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翌日の土曜日、俺は充兄さんに会いに行った。長男として盆や正月の親族の集まりに必ず顔を出す和泉兄さんを避けるように、充兄さんは実家には寄り付かなかった。父さんとはたまに会っているようだったが、この数年京都で生活していた俺は三年以上充兄さんに会っていなかった。
俺は充兄さんが好きだ。
もともと身体が弱かった母さんは、俺を生んだ後から入退院を繰り返し、俺が五歳の時に亡くなった。父さんは仕事が忙しくてほとんど家に帰らなかったし、和泉兄さんは俺が七歳の時にアメリカ留学で家を出た。だから、俺は充兄さんと暮らしていた。充兄さんに育てられたも同然だ。
会っていなかった三年の間も、時々電話をくれて『元気か?』と俺の近況を聞いてくれた。今日も、忙しいだろうに、俺の急な誘いを受け入れてくれた。
「よう、久しぶりだな」
約束の十分前に店に到着したのに、充兄さんはすでに席に通されていた。変わらない充兄さんの屈託のない笑顔に、ホッとした。
「ホント、久しぶり」
「ビールで良かったか?」と言いながら、充兄さんはメニューを差し出した。
「うん」
俺はメニューをパラパラとめくった。充兄さんが指定したのは、兄さんのマンション近くの居酒屋だった。
「俺のおススメは注文しておいたから、あとは好きな物頼めよ」
「よく来るんだ?」
「ああ」
すぐにビールが二つ運ばれて来た。兄さんは店員と顔見知りらしく、俺を弟だと紹介した。ジョッキを重ね、俺と兄さんはそれぞれ一気に半分ほどを喉に流し込んだ。
「本社はどうだ? 課長さん」と、充兄さんは茶化すように言った。
「結構、面白いよ」
「そうか!」
充兄さんはそれ以上は聞かなかった。何処で誰に聞かれているかわからないし、俺も外で兄さんに仕事の話をするつもりはなかった。
「煙草、やめたの?」
俺の知ってる充兄さんはヘビースモーカーだけど、テーブルの上に煙草の箱も置いていなければ、灰皿もない。
「ああ。結構前にな」
「よくやめられたね」
一日に三箱は吸っていたはずだ。吸わない和泉兄さんが毛嫌いしていた。けれど、俺は充兄さんが好んで吸っていた銘柄の、甘い香りが好きだった。俺もしばらく喫煙者だったが、その時は兄さんと同じものを吸っていた。
「まあな」と答えた兄さんが目を逸らした。
「女?」
なんとなく、そんな気がした。充兄さんは気恥ずかしそうに、らしくなくヘラッと笑った。
「言うなよ?」
「言わないけど……、意外だな。付き合い長いの?」
「五年かな? お前だから話すけど、三年くらい前に女が妊娠したんだよ。結局ダメだったんだけど、その時に煙草はやめた」
驚いた。学生の頃から充兄さんは女に不自由したことはなかったし、いつも派手な女を連れていた。その兄さんが一人の女と五年も付き合っている上に、子供が出来たからと禁煙するとは――。
「結婚、するつもりだったの?」
「ああ。でも、子供がダメになって、その話も流れちまった」
「それでも付き合ってるんだ?」
「俺はいつ結婚してもいいんだけど、相手がうんって言わないんだよ。仕事が楽しいから辞めたくないし、子供が出来るまで結婚しないって」
昨日から、俺は驚かされてばかりだ。充兄さんが結婚を意識してるとか、相手の気持ちを優先して待ってるとか、俺の知っている兄さんでは考えられなかった。
「お前、信じてないだろ」
「そうじゃ……ないけど」
「俺も自分で驚きだよ。お前くらいの時はやりたい時にやれる女がいれば良かったし、結婚とか子供とか微塵も考えなかったからな。お前もそうだろ?」
充兄さんに聞かれて、咲を思い出した。
「あれ? 結婚考えてるのか?」
「いや……。俺も少し前まではそう考えてたよ。深入りしない、割り切った付き合いが楽だったし」
「今は違うんだ」
充兄さんは好物だと、エイヒレを頬張った。
「最近付き合い始めた彼女に『結婚は現実的じゃない』って言われたのが、引っ掛かって……」
「お前みたいな優良物件に、言うねぇ」
「結婚に興味がないと思ってたダチに『別れを想像できないから、結婚も選択肢のひとつだ』とか言われた後だったから、彼女に『現実的じゃない』って言われて……なんか……すげぇへこんだ――」
「はははっ!」と充兄さんが豪快に笑った。
