そして水曜日、この日葉月は仕事が休みだった。
会社は週四日勤務なので、平日の水曜日に休みをもらうことが多い。
この日は、朝、航太郎を送り出した後、せっせと家事に勤しんでいた。
一通りの家事を終えた後は、久しぶりに庭に出てガーデニングや草取りに精を出す。
しばらく作業を続けてた後、葉月は一度立ち上がって腰を「うーん」と反らす。
(ふうーっ、きっと明日は筋肉痛だわ)
最近すっかり運動不足気味だった葉月は、そう思った。
作業を終えると、葉月はアイスコーヒーを持って、庭のガーデンテーブルの椅子に座った。
そしてコーヒーを飲みながら、綺麗に整った庭を眺める。
庭の隅にはハーブや可憐な宿根草の花々がそよ風に揺れている。
庭はあまり広くはなかったが、白いウッドデッキから続く芝生の先には海が一望できた。
葉月の父が若かった頃は、仕事仲間を招いて、この庭でホームパーティーをよく開いていた。
その頃の家には、いつも笑い声が響き、活気に満ちていた。
しかし今は、あの頃の賑やかさはなかった。
亡き父を思い出し、葉月はしんみりした気持ちになった。
(フーッ、ダメダメ、過去は振り返らないって決めたでしょ?)
葉月は自分にそう言い聞かせると、デッキブラシを手に取り、白いウッドデッキをゴシゴシとこすり始めた。
しばらく掃除をしていなかったので、デッキはだいぶ黒ずんでいる。
葉月は午前中いっぱい、デッキの掃除に集中した。
その日の午後、葉月の家の隣のマンションの一室に、賢太郎がいた。
賢太郎は、まだ真新しい室内を見て回る。
この部屋は、投資家をしている賢太郎の知人が所有していた。
(新しくて綺麗だし、景色は最高だし、言うことないな……。でも夏も近いのに、俺なんかが使わせてもらって本当にいいんだろうか?)
賢太郎は現在、神奈川県内の鉄道ばかりを集めた写真集の撮影に取り組んでいた。
そのことを知った知人が、二ヶ月間このマンションを無償で使っていいと言ってくれた。
先日、賢太郎が土手で仮眠中に当て逃げされたことをその知人に話したところ、拠点を作ってじっくり仕事に取り組んだ方がいいだろうと、この部屋を貸してくれた。
(池尻大橋のマンションからでも通えないこともないんだよなぁ)
撮影期間は約二ヶ月。借りるとすれば、七月の末までだ。
(夏休みはこの辺りの道路も渋滞しそうだしなぁ。せっかくだけど断るか……)
そう思った賢太郎は、窓を閉めてから部屋を出た。
マンションを出て坂道を下ると、ちょうど江ノ電の踏切をレトロ列車が通過しようとしていた。
賢太郎は素早くカメラを取り出し、線路脇へ移動してカメラのシャッターを連写する。
電車が通過し、遮断機が上がると、待っていた人々や車が踏切を渡り始める。
その脇で、賢太郎はまだカメラを構えたまま、駅に停まっているレトロ電車を撮り続けた。
(ん? 海と一緒に写りそうだな)
そう思った賢太郎は、坂道を少し上った辺りでまたカメラのシャッターを切った。
すると、午後の日差しに輝く海とレトロ列車が、綺麗に収まった。
その時、踏切の方から携帯の着信音が聞こえた。
賢太郎が音の方へ顔を向けると、そこにはイタリアンレストランで隣に座っていた女性が歩いていた。
それは葉月だった。
葉月は午後から、隣駅のスーパーまで歩いて行った帰りだった。
普段は少し離れた大型スーパーへ車で行くことが多い葉月だったが、今日は途中にある鮮魚店へ行きたくて散歩がてら歩いていった。
航太郎はマグロの漬け丼が好物なので、今日はマグロ丼にする予定だ。
ちょうどお買い得なマグロが手に入ったので、葉月は上機嫌だった。
(フフッ、今日は庭仕事をしてから隣駅まで歩いたし、夜はお魚メニューだし、これで痩せなかったら詐欺よね?)
