「お疲れ様です」
午後九時。
柳田さんの声に、キーボードを叩く手を止めて振り返る。
「お疲れ様」
彼女は今日も、グレーの帽子、黒縁眼鏡、白マスク、グレーの作業着、白スニーカー。それから、三つ編み。
「部下の方は帰られたんですか?」
「え?」
「さっき通った時は、他の方もいらしたので」
彼女が通ったことに、気がつかなかった。
「ああ、うん。彼女からの呼出しで、帰ったよ」
「えっ!? そんな理由でいいんですか?」
「進捗聞いたら、大丈夫だって言ってたし、大丈夫なんじゃないかな」
「そういう……ものですか」
「そもそも、残業しないに越したことはないからね。毎日残業してる俺が、おかしいんだよ」
「けど、それは――」
「――あ、そうだ。これ、あげる」と、俺は椅子の背に掛けてあるジャケットのポケットからチョコレートの箱を取り出す。
「昼にコンビニ行ったら、くじで当たったんだ」
「食べないんですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
柳田さんが真っ直ぐに俺を見て言った。細い指が箱に触れる直前、俺は少しだけ手を引いた。
「あ、けど、これから掃除だから邪魔だね。机に置いとくよ」
それから、自分のデスクに戻り、チョコレートは隣のデスクに置く。
背後で彼女が掃除を始め、俺は再びキーボードを叩く。
彼女からおにぎりを貰った金曜から週が明け、今日は月曜日。
今日も基山は出社しなかった。
お陰で、いよいよもって彼女が抱えていた仕事を処理しなければならず、俺はひたすらデータ入力に追われていた。
基山以外にも事務の女性職員はいる。
松原さんは基山とは違い、真面目で仕事が早く、正確だ。
だから、仕事を振ればやるだろう。
だが、基山が抜けたせいで、彼女の仕事は倍増しているし、彼女は既婚者で二児の母。残業はさせられない。
「――ったく! なんで二か月も前の記録簿がまだできてないんだよ」
社内会議、部内会議、チームミーティングなど、急ぐものから急がないものがごちゃ混ぜになって詰め込まれていた基山の引き出し。それらを引っ張り出し、優先順位をつけ、真っ先に処理し始めたのが二か月前の部長会議の記録簿。
部長会議は二か月ごとにあり、各部で記録簿を作成して次回の会議に提出する。
部によって議題に対する考え方や意見が違うから、記録簿も様々となる。
他の部はどうかわからないが、経営戦略企画部では、課長が作成した記録簿に俺が手を加えている。
だが、その課長が殴り書きした記録簿が基山の引き出しの中で埋まっており、こうして今、次回の部長会議の三日前になって俺が慌てて作成しているというわけだ。
「――ったく!」
課長の字の汚さといったら、象形文字かと思うほど。
今後は、必ず課長自身に作成させなければ。
「あのぉ……」
程よく聞き慣れた、柳田さんの遠慮がちだが間延びした声。
入力チェックをしながら、横目でチラリと見ると、グレーの作業着を脱いだ彼女が立っていた。
ブツブツ言いながら入力しているうちに、清掃は終わっていたらしい。
「ん?」
「何かお手伝いできること、ありますか?」
「え?」
「入力……くらいなら、できますけど」
意外な申し出に、振り返る。
柳田さんは一番端、基山のデスクの横で両手をお腹の前で組み、遠慮がちに立っていた。
今日は、ネイビーの襟付きシャツに、ブルーのジーンズ。
「前に……文字起こしのバイトを……していたので……」
「そうなの?」
「はい……」
申し出てくれた割には、自信なさ気。
「ありがたいけど、月曜から残業じゃ疲れるでしょ」
「いえ、そんな……」と、言葉をフェードアウトさせながら、自身も俯いてしまった。
俺のいる場所からでは、彼女の表情はわからない。
だから、立ち上がって、近づいた。