「一丁前のいい男になったなと思ったら、中身は格好つけのガキのまんまだなっ!」
「兄さんはおっさんになったね」と、俺は悔し紛れに言った。
二時間ほど居酒屋で他愛のない話をして、店を出た時、充兄さんが言った。
「俺の部屋、寄ってくだろ?」
「え?」
「話があるんじゃないのか?」
久しぶりに充兄さんに会って、話をして、楽しかった。日頃、社長の三男坊とか課長って立場に縛られて、素の自分でいられる場所と時間がない。充兄さんの前では『弟』でいられて、安心した。
充兄さんから話を切り出されるまで、俺は迷っていた。
「ウォッカでいいか?」
「ああ……」
部屋のバーカウンターに俺を座らせ、兄さんはカウンターの内側に立った。棚には何十本もの酒と一緒に、見覚えのあるカクテルシェーカーが並んでいた。
「それ……」
「覚えてたか?」と充兄さんが嬉しそうに言った。
「まだ持ってたんだな」
それは、大学生の頃にバーテンダーのバイトをしていた兄さんの誕生日に、俺がプレゼントしたものだった。
「はいよ。ブラックルシアンだ」
「ブラックルシアン?」
充兄さんはロックグラスを俺の前に置いた。カクテルというよりブランデーのような黒褐色で、コーヒーの香りがした。
「食後のコーヒー代わりだよ」
兄さんも同じものを一口飲んだ。
「で? 仕事の話か?」
「和泉兄さんとは相変わらず?」
「ああ……」
いつものように、和泉兄さんの名前を出すと、充兄さんの眉間に皺が寄った。
「父さんとは?」
「二か月くらい前に会ったよ。その時にお前の本社異動を聞いたんだ」
「そうか……」
「何だよ、言いにくいことか?」
兄さんはナッツやチーズの皿を二人の間に置いた。
「充兄さんは、父さんの後継者になりたいのか?」
「いや?」と、充兄さんは即答した。
「……え?」
俺は間抜けな声で聞き返した。
「ん? 知らなかったか? 俺は父さんの跡を継ぐ気はないよ」
「そう……なの?」
「ああ。俺は今の仕事が好きだから、本社に行く気はない」
後継者問題ではない――?
充兄さんが不正を働いてでも得ようとするものがあるとしたら、それは次期会長の椅子だと思った。
「安心したか?」
「え?」
「お前は興味あるんだろう? 親父の後継者」
「なんで……」
「入社から実力で勝負してきたお前が兄貴の口利きで本社に異動したってことは、そういうことだろう?」
俺はその時ようやく気が付いた。今、充兄さんが言ったことは、誰もが思ってることだ。上層部はもちろん、俺の存在を知っている誰もが思っているのだろう。
三男坊も後継者争いに参戦した――と。
まさか、これも和泉兄さんのシナリオか?
「充兄さんが後継者を狙わないのは、俺が本社に異動したから?」
「そういうわけじゃないけど、それも理由かな。お前とは争いたくないし、お前にはトップに立つだけの技量があると思ってる」
「じゃあ、俺が本社に異動しなければ? 後継者を狙ってた?」
「そうだな。いつも澄ました笑顔で腹の中に一物抱えてる兄貴の思い通りにさせるのは悔しいからな」
俺は大きくため息をついた。
俺が後継者争いに名乗りを挙げれば、俺と争いたくない充兄さんが争いから降りる。俺には父さんの跡を継ぐ意思がないのだから、兄弟で争うことなく、和泉兄さんがグループの次期会長となる。
「やられた――」と、俺は思わず声に出した。
でも、川原は? 川原を使って業績を上げてまで和泉兄さんに勝ちたかったのなら、俺の存在くらいで身を引くか?
じゃあ、何のために川原や清水にあんなことをさせた?
いや、そもそも本当に充兄さんが黒幕か?
ダメだ。考えがまとまらない――。
「どうした?」
「え?」
兄さんが不思議そうに俺を見ている。
「本社の事件のことは聞いてるけど、そのことか?」
「いや……」
今の時点で、充兄さんを全面的に信用していいのだろうか?
その前に、俺は充兄さんを全面的に信用してるか?
咲の目を見て、俺は充兄さんを信じると言えるか……?
「事件の後始末で最近忙しくてさ。息抜きに兄さんと話がしたかったんだ。グループの改革の話も聞きたかったんだけど、少し酔いが回ったみたいだから、また今度にするよ」
俺は精いっぱい取り繕って言った。
「そうか。いつでも会える距離にいるんだし、いつでも来いよ。そのうち、彼女にも会わせろよ」
充兄さんは子供みたいに目を細めて笑った。
俺は、充兄さんを信じたい――。
「ああ。連れてくるよ」