そんな事を考えながら踏切を渡っていると、突然電話の着信音が鳴った。
両手いっぱいに荷物を抱えた葉月は、一旦線路脇に荷物を置くと、携帯を取り出して見る。
電話は元夫の啓介からだった。
(わっ、いきなり電話ってどういうこと? 連絡はメッセージでって約束なのに……)
葉月は不満気な表情で、仕方なく電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし、葉月か?」
「ちょっと、呼び捨てはやめてよね! もうとっくの昔に別れたんだから」
「そんなのどうだっていいだろう?」
「どうでもよくないわ。けじめはちゃんとしないと! で、何か用?」
「うん、この前の航太郎の件でさ……」
「うん、だから何?」
「航太郎が俺の誘いをまた断ってきたんだぞ? 一体どうなってるんだ?」
「だからこの前も言ったでしょう? 航太郎も中学に入って色々と忙しいのよ」
「忙しいって言っても、アイツの部活はたしか文化部だったよな? 体育会系じゃないんだから、父親と食事に行く時間くらい作れるだろう?」
「だからぁ、部活以外にも色々あるのよ。お友達とのお付き合いとか……ね」
「そうだったとしても、ほんの1~2時間くらい、どうにかなるだろう? もしかしてお前が余計な入れ知恵をして、俺に会わせないようにしてるんじゃないだろうな?」
「悪いけど『お前『って言わないでくれる? それに私は入れ知恵なんてしていないわよ」
「……ったく、もういいよ! でも、次は絶対顔を見せろよって航太郎に伝えておいてくれ」
「伝えるけど、行くか行かないかは本人の意志だから、責任は持てないわ」
「ハァッ? 俺は養育費を払ってるんだぞ! だから息子に会うのは当然の権利なんだっ! いいか? 次は絶対に来いって航太郎に伝えておいてくれ」
「はいはい、わかったから。じゃあね」
そこで葉月は無理矢理電話を切った。
「……ったく、『俺は養育費を払ってるんだぞ!』なんて偉そうに言っちゃってさ。あんなちょこっとの金額で、子供を育てられると思ったら大間違いだわ。おじいちゃんがどれだけ援助してれたか、全然わかってないんだから。それにおじいちゃんが亡くなっても線香一本もあげに来やしないし……。ま、来ても家には入れないけどね」
葉月は舌をペロッと出すと、再び荷物を持って歩き始める。
しかし坂道を半分ほど上った時、提げていた紙袋の持ち手がポロッと取れてしまった。
それと同時に、袋の中にあったオレンジが二つ、道路に落ちる。
「あっ……」
オレンジは、勢いよくコロコロと坂道を落ちて行った。
葉月は慌ててオレンジを追いかける。
その時、突然男性が現れて、転がって行くオレンジを拾ってくれた。
「すみませーん、ありがとうございます」
葉月は慌てて男性の傍へ行き、ペコリと頭を下げた。
「下まで落ちなくて良かったですね。ハイ……」
男性は、葉月が抱えていた紙袋の中に、拾ったオレンジを入れてくれた。
「本当にありがとうございました」
葉月はもう一度お辞儀をしてから、改めて男性の顔を見た。
「あっ!」
オレンジを拾ってくれた男性は、イタリアンレストランで隣にいた桐生賢太郎だった。
「たしかこの前イタリアンの店で……」
「はい、隣にいました。それにしてもすごい偶然ですね」
「ほんと、びっくりしちゃった」
「この近くにお住まいですか?」
「ええ、うちはあそこの白い家なんです」
葉月が指を差した先には、白い洒落た家があるのが見えた。
その家は、賢太郎がさっき出て来たマンションの隣の家だった。
「あそこですか?」
「はい。あなたもこの辺りですか?」
葉月はそう言ってから、事故受付の際に聞いた彼の住所が池尻大橋だったことを思い出しハッとする。
「いえ、私はちょっと所用で来ていただけなんで」
賢太郎がカメラを持っていることに気付いた葉月は、彼が撮影のためにここへ来ているのだとわかった。
「あ、じゃあ私はこれで。本当にありがとうございました」
仕事中の賢太郎をこれ以上引き止めるのは申し訳ないと思い、葉月はもう一度お礼を言ってから坂道を上り始める。
賢太郎も葉月に軽く会釈をすると、元居た場所へ戻って行った。
歩きながら、葉月は心の中で思った。
(びっくりしたぁ、まさかこんなところでまた会うなんて! それにしても正面から見たらさらにイケメンで、ドキドキしちゃった。なんか芸能人みたいなオーラが漂ってるんだもん。あ? え? サイン貰えば良かったかな? 航太郎に言ったら『なんでサイン貰ってくれないのー』って絶対怒られそう。でも、サイン下さいなんて言ったら、レストランでの話を盗み聞きしていたのがバレちゃうから言えるわけないし……ま、しょうがないか……)
葉月は、有名人に出くわしたような高揚感を抱えたまま家の前まで行くと、鍵を開けて中に入った。
葉月が白い家に入るのを確認した賢太郎は、ポケットから携帯を取り出して電話をかけた。
「あ、もしもし、省吾さんですか? あ、はい、今マンションを見せてもらいました。せっかくなので、お言葉に甘えてお借りします。はい、すごく助かります……はい……ありがとうございます……」
知人と雑談を続ける賢太郎は、白い家を見つめながら穏やかに微笑んだ。
コメント
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賢太郎さんの友人が省吾さんで、葉月さん母子の友人が岳大さん一家って....🍀 何だかワクワクしますね~😆🎶 暫くはお家がお隣同士になった葉月さん&賢太郎さん....💕🤭 ご近所付き合いが始まりそうな予感💖✨
省吾さんからの紹介の物件だなんてニヤニヤしちゃいます( *´艸`)クスクス💕 皆さんおっしゃる通りオレンジを拾う出会いが爽やかできゅんです⸜(。˃ ᵕ ˂ )⸝♡ 葉月ちゃんがほんと可愛い〜💗 自分なら悶え転げるなぁ(´艸`)ブハッ
おっと‼️一目惚れかい🤩 た〜のしみだよん🤭💕