柳田さんの身体に力がこもるのがわかる。
人一人分離れた場所で彼女を見下ろすと、三つ編みの間から覗く首筋が赤く染まっていた。
『余計なお世話かもしれないけど』とか心配になりながら言ってくれてるのかな。
「わ、私ごときが部長のお手伝いなんておこがましいかも――」
「――っふ!」
考えが的中して、思わず弾んだ声が漏れた。
「お願いして、いいかな」
「えっ!?」
顔を上げた彼女のレンズを覗き込む。
少しだけ目を潤ませて、緊張に唇を震わせている。
その表情が、何だかすごくツボにハマってしまい、しばらく目を逸らせなかった。
この前からそうだが、俺はいつもはマスクのせいで表情が読めない彼女の、感情を見るのが好きらしい。硬い言葉遣いとギャップを感じさせる、スレてない、計算のない表情に、胸の奥が熱くなる。
俺、こういう子が好きなのかな……。
とは言え、彼女は俺を相当買い被っているし、真面目な子だから下心もなさそう。
だから、気軽に誘ったり付き合ったりしていい相手ではない。
「汚い字が読めるかわからないけど」と、俺は彼女に背を向け、デスクに戻る。
資料の山の一番下の用紙を引き出す。
チームミーティングの記録簿で、さほど難しい用語もない。
これ自体、最終的に俺に提出することを目的としているから、急ぎでもない。
「これ、頼んでいいかな」と言って、隣のデスクのパソコンの電源を入れる。
「ここ、使って?」
「はいっ!」
元気な声と共に、彼女が駆け寄ってきた。
俺は共通ファイルにある記録簿の様式を開き、ミーティングの日付で一度保存した。
「上書きしていいから」
「はい!」
柳田さんが椅子に座る。
手元の用紙を眺めた。
「読めない字があったら言って」
「はい!」
気合の入った返事がフロアに響く。
一通り内容を読んでから、彼女はキーボードに指を滑らせた。
お……。
カタカタカタカタと、規則正しいタイピング音。
レンズ越しにディスプレイを見つめ、ブラインドタッチで文字を打ち込んでいく。
はや……。
基山の三倍は早い。
ひたすら入力すること三分ほどでキーボードは鳴り止み、マウスのクリック音に変わる。
体裁を整え、保存し、印刷をする。入力チェックを終えて彼女が俺に差し出した。
「事務の経験はないの?」
彼女が作成した記録簿をチェックしながら、聞いた。
「え? ありません」
「入力、めちゃくちゃ早いよね」
「それは……、はい。練習したので」
「エクセルは使える?」
「人並み……には」
「これ、作成できる?」
差し出したのは、俺が明日の朝作成しようと思っていた営業成績の一覧表の図案。
営業一課から三課の昨年度の月別売上一覧と、目標額、達成率を一覧表にし、更にグラフ化するつもりでいる。
各課でも作成しているのだが、あくまでも受注件数と金額。営業の仕事は受注契約から納品までで、その後の請求関係は経理部の管轄だから、実際に入金された月日や、一括入金なのか分割なのかまでは把握しきれていない。
だから、経営戦略企画部で営業と経理の資料を取りまとめ、傾向と対策を提示している。
柳田さんに渡した図案には、大雑把に営業データをここに、経理データをここに、グラフをここに、という枠組みが書かれているだけ。
「出来ると思いますが……」
相変わらず自信なさげに答える。
俺は既にあるデータを使わず、印刷しておいた表の作成から指示した。
彼女はじっと指示を聞いて、頷くと、入力を始めた。
項目や数値を入力し、その後で文字の大きさや罫線を整えていく。
合計や達成率は言わなくても自動計算できるように、関数を使った。
それから、必要な項目を指定し、グラフに反映させる。
最後に、一覧表の並べ替えを指示すると、難なくテーブルに変換した。
基山は、関数はSUMしか使えないし、グラフ化は教えたが、項目の差し替えなどは何度教えても出来なかった。
