
ミチルが言いかける。
「顔のことなんか?」
ナナカがすぐ拾う。
「じゃあ何なら説明できるの」
拾われる。
切られる。
並べられる。
ミチルは、喉の奥が乾いていくのを感じた。
朝からほとんど何も飲んでいない気がする。
でもそれより、言葉のほうが乾いていた。
ヒナが静かに言う。
「もういいって」
たしかに言った。
でも今度は教室の誰も、そこへは乗らない。
ナナカだけが、やさしいみたいな顔で返す。
「よくないでしょ」
その声音に責める感じは薄い。
だからこそ、止めにくい。
「ちゃんと説明しないと、また同じことするじゃん」
また。
同じ。
する。
未来までそこへつながる。
ミチルは、自分がまだ何もしていない未来まで、もう悪く見られている気がした。
やっていないことまで、先に置かれている。
「じゃあ、どう説明すればいいの」
とうとうそれを言ってしまった。
教室が少しだけ静かになる。
ナナカの口元が、ほんの少しだけやわらかくなった。
「やっと聞いた」
その一言で、ミチルの背中が固まる。
「普通に言えばよくない?」
「普通にって」
「何であの顔したのか」
「何を思ってたのか」
「ヒナのことどう見てたのか」
三つ。
また三つ。
「簡単じゃん」
簡単。
そう言われるほど、言葉は遠くなる。
「何も思ってない」
ミチルは言った。
ほとんど投げるみたいに。
するとユウタがすぐ笑った。
「それ最悪じゃん」
サエも続く。
「何も思ってないのにああなるんだ」
「こわ」
後ろの子が言う。
こわい。
その言葉は、もう何度かこの教室に落ちていた。
落ちるたび、薄いしみみたいに残る。
「違う」
ミチルはすぐに言った。
でも、もう遅い。
「違うなら何」
ナナカ。
「だから、普通に」
「また普通」
ユウタ。
「普通って何」
サエ。
「具体的に言って」
ナナカ。
「ほら、説明できない」
だれか。
短い言葉が、何本も飛んでくる。
一本一本は細い。
でも数が増えると、身動きがとれない。
ミチルは黙った。
一度、息を整えようとした。
それだけだった。
けれど、その黙り方がすぐに拾われる。
「ほら」
ナナカが言う。
「黙るんだ」
サエが机の上に指を置く。
軽く二回たたく。
「図星?」
ユウタが鼻で笑う。
「説明できないってことはさ」
その先を、ミチルは聞きたくなかった。
でも聞こえる。
「そういうことなんじゃないの」
教室のどこかで、小さく「たしかに」が落ちる。
だれが言ったのかわからない。
わからないほうが、広い。
ミチルは口を開いた。
何か言わなければ、本当にそうなる気がした。
「違うって言ってるじゃん」
少しだけ強くなった。
その瞬間、ナナカの目がわずかに細くなる。
「じゃあ、何が違うの」
「だから」
「だから、じゃなくて」
ナナカの声は穏やかだった。
穏やかなまま、逃げ道だけをきれいに閉じる。
「ちゃんと説明して」
ちゃんと。
その言葉が重い。
ちゃんととは何か、もう相手の中にしかないのに。
二時間目の終わりまで、その感じは残った。
授業中も、ノートを取る手元に問いがついてくる。
答えを書けば書くほど、自分だけ答えを出せていないみたいになる。
給食の時間、班になっても話し声はどこか表面だけだった。
ミチルが箸を持つ。
汁をすくう。
口へ運ぶ。
その全部に、説明できないものがついてくる。
「ていうかさ」
ユウタが言った。
「何も思ってないのに人にああいう顔できるって、そっちのほうがやばくない?」
ミチルは箸を止めた。
サエが口元を押さえたままうなずく。
「たしかに」
ヒナはトレイの上の煮物を見ている。
片側だけのえくぼは出ていない。
「私のこと、どう思ってたの」
ぽつりと、ヒナが言った。
小さな声。
でも、ざわめきの中でも聞こえる声。
ミチルは顔を上げた。
「どうも思ってない」
すぐに言った。
言ったあとで、しまったと思う。
さっきと同じだ。
ヒナの目が少しだけ揺れる。
