テラーノベル
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西の山頂、かつてバリア塔が立っていた場所から、赤黒い霧が、火山の噴煙のように噴き上がっている。夜空へ溶け込みながら、なお、不気味な光を放つ瘴気の柱。脈動し、うねり、広がっていく。その光が王子と王女がいる王族別邸へと迫っていった。
「お兄様……塔が……! 塔が、落ちた……!」
震える声で、エルファーナ王女が叫んだ。イザリオ王子は、言葉を失ったまま、バルコニーの外へと視線を向けた。
西のバリア塔が立っていた山頂。そこから、夜空を真紅と漆黒に染め上げる赤黒い瘴気の柱が、静かに立ち昇っていた。塔の瓦礫の裂け目から噴き出す霧は、炎のようにも見える光を放ち、空と大地の境界を歪ませていた。
イザリオは、妹を抱き寄せた。その腕の中で、エルファーナの肩が震えている。再び、山頂から伸びる霧の帯を見つめた。地平線の向こうで噴き上がる瘴気は、空を焼くような赤黒の渦となり、森を舐める蛇のように、島の大地を、静かに這い始めていた。
鳥たちは悲鳴を上げて飛び立ち、獣たちは、我先にと森の奥へ逃げ込む。風が逆巻き、木々の影がざわりと揺れ、赤黒い霧は、まるで意思を持つ生き物のように脈動し、島そのものを呑み込もうとしていた。
「なぜだ……なぜ塔が落ちる」 イザリオの声は、低く掠れていた。
「これが、我が王国の末路なのか」
王子は奥歯を噛み締め、拳を強く握る。
「国の防御壁が……バリア強化の実験で崩れるとは……」
その瞳には、怒りが交錯していた。だが、彼が見つめていたのは、塔の瓦礫ではない。沈んだのは、自分が信じてきた何かだった。
王国の歴史。
秩序。
王家の誇り。
そして “王子としての無力さ”。
そのすべてが、塔の崩壊と重なって、胸の奥へと沈んでいった。
「……ならば。ここから先は、俺が責任を持つ」
イザリオは、静かに、しかし確かな声で言い切った。
「妹を……エルファーナを、必ず護る。そして、この島の民を誰一人、見捨てはしない」
その瞬間、イザリオの瞳が変わった。あどけなさの残る少年の影は消え、そこに宿ったのは、“王”の覚悟だった。
「あの霧についてですが……」
控えめな声で、女官ルーネが一歩前に出た。
その顔色は、蒼白だった。
「王宮の正式な記録には残っておりませんが……古い文献と、島に伝わる寓話にだけ、似た記述がございます」
イザリオは、視線をルーネに向けた。
「寓話……だと?」
「はい。“赤と黒が混じる霧”。 それは、島がまだ島と呼ばれる前から、この地に封じられていた“災い”だと……」
ルーネは言葉を選ぶように、続けた。
「霧に触れた生き物は、心を侵され、理性を失う。獣は獣でなくなり、人は……人でなくなる、と」
「ルーネ……そんなの、ただの昔話でしょう?」 エルファーナの否定する声は弱々しかった。
「はい。王宮では、あくまで迷信として扱われていました。ですが……」
ルーネは、バルコニーの外を一瞬だけ見た。
「バリア塔は、“それ”を封じるために建てられた、とも伝えられています」
イザリオは、再び赤黒い霧を見つめる。
「では。あの塔は、魔物を分解するためだけの防衛装置ではなかったということか」
そのときだった。
「イザリオ様! エルファーナ様!」
侍従ロスクが、息を切らして駆け込んできた。
「島内の状況を報告します」
ロスクは一度、深く息を整えた。
「赤黒い霧の影響により、島の動物の一部が異常行動を起こしました。理性を失い、暴徒化……街中に、魔物と化した個体も確認されています」
エルファーナが、思わずイザリオの袖を掴む。
「……ですが」
ロスクは、きっぱりと言った。
「モンスター使いサラと現地クルーの働き、村長の呼びかけにより、
全島民、王宮専用船オルシオンにて無事、島外へ退避しました」
イザリオは、ゆっくりと息を吐いた。
「よかった……それで、父上とリヴァン首相への報告は」
ロスクの表情が、わずかに曇る。
「国王陛下、リヴァン首相が直轄する政府危機管理センターとは、
依然として連絡が取れておりません。オルシオンとの通信も、
現在、不安定な状態です」
「この非常事態であるのに……王都は、まだ状況を把握できていないのか」
「いえ。おそらく……」
ロスクは続けた。
「衛星監視システムと王研の観測所により、バリア塔の崩壊そのものは、すでに把握されているはずです」
ロスクは、まっすぐに王子を見た。
「対応は、必ずなされます。ですが……連絡が取れない以上、我々は独自に動くしかありません」
そして、ロスクは語気を強めて上申した。
「時間がありません。裏山のヘリポートへ避難を!