松原さんは一通りできるのだが、エクセルに苦手意識があるらしく、時間がかかる。
「他には、何ができる?」
印刷して表記ずれがないかを確認した後に渡されたプリントを見ながら、聞いた。
「他……とは?」
「ワードで差し込みできる?」
「はい」
「エクセルでは……、条件付きの書式設定とか」
「出来ます」
「後は……パワーポイントは?」
「以前かじったことがありますが、何年も使っていないので出来ないも同然です」
「事務の経験はない?」
「はい」
勿体ない。
これだけofficeを使いこなせるのに。
それだけじゃない。
誤字脱字の修正まで完璧だ。
確認作業を怠らない入念さも、いい。
「柳田さん、経営戦略企画部に異動しない?」
「え?」
「きみが、欲しい」
言ってから、何だか言い回しが不適切だったと思った。
が、話の流れから、女として口説いているのではなく、あくまでも仕事の、そう、ヘッドハンティングだとわかってくれるはず。
柳田さんはどう返事をしていいか迷っているようだった。
二人きりのフロアが、静まり返る。微かに、パソコンの動作音が聞こえるだけ。
「私……、高卒……ですし」
うちの会社は基本、大卒しか採用しない。
パートやアルバイトなら学歴は全く関係ないし、そこから正社員登用される場合はあるが。
いや、総務の、しかも清掃業務なら学歴など関係ないかもしれない。むしろ、経験がものを言うだろう。
「関係ないよ。大学出ててもエクセルが使えない奴もいるし。これだけ出来るってわかってたら、人事も清掃業務に回したりしなかったはずだ。そう考えたら、人事に知れる前に俺が知れて良かった。きみを他の部署に取られずに済むから」
柳田さんといると、自分の言動に驚くことが多い。
いくら仕事を手伝ってもらったからって、拒む女性の後を追うように家まで送って行ったし、途中で飲みに誘った。酒より拝ませて欲しいと言われてしまったが。
おにぎりをくれた夜も食事に誘ったが遠慮された。
だが、どの誘いも本気だ。
礼がしたいのも本心だが、彼女とじっくり話してみたいと思う。
もちろん、俺の部下に欲しいと思ったのも、本気だ。
「俺のアシスタントに欲しいな」
「本気……ですか」
「もちろん! ヘッドハンティングの常套句だけど、清掃の仕事より給料はいいし、早朝深夜の清掃より健康的な就業時間だし。どう?」
「けど――」
迷うより先に否定的な言葉を発した柳田さんは、視線を左右に彷徨わせた。
「――今の仕事が好きなので」
掃除の仕事が?
口には出さなかった。
清掃とはいえ立派な総務の仕事。
他部署の仕事を卑下するような発言は、立場的にも問題だ。
「お声がけくださり、ありがとうございます」と言って、彼女は椅子に座ったまま深く頭を下げた。
「とても……、とても嬉しいです」
柳田さんは言葉も行動も、顔色も正直だ。
耳が赤くなっている。
「そうか。でも、考えてみて? 俺は君と仕事がしてみたい」
「お言葉は……嬉しいです。本当に」
顔を上げた彼女は穏やかに微笑む。
「異動は出来ませんが、こうして少しお手伝いさせてください」
「えっ!? いや、そういう意味じゃ――」
「――チョコレートのお礼です」
顔を赤らめて目を細め、口角を上げるその表情に、俺の心拍数が上昇し始めた。
女性の表情や言葉に感情を揺さぶれるなんて、初めてだ。
「欲しいな」
無意識に、呟いた。
チョコレートの箱を開けている彼女の耳には届かなかった。
良かった。
俺は手で口元を押さえ、ゆっくり深呼吸した。
彼女に惹かれている。
けれど、まだその理由に名前を付ける気にはなれなかった。
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