「どうも思ってないのに、ああなるんだ」
また同じ道ができる。
「だから違うって」
「違うなら説明して」
今度はヒナだった。
責める声ではなかった。
でも、ナナカの置いた問いの上に、ちゃんと乗る声だった。
ミチルは、自分の喉の奥に細い糸が何本も絡んでいるみたいに感じた。
引っ張れば切れそうで、切れたら何も出なくなる。
「何て言えばいいの」
「本当のこと」
ナナカが言う。
「本当のことを言えばいいだけじゃん」
簡単そうに。
水の量を聞くみたいに。
本当のこと。
本当の顔。
本当の意味。
そんなもの、今この教室のどこにあるのかわからない。
午後の授業で、担任が作文の返却をした。
一人ずつ名前を呼ぶ。
紙が返る。
机の上に置かれる。
ミチルの名前が呼ばれたとき、少しだけ遅れて立つ。
その遅れすら、だれかに見られている気がする。
教壇まで行く。
担任の眼鏡の奥の目はやわらかい。
紙を渡しながら「あとで一文目だけ直そうか」と言う。
ただそれだけのこと。
でも席へ戻る途中、ナナカが小さく言った。
「説明へただもんね」
笑いが起きる。
小さく。
でもはっきり。
担任は聞こえなかったふりをしたのか、本当に聞こえなかったのか、そのまま次の名前を呼ぶ。
ミチルは席へ戻り、作文の紙を裏返した。
赤い丸。
直しの印。
一文目だけ少し波打つ線。
説明へただもんね。
その言葉が、赤いペンの線にまで重なる。
放課後、掃除当番が終わったあとも、ミチルはすぐに帰れなかった。
かばんの中身をゆっくり整えるふりをする。
ノートを重ねる。
筆箱を入れる。
いらない紙を折る。
その遅さを、ナナカは見逃さなかった。
「まだ説明できないの?」
教室にはもう少ししか人がいない。
それなのに、その少しがかえって濃い。
ユウタは窓際の机に腰を預けている。
サエはかばんを肩にかけたまま立っている。
ヒナは戸口の近くで迷うみたいに足を止めている。
タクミは自分の席に座って、ペンを筆箱へしまう手を止めていた。
「もう帰りたい」
ミチルが言う。
正直な言葉だった。
でも正直な言葉は、この教室でそのまま通らない。
「帰りたいから説明しないんだ」
ナナカ。
「ちが」
「じゃあ説明すればいいじゃん」
ユウタ。
「一分もかかんないでしょ」
サエ。
「そんな難しいこと聞いてないし」
ナナカ。
「何であの顔したのか、だけ」
だけ。
だけなのに、一番遠い。
ミチルは机のふちに手を置いた。
木の角が指に食いこむ。
その痛みだけがまだはっきりしている。
「……わかんない」
とうとうそう言ってしまった。
静かになる。
ナナカの目が、少しだけやわらかくなった。
「わかんないんだ」
それは驚きではなかった。
確認だった。
置き場所を見つけた顔。
「自分がどういう顔してるかも、何考えてるかも、わかんないのに人のこと見るんだ」
ユウタが低く笑う。
「こわ」
サエが、うわ、と息を漏らす。
ヒナは戸口のところで固まっている。
助けるでもなく、離れるでもなく。
ミチルはもう一度、何か言おうとした。
「でも」
その一語だけで、ナナカがすぐ入る。
「でも、何」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもり?」
また戻る。
どこまでも戻る。
「何も」
「何も、ね」
「だから」
「だから何」
「違う」
「何が」
切れ目がない。
問いの間に息を置く場所がない。
ミチルは口を閉じた。
閉じた瞬間、それも拾われる。
「また黙る」
サエ。
「都合悪くなるとそれじゃん」
ユウタ。
「説明できないんだね」
ナナカ。
タクミがそこで、一度だけ顔を上げた。
鼻筋の通った横顔が、少しだけこちらへ向く。
目が合いそうになる。
でも、合う前に逸れる。
その逸れ方は、助けないと決めた人の逸れ方だった。
ミチルは、その一瞬で喉の奥の何かが沈むのを感じた。
ナナカが、最後みたいな穏やかな声で言う。
「反論するならちゃんと説明しなよ」
