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雪解けの景色が広がる昼下がり。
中庭では、小児科病棟に入院する子どもたちが上着を羽織り、青空の下を元気いっぱいに駆け回っている。
昨夜降り続いた雪は早朝には止み、日が昇ると同時に春の訪れを感じさせる柔らかな陽射しが降り注いでいた。
溶けた雪の下からは、温もりを求める土と草の芽が顔を覗かせ、濡れた常緑樹の葉は陽の光を受けて眩しく輝いている。
心配そうに我が子へ声を掛ける母親。
その声も気に留めず、木陰に残る雪を夢中で集める幼い子ども。
私は食堂の窓際からその光景をぼんやりと眺め、冷めかけたコーヒーをスプーンで何度もかき混ぜていた。
「亜紀、みっけ! こんな所にいたんだ。もう、探したじゃない」
穏やかな景色を遮るように、不意にガラスへ仁王立ちの女が映り込んだ。
「あ……麗香。どうしたの?」
私は窓ガラスから視線を外し、頬を膨らませた親友を見上げて小さく微笑む。
「どうしたの?じゃないわよ。亜紀に診断をつけてもらいたい患者さんがいるから、今日の午前中にMRI画像を見てって昨日頼んだじゃない」
「あ……そうだったね。ごめん、忘れてた」
「忘れてたぁ!?
午前中の検査が終わったら医局へ戻ってくるかと思えば、お昼になっても帰ってこないし。透視室のナースにも、亜紀から折り返し電話するよう伝えてもらったのに、いくら待っても電話はないし」
「あ……ごめん。ナースから聞いたけど、電話するの忘れてた」
「それも忘れてたぁ!?」
麗香は目を丸くし、呆れたように声を上げた。
「ごめん……ちょっと余裕がなくて。本当にごめん。
今からすぐ画像を見に行くから」
私は慌ててスプーンとグラスをトレーへ戻し、席を立とうと身を屈める。
勢いよく置かれたグラスの水面が波打ち、トレーの上へ小さな水たまりを作った。
「あー、もう。いいわよ。食事が終わってからで」
麗香は呆れたように目尻を下げ、両手をひらひらと振ると、食べかけのハムトーストとサラダへ視線を落とした。
「今日は朝食みたいなメニューね。
いつもより食事も遅いじゃない。もう三時よ。
午前中、そんなに忙しかったの?」
「うん……いや、なかなか仕事が捗らなくて。
もう食事は終わったから大丈夫」
気まずそうに苦笑いを浮かべながら、私はトレーにこぼれた水をおしぼりで拭き取る。
そんな私を見つめた麗香は、席を立とうとする私とは対照的に、向かいの椅子へドスンと腰を下ろした。
「私もコーヒーを飲もうかしら。
のんびり外を眺めながら昼下がりのコーヒータイム。仕事サボって飲むコーヒーって最高よね」
「麗香……でも、早く画像を……」
「まあいいわよ。今日中に見てもらえれば問題ないし。
……それに、今日の亜紀、おかしいわよ。
食事だってほとんど手をつけてないじゃない」
麗香は頬杖をつき、食べ残された昼食へ目を向けた。
「なんだか今日は食欲がなくて……」
「何かあったの?
……酷い顔してる。メイクのノリも最悪ね。
蛍の君が見たら幻滅するわよ。……寝不足?」
悪戯っぽく笑いながら、麗香は小さく喉を鳴らした。
「うん……ちょっとね」
「ちょっとって何? 気になるじゃないの」
麗香は眉間へ深い皺を寄せ、唇を尖らせた。
「……麗香、聞いてないんだ……」
……直江先生から、昨夜のこと。
「えっ? 何を聞いてないって?」
「……ううん。
そうね……今の私を見たら、あの人にも幻滅されちゃう。
きっと顔も醜く歪んでるわ。
……心みたいに」
私は食堂をぐるりと見回し、苦笑いを浮かべながら再び椅子へ腰を下ろした。
昼の混雑を過ぎた食堂は閑散としている。
十列ほど離れたテーブルでは、若いナースが四人、昼食を囲みながら楽しそうに笑っていた。
「亜紀、やっぱり今日おかしいわよ。
何なの、そのネガティブ発言」
「……あの子たち、見たことある。
この前、楓ちゃんと一緒にいた子たちだ。
オペ室ナース……」
会話までは聞き取れない。
それでも楽しそうに笑い合う彼女たちを、私はじっと見つめた。
「え? ……ああ、そうね。
午前中からのオペが、やっと終わったのかしら。オペ室は大変よね。時間どおりに食事も取れないし。
楓ちゃんの姿は……ないみたいだけど」
麗香は振り返り、ナースたちへ視線を向ける。
「………」
「あっ、そんなことはどうでもいいの!
