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「……今夜、緊急オペになったら、うちの宮坂がオペレーターになるのよね?
主人の執刀するオペには、何度かついたことがある?」
「えっ……宮坂先生に、ですか?」
突然、私の口から夫の名前が出たことで、彼女は目に見えて狼狽え、言葉を詰まらせた。
「数か月前に楓ちゃん言ってたでしょ?
『宮坂先生は怖くて苦手。叱られるから、できればオペにつきたくない』って」
彼女の表情を窺いながら、私はゆっくりと口元を引き上げる。
「……そうですね。時々はつきます。
まだまだ宮坂先生には、ご迷惑をお掛けしてばかりですが……」
「……そう。
じゃあ、まだ遼のこと苦手なままなんだ」
彼女の目の動きを見逃すまいと見つめながら、私は薄く笑った。
「はい……苦手です。
あっ、いえ、外科医としては尊敬しています。
でも、宮坂先生のことは、まだよく知らないので。
私にとって亜紀先生も宮坂先生も憧れの先生です。
病棟を離れた今でも、こうして仲良くしていただけるなんて、本当に嬉しくて……」
熱を帯びた甘い声で夫の名を呼び、何度も『愛してる』と囁いていた、その同じ唇が偽善に満ちた言葉を並べていく。
遼が苦手?
よく知らない?
私の知らない『あんな遼』を知っているくせに――。
私が憧れの先生?
仲良くしてもらえて嬉しい?
……どの口が言うの。
……この裏切り者。
私は後ろへ回した右手で、冷たい手すりをぎゅっと握り締めた。
「――そうだ。
私、まだ楓ちゃんにお祝いしてもらってないよ?」
話題を変えるように、私は満面の笑みを向けた。
「お祝い……?」
「そう、お祝い。
私の論文のお祝いをしに、家へ来てくれるって話」
「えっ、それは……。
あの時は私、悪酔いしてて……忘れてくださいってメールでも言ったじゃないですか。
あっ、そうだ!
お祝いはちゃんとしたいので、お食事に行きませんか?
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ぜひ相川先生も一緒に――」
「遠慮しなくていいから、うちへ遊びにおいでよ。
楓ちゃんに、私の手料理を食べてもらいたいな。
私、こう見えて料理は得意なの。
主人と一緒に、最高のおもてなしをさせてほしいな」
その可愛い顔が嫉妬で歪むくらいの――
最高のもてなしをね……。
彼女の言葉を遮るように、私は声を弾ませ、満面の笑みを投げかけた。
「……そんな、宮坂先生がご在宅の時になんて、とても……。
それはご迷惑なので……」
彼女は首を何度も横に振り、動揺を隠せないまま声を震わせた。
「全然、迷惑なんかじゃないよ。
それに……
一緒に食事をしたら、主人のことも苦手じゃなくなるかもしれないでしょ?
これから一緒に仕事をしていく相手なんだし。
ね、いいでしょ?」
「あの……でも……」
「あっ、楓ちゃん一人じゃ緊張するなら、彼氏も連れておいでよ。
会ってみたいなぁ。
楓ちゃんの彼……」
狼狽える彼女に気づかないふりをして、私は自分でも驚くほど白々しい笑顔を向けた。
「私の彼を……ですか?」
彼女は目を見開き、言葉を失う。
その反応を、私は静かに見つめ続けた。
「病棟にいた頃、会わせてもらう約束をしてたのに、そのままだったでしょ?
彼は嫌がるかな?
社交的な人だって話してくれてたけど……」
「いえ……
嫌がりはしないと思いますが……
仕事の都合がつくかどうか……」
曖昧な返事のまま、彼女は語尾を濁した。
楓ちゃん……
あなたの言う『彼』って、誰なの?
遼のこと?
それとも……
あなたも彼がいながら、遼と関係を持っているの?
柔らかそうな唇を見つめながら、私はゆっくりと目を細めた。
「……日にちは楓ちゃんに合わせるから。
また私から連絡するね。
今から仮眠するんでしょ?引き止めちゃって、ごめんなさい」
そう言って私は手すりから手を離し、静かに道を譲った。
「はい……失礼します」
彼女は小さく震える声で答え、最後まで私と目を合わせることなく会釈をすると、逃げるように階段を上っていった。
私は貼りつけた笑顔を静かに消し、無言のまま、その背中を見つめる。
一度も振り返ることなく、暗闇へ消えていく小さな後ろ姿。
「……私を馬鹿にして……
楓……
許さない」
彼女の姿が消えた暗闇を見つめたまま、私は憎しみに満ちた低い声を落とした。
夜空から静かに舞い落ちる雪。
私は傘を両手で握り締め、新雪へ足を沈めながら病院のロータリーを横切った。
人気のない真夜中の駐車場。
視界に広がるのは、白一色の静寂な世界。
雪を踏みしめるたび、魂の抜け殻となった身体が、そのまま果てしない闇へ引きずり込まれていくような錯覚に襲われる。
私は駐車場の真ん中で立ち止まり、ゆっくりと傘を下ろした。
夜空を見上げ、静かに瞼を閉じる。
「………」
閉じた瞼へ浮かぶのは、夫に抱かれ、歓びと快感の声を上げる楓の姿。
そして、その歓びに酔う楓を抱き締め、熱い息を漏らす夫の姿……。
思い出したくない。
頭から消し去ってしまいたい。
それなのに、脳裏へ焼き付いた残酷な映像は、何度も何度も心のスクリーンに映し出される。
私には見せなくなった男の欲望を、
夫は、他の女の前では惜しげもなく曝け出していた。
妻には決して見せることのない、一人の男の姿。
以前の私は、夫が再び私を「女」として愛してくれる日を待ち続けていた。
なのに……。
他の男に抱かれた今だからこそ、私にも分かる。
気づいてしまった真実。
それは――
他の女で欲望を満たす悦びを知った夫は、もう二度と妻の前で「男」には戻れないということ。
たとえ、この先もう一度私を抱く日があったとしても……。
私は、何年も前から、夫にとって「女」ではなくなっていた。
そして同じように――
他の男の手で極上の快楽を知ってしまった妻もまた、
二度と夫の前で、本当の意味の「女」には戻れないのだと……。
コメント
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104話、読み終わりました……もう、胸がぎゅっとなる回でした😢💔 奥さんの、表面上は優しくて穏やかなのに、内側でぐちゃぐちゃに燃えてる感情の描写がすごく生々しくて……「楓ちゃん」を家に呼ぼうとするシーン、あの白々しい笑顔の裏にある嫉妬と復讐心がひしひしと伝わってきました。 特に、自分のことも「他の男に抱かれた女」として認識してるところが切なすぎる……愛してる人に愛されない苦しみが、雪の夜の静けさに溶けて消えそうなラストがすごく印象的でした。続きが気になります……🕯️🤍