「説明できないなら黙って認めなよ」
「どっちもできないの、見てて一番気持ち悪いよ」
三つ。
短く。
きれいに。
逃がさず。
その言葉のあと、教室は静かになった。
窓の外で部活の声がする。
ボールの音。
遠い笛。
ただの放課後。
なのに、この教室の真ん中だけ、言葉のふちがまだ鋭いままだった。
ミチルはかばんを持った。
肩にかける。
重さが少し偏る。
「帰るの?」
ユウタが笑う。
「説明しないまま?」
「もういいじゃん」
ヒナが小さく言う。
でもその声は、もう軽い。
流れを変えるほどの重さがない。
ナナカはヒナにやわらかくうなずき、それからミチルを見る。
「いいよ、帰って」
その言い方が、許したみたいでいやだった。
「でもさ」
一拍置く。
「説明できない人って、だいたいそうだよね」
そうだよね。
最後はいつもそれだ。
教室に配るための形。
サエが小さく笑う。
ユウタも鼻で笑う。
戸口の近くの子が、聞こえるか聞こえないかの声で「たしかに」と言う。
ミチルは何も言わずに教室を出た。
反論しても、また説明になる。
黙っても、認めたことになる。
そのどちらでもない道は、さっきもう消えていた。
廊下は明るかった。
夕方の光が長くのびる。
窓ガラスに自分が映る。
肩口で切りそろえた髪。
口元に力の入った顔。
目の下の影。
説明できない顔だった。
階段を下りる。
上履きの先の灰色のこすれが見える。
一段。
また一段。
音だけが規則正しい。
帰り道、自販機の前で立ち止まった。
買うものはない。
でも、その光る四角を見ていたかった。
そこには、説明を求める声がないから。
家に帰ると、台所から包丁の音がした。
規則正しい音。
切られるたび終わる音。
「おかえり」
母の声。
やわらかい。
「……ただいま」
それだけで、もう喋りたくなくなる。
喋れば説明になる気がする。
今日どうだった。
何があった。
なんでそんな顔してるの。
部屋に入り、かばんを床へ置く。
制服のままベッドに座る。
天井を見上げる。
説明。
その言葉だけが、昼からずっと喉の近くにいる。
飲み込めない小骨みたいに。
何て言えばよかったのだろう。
見ていたわけじゃない。
笑っていたわけじゃない。
嫌っていたわけじゃない。
馬鹿にしていたわけじゃない。
でも、その「わけじゃない」は、全部うすい。
うすい紙みたいに、すぐ破れる。
ナナカの声が入ると、簡単に向こうが透ける。
次の日、教室へ入る前から、ミチルは何を聞かれても答えられるようにしようと思った。
答えを用意しようと思った。
見ていたわけじゃない。
たまたま視線が向いただけ。
笑っていたわけじゃない。
口元が動いただけ。
嫌っていたわけじゃない。
何も思っていない。
頭の中で並べる。
並べたそばから、弱いとわかる。
扉を開ける。
ナナカがいた。
頬杖をつき、こちらを見る。
その目が、「今日はどう説明するの」と言っているように見えた。
ミチルは席へ向かった。
座る前に、筆箱を置く。
ノートを出す。
全部、音を立てないようにする。
「ねえ」
もう来る。
「昨日のことだけど」
続きになる。
また続きになる。
ミチルは口を開いた。
昨日、考えてきた言葉を出そうとする。
「昨日は」
その一語で、ナナカが少しだけ目を細めた。
「説明する気あるんだ」
教室の何人かが聞く顔になる。
サエ。
ユウタ。
後ろの席の子。
ヒナも、手を止める。
ミチルはそこで、用意していた言葉が急に他人のものみたいになるのを感じた。
口の中で乾く。
並びがばらける。
「……いや」
出たのは、それだけだった。
ナナカの口元がやわらかく上がる。
「ほらね」
静かな声。
「反論したいだけで、説明はできないんだ」
その一言に、もう説明はいらなかった。
この教室では、返しても詰みで、黙っても詰みだった。
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