話を逸らさないで!」
麗香は私の視線を遮るように顔を突き出した。
「麗香……
今日も綺麗ね」
「こらっ!話を逸らすなって!」
ペチッ。
薄く笑う私の額を、麗香が軽く叩いた。
「……ごめん。
麗香を相手に隠し通せる自信はないから。
……ちゃんと話す」
叩かれた額を指先でさすりながら、私はちらりと目を上げた。
「当ったり前じゃないの。
亜紀は鈍感なくせに不器用なんだから。
言ったでしょ?
亜紀が変な方向へ暴走しないよう見張ってあげるのが、蛍の君の背中を押した私の役目だって」
麗香は声を潜めてそう言うと、艶やかなピンク色の唇の端をくっと持ち上げた。
「分かってる。麗香は、いつもお見通しだからね。
私……
見ちゃったの。
遼の浮気相手を。だから……」
「ええっ!?
見ちゃったって……
ちょ、ちょっと待った!」
麗香は飛び上がるような声を上げると、
「ここでその話をする気!?」
と言いたげな顔で、慌てて食堂を見回した。
「全部は話さないよ。さすがに、ここではね」
らしくなく取り乱す親友を見つめ、私は小さくため息混じりの笑みをこぼした。
麗香は目をぱちぱちと瞬かせながら、まじまじと私を見つめる。
やがて深呼吸をひとつすると、私のグラスを奪い、水を一口飲み込んだ。
「麗香、今夜は空いてる?」
「もちろん空けるわよ。
……そっちの話だったのね。てっきり蛍の君との恋バナかと思ったわ。
それにしても……
亜紀自身が目撃したなんて……」
麗香は頬杖をついていた手を額へ当て、俯き加減のまま重いため息を落とした。
昼食を終えたオペ室ナースの一人が、食堂の窓際にぽつんと座る私へ気づき、軽く会釈をした。
私はハッとして、ぎこちなく頭を下げる。
あの子……
よく楓ちゃんと一緒にいる子だ……。
その子につられるように、他のナースたちも私へ視線を向けた。
「……」
楓の友人たちにまで笑われているような――
そんな悲観的な思いに襲われ、私は咄嗟に目を逸らした。
「亜紀? どうしたの?」
コーヒーを受け取った麗香が、カチャカチャとカップを鳴らしながら席へ戻る。
「……あの子たちが何か?」
窓の外を見つめる私の険しい表情に気づいた麗香は、私が目を逸らしたナースたちへ視線を送り、不思議そうに首を傾げた。
「ううん。別に何でもないよ」
波紋が広がるように濁っていく心。
それを悟られまいとして、私は努めて明るい声を返した。
「……そう。ならいいけど。
コーヒーはもういいの?」
麗香は冷め切った私のカップへ視線を落としながら席につく。
「うん……もういい。
麗香が飲み終わったら医局へ戻る。
片付けなきゃいけない書類、そのままにしてあるから」
「そう。
私は四時から心筋生検。
その前に一息つかせてもらうわ」
麗香はコーヒーをゆっくり口へ運んだ。
「……ねえ。
男って、どうして若い子が好きなのかな」
食堂を後にするナースたちの背中を見つめながら、ぽつりと呟きが零れる。
麗香は脈絡のない問いにカップを口元で止め、目を丸くした。
「いきなり何を言い出すかと思ったら……」
「……」
「……ああ、そういうことか。
相手は若い子だったんだ」
麗香は唇の端をわずかに歪め、大きくため息をついた。
私は黙ったまま、小さく頷いて目を伏せた。
コメント
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柏木さくらさん、第十三章(1)拝見しました。 中庭の雪解けと亜紀さんの内心の曇りが対照的で、冒頭から切ない空気がじんわり沁みました。麗香さんとの軽妙なやり取りにキャラの関係性の深さを感じつつ、「心みたいに顔も歪んでる」という内省に胸が痛みます。浮気相手を目撃した告白を食堂で遮られる緊迫感も見事です。続きで彼女が麗香に何を打ち明けるのか、とても気になります……!