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「お疲れ――」
「――お疲れ様」
いつもの、奥の窓際にいると思っていた俺が目の前に現れ、柳田さんはギョッとして一歩後退った。
「ごめん、驚かせた?」
「あ、いえ」
手を伸ばせば触れられる距離で彼女を見つめる。
今日もいつもの服装だ。
「今日はいつもより早いね?」
「はい。下のフロアは残業している方が多かったので」
「そっか」
下のフロアは営業部。
昨夜は道東で記録的な大雨が降り、釧路から届くはずの荷物の運送にトラブルが起きたと聞いた。営業部総出で倉庫の在庫の確認や、代替品のかき集めに奔走しているはずだ。
さっき降りた時、溝口部長や谷が難しい顔で電話をしているのを見た。
かく言う俺は、今日は柳田さんが来るのだろうかとそわそわしながら、待っていた。
「じゃあ、今日は早く上がれる?」
「はい」
よし、今日こそ! と意気込む。
「じゃあさ――」
「――はい。お手伝いします!」
「え?」
「え? 書類作成のお手伝いですよね?」
それ以外何があるのかと、何の下心もない瞳で見つめられ、俺は邪な感情に蓋をする。
「うん、お願い」
「じゃあ、急いで掃除します」と、柳田さんはごみの回収を始める。
食事の誘いに失敗し、俺は肩を落としてデスクに戻る。
彼女とゆっくり話がしたかった。
こうして、清掃中の彼女と話したり、仕事を手伝ってもらいながら言葉を交わすだけでも楽しいのだから、仕事抜きの時間を共有出来たら、きっともっと楽しいと思った。
毎日食事に誘うタイミングを計っていたが、一日目は彼女がおにぎりを差し入れてくれ、二日目は休みの人がいるから担当場所が増えて忙しいと言われ、三日目も彼女の手作りおにぎりをもらった。
美味しいおにぎりを食べながらのお喋りや残業は楽しいし、少しだけれど彼女との距離も縮まっている気がするからいいのだけれど、やはり男としてビシッと決めたい。
けど……。
おにぎりのお礼にチョコレートをあげると、そのお礼に仕事を手伝うと言われた。
翌日のおにぎりと仕事のお礼にコンビニスイーツをあげると、そのお礼にとまたおにぎりを貰った。
具は最初の夜の鮭と梅じゃこの他に、おかか、ベーコンチーズ、焼肉と日によってさまざまで、俺はおにぎりだけですっかり胃袋を掴まれてしまった。
こうも毎日おにぎりを貰ってしまうと食事に誘えないから、やんわりと遠慮を口にしたのだが、おにぎり作りは日課だから一つや二つ増えても大丈夫だと笑顔で返されてしまった。
それにしたって、あんなに色んな具を入れるのは手間だろうに……。
「今日はおかずがたくさんあったので、おにぎりじゃなくてお弁当にしました」
掃除を終えて着替えてきた柳田さんが、長方形の使い捨てタッパーを俺の前に置いた。
二つを重ね、割り箸と一緒に輪ゴムでまとめられている。
「いいの? こんなに?」
「はい。どうぞ」
「あ、お茶を――」
「――ある! あります!」
俺は引き出しから緑茶とウーロン茶のペットボトルを取り出す。
彼女が来る前に買っておくのが習慣のようになっていた。
「いつもすみません」と言って、彼女もまた習慣のように緑茶を受け取る。
輪ゴムを外して白米が入った上のタッパーを下ろす。
「すげ……」
下のタッパーには、卵焼きにウインナー、ほうれん草の胡麻和えにエビフライ、唐揚げ、マカロニサラダが詰まっていた。
「いや、これ、大変じゃない? 弁当代――」
「――いえ! その、余しても勿体ないので、食べていただけたらありがたいので」
「余す?」
「はい。今日は天気が良かったので外で食べるとかで、余ってしまったんです」
「そう……なんだ」
恋人……?
そうか。
彼女は毎日恋人に弁当を作っていたのか。
そのついでに、俺におにぎりを作ってくれていた。
今日は、恋人が外食することにしたから、食材が余ってしまったのか。
なんだか、やけに気落ちした。
自分はついでだったのか、と。
いや、彼女に恋人がいたことに。
いやいや、柳田さんに恋人がいたからなんだってんだ。
俺は割り箸を割った。
「いただきます!」
卵焼きを口に入れる。
甘くて柔らかい。
「美味い」
「良かったです」と、彼女がホッとしたように微笑む。
俺が好きな、表情。
俺の前ではいつも少し緊張気味で、敬語を崩さない彼女の、気の抜けた微笑み。
俺まで肩の力が抜けるような、柔らかい表情だ。
その表情を見る度に、眼鏡を外した素顔を見てみたいと思う。
いやいや、恋人がいる女性に興味を持つなんて不毛だろ。
「あ! そう言えば――」と、俺は自分の気持ちを切り替えるべく、話を切り出した。
「――前に言ってたアパートの修繕はどうなったの?」
「え? あ、はい。大家さんが修理業者さんに見積りを取っているそうです」
二日前だか三日前だか、柳田さんが話してくれた。
彼女の二軒隣の部屋の床が一部抜けたのだと。
俺が、彼女の住んでいるアパートの耐震性などを聞いたのがきっかけだったが、さすがにそこまで古くて脆いとは驚いた。
床が抜けた部屋には四十代の男女が暮らしていると聞き、俺は最初の夜に彼女のアパートで窓を開けたまま嬌声を響かせていた男女を思い出した。
あの時は一階の住人だったが、その床が抜けた部屋も激しいセックスに耐えられなくなった結果かもしれないと思った。
「引っ越しを考えておいた方がいいかもしれないね」
「はい……」
あれだけ古いアパートだ。
修繕するのも相当な費用が必要だろう。
聞けば、大家も八十代の女性で、以前はあのアパートで暮らしていたが、五年ほど前に娘の近所に引っ越して行ったという。
その時にアパートの取り壊しの話もあったのだが、住人が頼み込んで回避したらしい。
「耐震強度もそうだけど、セキュリティ的にももっと安全な部屋を探した方がいいと思うよ」
「でも、そういう部屋はお高いですよね……」
「まぁ、今よりは上がるだろうね」
幾らか聞いたわけではないが、恐らく三万かそれくらいだろう。
会社や駅に近いという利便性は認めるが、この会社の給料ならば倍の家賃でも十分払えるはずだ。
ところが、彼女は胸の前でグッと右手を握り、カッと目を見開いた。
「簡単な修復だけで済むことに一縷の望みを賭けて、大家さんからの連絡を待ちます!」
「え? そっち?」
「はい! 結果がわかる前に次の住まいを探すなんて、これまで格安で住まわせてくださった大家さんの恩に仇で返すような――」
「――いやいやいや! 床が抜けて大けがをしても大家さんは助けてくれないからね? そういう保険に入っているかも怪しいでしょ?」
柳田さんの武士のような忠誠心に、思わず手の甲で彼女の肩を叩いて突っ込みたくなった。
「そうですね。大家さんが転居される時、保険は最安値のものに掛け替えるから、階段を踏み外して怪我をしたり、火事を出したりしないようにと言われています」
「うん。それは一日も早く引っ越し先を決めよう?」
「はぁ……」
これは、探す気ないな。
なんなら、俺がリサーチしようか。
いや!