赤黒い瘴気が、すでにこちらへ迫っています!」
イザリオは、即座に決断した。
「エルファーナ、ルーネ。急ぐぞ。住民の退避も終わった。ここは、もう安全ではない」
王子は、妹の背を守るように一歩前へ出る。ロスクと共に、別邸の裏門へ向かった。
夜風は、異様なほど重かった。屋敷の庭園には、薄くたなびく霧が漂っていた。ヘリポートまでの距離が長く感じられた。エルファーナ王女は、思わず兄の袖を掴んだ。
「お兄様、あれ、瘴気なの?」
イザリオは何も答えず、高台から見える霧の奥を凝視した。赤黒い霧が集まり、そこに浮かび上がったのは――赤と黒が渦を巻く、巨大な眼のような瞳だった。空間そのものを見透かすような視線が、まっすぐイザリオを射抜く。そして、霧で形作られた目元が、まるで嘲笑うかのように歪んだ。
「ヘリポートに急げ! 霧に触れるな!」
イザリオが叫ぶと同時に、王族一行は速足で石段を駆け上がる。だが、その背後で、散らばっていた霧が、群がる虫のように、一点へと集束していった。やがて、赤黒い霧は地を這うように伸びる長い胴体を形作った。その先端には、先ほどの巨大な眼が浮かんでいる。まるで、それ自体が一匹の巨大な生物へと変貌したかのようだった。
「ガサリ。ガサリ。」
「何っ!? 今の音」 一行が石段の踊り場で立ち止まる。
ロスクが一瞬だけ振り向き、息を呑む。そこにいたのは、巨大な黒影だった。狼のような体躯。背に生えた“骨角”。だが、その瞳はまだ濁っていない。野生の強さと、理性の残光を宿した、神獣クルサ・ガルヴァ。かつて、この島を護っていた、王家もその存在を畏れ頼っていたイヌ科の動物。
だが、次の瞬間。
クルサ・ガルヴァは、怯えたようにひと声あげた。そして、振り返ることなく、石段を下り、再び森の奥へと逃げ去っていった。
王子一行は再び石段を駆け上がった。そこには、王家専用のヘリポートが広がっていた。
たどり着いた、その瞬間。
「ゴオォォォォ……」
眼下に広がる森の奥から、あいつが来た。赤と黒の縞を引き連れ、獣が息を吸うように脈動しながら、地を這うように押し寄せてくる。赤黒い眼の霧。
「来るわ! 皆さん、逃げて!」
ルーネの声が、震える。
赤黒い眼の霧は、もはや霧ではなかった。形を持ち、意志を持ち、風に逆らって進む生き物だった。その前線が一気にヘリポートへとなだれ込む。
「エルファーナ、下がっていろ!」
イザリオが、妹をかばうように前へ出た。次の瞬間。霧の触手状の塊が、王子の胸へ、王女の腕へと伸びる。しかし。
「ピシィッ!!」
眩い光が、弾けた。
王子の双剣。
王女の腕輪とネックレス。
ロスクの襟章。
ルーネの護符。
それらすべてが共鳴するように重なり合い、大さな光の結界となって、赤黒い霧を押し返す。霧は悲鳴のような風音を放ちながら、のたうち、後退した。闇と対をなす光のエルフ鉱石が彼らの思いによって反応したのだった。
「押し返している……!?」
ロスクが、震える声で叫ぶ。
「王族の守護印が、霧の力を中和しているのだわ……!」
ルーネが、息を呑む。
だが、赤黒い霧は、結界の縁で苦しげに揺らめきながら、その“中心”で、再び黒と赤の渦が、ゆっくりと凝縮を始める。霧は、細く、濃く、血のような粘りを帯びていき、やがて、竜の頭部を思わせる“核”を形作った。牙の影。尾を引く輪郭。赤黒い光を脈打たせながら、それは螺旋を描き森の奥へと後退していった。
「お兄様……あれ、霧なのに……形を……」
「霧が、意志を持っている……」
赤黒い眼の霧は逃げるように、残骸の霧を残し、崩落したバリア塔へと引いていった。その瞬間だった。低く、断続的な振動が夜の空気を震わせた。
ゴォ……ゴォ……という、重たいローター音。
「……来ている」 ロスクが、歯を食いしばる。
「港町の駐機所で待機していた機体です。災害発生直後から、
こちらと連絡を取り合いながら、上空待機を続けていました」
ザー……ッ。
通信機が、激しくノイズを噴いた。
『こちら……操縦席……。計器が……安定しない……!』
必死に抑えた声が、断続的に届く。
『磁気方位……狂っている……。高度計……信号が跳ねている……』
ロスクは即座に答えた。
「瘴気の影響だ! 赤い霧そのものには入るな! 外縁で耐えろ!
入ったら意識が飛んで終わりだぞ!」
闇に溶け込んだ赤い霧が、上空に吹く風ではなく、まるで、意志をもったかのように、容赦なくヘリの下降を妨害してく
『分かっている……! だが……この空域……空気が重い……!