いやいや!
恋人がいるんだから、そいつに頼めばいい。
つーか、柳田さんだって恋人がいるなら、あの部屋セックスしてる?
窓を開けてはしないようにと忠告するべきか。
いや、それじゃあ、完全にセクハラ発言だ。
いやいや、それよりも、セックス中に床が抜けるかもしれないからセックスをするなと忠告した方が……。
弁当を食いながら悶々と考えを巡らせたが、結局、考えたことは何一つ言葉に出来なかった。
「そう言えば……」と、柳田さんが俺のあげたドーナツを飲み込んでから言った。
「無断欠勤している方って、連絡がついたんですか?」
「え? ……ああ、うん。電話には出たみたい」
俺に言われて渋々基山に電話をかけ続けた課長が言うには、俺にきつく叱られたショックで出社するのが怖い、らしい。
そんなメンタルの弱い女ならば、仕事中にスマホを弄ったり、お菓子を食べるなんて出来ないと思うが。
課長が何かフォローをしたのかしなかったのかはわからないが、とにかく二週間以上の欠勤は解雇処分となることは伝えたという。
問題の二週間の翌日は、来週の水曜日。
「柳田さん、経営戦略企画部への異動、考え直してくれないかな」
「……すみません」
これも日課となりつつある会話。
「せめて、休まれている方が戻られる前に、溜まっている作業は終えますので」
彼女は残りのドーナツを頬張ると、ウエットティッシュで手を拭き、口をもぐもぐさせながら資料を手に取った。
いつものように、一読してから入力開始。
彼女が仕事を手伝ってくれるのは今日で四日。
一時間から二時間の作業を四日で、彼女は基山が二か月近く溜め続けた仕事の半分を終えた。
いや、基山がする以上のことまでやってくれた。
柳田さんは、営業部と経理部から送られてきたエクセルファイルとリンクさせ、俺の欲しい数値をピックアップし、集計できるように関数を使った一覧を作成した。
自動更新で最新の数値を取り込み、グラフにも反映させた。
俺はこの作業を課長に指示していたのだが、彼は毎月、手作業で必要な数値をコピペして、そこからグラフ化していた。だから、時々、数値が飛んでいたり、重複していたりした。
柳田さんと同じ方法で俺が作成すれば良かったことなのだが、療養中の部長がずっと課長に指示していたから、俺がその仕事を取り上げるのは反感を買うだけだと思って黙っていた。
だが、基山が休んだことで事務作業をさばけなくなった課長はストレスで機嫌が悪く、今月に限ってやる暇がないと俺に言ってきた。
で、これをチャンスと、柳田さんに頼んだのだ。
俺の指示を正確に把握し、的確な質問をし、完璧な資料を作成できる柳田さん。
彼女の半分も仕事のデキない基山が戻って来ることを、俺は望んでいない。
上司としては口には出せないが、このまま辞めてくれたらと心から願っている。
そしたら、何としてでも、柳田さんを説得して経営戦略企画部に異動してもらう。
「柳田さんはさぁ――」と、俺は頬杖をついて、横目で彼女を見た。
「――俺と仕事するの、嫌?」
「え?」
首を回して俺を見た彼女の三つ編みが、揺れる。
「俺は柳田さんと一緒に仕事するの、楽しいんだけど」
俺は彼女の目ではなく、口元を見ながら言った。
この数日で学んだのだが、俺が目を見ると柳田さんは緊張して表情も言葉遣いも硬くなる。その上、早口になる。
俺を意識しているのでは思ったりもしたが、前に彼女自身も言っていたように、本当に男に免疫がないらしい。
事実、こうして視線を合わせていなくても、俺の言葉に顔を真っ赤にしている。
その表情を見ていると、もっと困らせたいと思う。
恋人の前でも……こうなのか?
いや、きっと、恋人の前でだけ素の自分を――。
「私も好きです!」
「……へっ!?」
驚き過ぎて声が裏返る。
腕の力が抜けて、顔を載せていた手首がカクンと曲がった。
予想していなかった返事に戸惑い、口の中で震える上の歯と下の歯がぶつかって、カタカタと音をたてる。その音が耳の奥に響く。
す、好きって――!