ローターが……霧に持っていかれるようだ……!』
一瞬の沈黙。
『着陸のチャンスは霧の隙間が見えたとき一度きりだ……。これ以上、待機すれば……機体がもたない』
エルファーナが、息を呑む。
「お兄様……」 イザリオは上空の赤黒い瘴気の流れを見据えた。
イザリオは、上空を流れる赤黒い瘴気を見据えた。霧そのものには近づいていない。だが、彼らを包む結界の光によって、赤黒い霧は少しずつ弱まり、晴れ始めている。同時に、結界の力も確実に弱まっていた。
「ロスク。霧の隙間ができ、計器が一瞬でも揃ったら、その瞬間に降りてもらう」
ロスクは、即座に頷いた。
「畏まりました!」
通信機を握りしめる。
「操縦士!霧の外縁で待て! 霧の隙間ができ、計器が戻った瞬間、一気に降りろ!」
『了解……! これが……最後だ……!』
ヘリは、瘴気が晴れるその瞬間を待った。
『着陸態勢に入る……!だが、やはり計器が不安定だ。時間は……長く取れない……!』 通信越しの操縦士の声が、切迫していた。
ローター音が大きくなり、ヘリポートへと下降してゆく。
「急げ……!」 ロスクが叫んだ。
森の奥で、低く、獣の唸り声が響いた。
「あれは……」 ルーネが、言葉を失う。
闇の中から現れたのは、神獣クルサ・ガルヴァだった。
だがその瞳は、すでに違っていた。赤黒く染まった眼が、遠く離れたヘリポートの一行を、まっすぐに射抜いている。
理性は消え、残っているのは獲物を定めた捕食者の視線。
「憑依されている……」 ルーネが、震える声で呟いた。
その瞬間、イザリオの脳裏に、ひとつの声が蘇った。
「万が一、西の島のエルフ・バリア塔が機能不全を起こし、魔物が現れた場合は……別荘の裏山を少し登った先に、滝の裏へと続く洞窟があります。緊急時には、必ず、そこへ避難してください」
レイチェの言葉だった。
「ロスク!」
イザリオは、迷いなく言った。
「ヘリに退避命令を出せ。着陸は中止だ!」
「イザリオ様!? ですが……」
「ここでヘリが降りれば、あの神獣にやられてしまう!」
「承知いたしました」
ロスクは、歯を食いしばり、通信機を掴んだ。
「操縦士! 着陸中止! 上空へ退避しろ!」
『了解……! くそ……! すまない……!』
ローター音が再び高まり、ヘリは夜空へと引き返していった。
「お兄様……」 エルファーナが、声を震わせる。
イザリオは、妹の手を強く握った。
「行くぞ。洞窟へ向かう」
次の瞬間、クルサ・ガルヴァが、咆哮を上げた。
クルサ・ガルヴァの赤黒い眼が、爛々と輝く。
地を蹴り、一直線に――
王子たちを追って駆け出した。
もはやそこに、王族を守る神獣の面影はなかった。
そこにあるのは、王族を喰らう捕食者の瞳。
「ガアァァァァアアアッ!!」
大地を引き裂くような咆哮が裏山全体を震わせた。空気が揺れ、木々がざわめき、夜そのものが、悲鳴を上げる。赤黒い眼が、脈打つように、妖しく光った。一番後ろを走るロスクが、思わず振り返り、息を呑む。
「追ってきます! あれは……本気で我々を“狩り”に来ている!!」
「足を止めるな!!」
イザリオは振り返らずに叫んだ。
「止まれば、次の一撃で、終わる!!」
石段は次第に細くなり、両脇の木々が黒い壁のように迫ってくる。
足元の落ち葉が滑り、息が切れる。だが、止まれない。
耳を裂く咆哮が背中を打つ。
その瞬間、エルファーナの足が、石段の縁で一瞬もつれる。体が前につんのめる。だが、倒れるより早く、ルーネが身を投げ出すように支えた。
「エルファーナ様! 大丈夫ですか!」
エルファーナは息を切らし、肩を大きく上下させながらも強く頷いた。ルーネは、すぐに前方を指差す。
「エルファーナ様! もうすぐです……! 洞窟の入り口が、見えています!」
その先、苔と蔦に覆われた岩壁の下。闇そのものを切り取ったかのように、黒く、ぽっかりと口を開けた洞。島の“根”へと続く、原初の闇――根の洞。風が、洞窟の奥から逆流する。冷たく、湿り気を帯びた空気が、逃げる者たちの肌を撫でた。まるで、 “中へ来い”と呼びかけているかのように。
「入れ!!」
イザリオが、喉が裂けるほどの声で叫び、一行は根の洞へと雪崩れ込んだ。外で轟いていた咆哮と地響きが、岩壁一枚を隔てた途端、嘘のように遮断される。残ったのは、荒い呼吸と水滴が岩に落ちる音だけだった。
コメント
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うわ、今回もすごい緊張感でした…!バリア塔崩壊からの赤黒い瘴気、それが意思を持ったかのように動くところがめちゃくちゃ不気味で、夜中に読んでてちょっと背筋が冷えました。イザリオ王子が「俺が責任を持つ」って言い切った瞬間、あ、ここで覚悟が決まったんだなって分かって感動しましたね。それに、ルーネが持ってきた寓話の話も伏線ぽくて気になる…神獣クルサ・ガルヴァが憑依されて敵に回る展開は切なかったけど、あの洞窟に何か秘密があるんでしょうね?次が待ち遠しいです!
桜城
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