「お邪魔します」
遠慮がちに部屋に入った少女を、朝日が昇ってすぐに迎えに行った。
起き抜けに連れて来た少女の腰まである長い髪は、あちらこちらに跳ね、適当な服に上着を羽織っただけという姿。
車の中で眠そうに目を擦り、ムスっとしている顔を見ると胸が痛んだが、彼女に何も持たせるわけにはいかなかった。
欲望も絶望もしがらみも
あの家のものは、これからの彼女の人生には必要のないものばかりだ。
「……昨日まではどこに住んでたんですか?」
「実家だ」
家具は揃っているのに、生活感が無い部屋に疑問を持ったのか、少女の質問に簡潔に答える。
責任を感じてか少女は顔を曇らせたが、俺はそれを見ないようにして、後ろを指差し、説明を続けた。
「そこが君の部屋だ。ある程度のものは揃えてあるが、足りないものがあれば言ってくれ」
「……」
「……どうした?」
返事をしない少女は何か言いたげに俺を見た。
「貴方は、どうして私にここまでするんですか?赤の他人なのに……」
俺は、まだ何も話していなかった。
少女がそう疑問に持つのも当然の事で、それをどう切り出していいか、悩んでいた。
「座って。少し話をしよう」
部屋の中央にある、二人掛けのダイニングテーブルへと座ると、少女も正面へ座った。
「君の……お父さんを知っている」
少女の瞳が揺れた。
「君のお父さんの賢人(けんと)さんとは友人で……いや、友人と言っていいのかは分からないな。君がまだ生まれる前の話で、俺と兄は忙しい親に代わって面倒を見て貰っていた」
賢人さんとの関わりを話す俺を、少女は目を逸らすことなく見つめ、静かに聴いている。
「その時賢人さんはもう高校生で、まだ幼かった俺の憧れだった……。でもあの家を出た賢人さんに不幸があって君があの屋敷に引き取られたと知った。俺は、仕事で屋敷によく出入りしていたから……」
言葉を選び、それらしい話をしたところで、血の繋がりのない俺がなんでここまでするのか?
その問いの答えにはなっていないと分かってはいるけど
恩、偽善、同情、自己満足。
どれも当てはまるようでどれも違う。
俺は、この説明のつかない感情を話さなくても済むように、一冊のアルバムを少女に手渡した。
このアルバムは少女にとって、大切になるものになるだろう。
だけど、これがここにあるという事実は、同時に残酷な現実を物語る材料となる。
これは俺が16歳の時、仕事に行く兄について立花邸に行ったときの話だ。
屋敷の門の前に男が立っていた。
久しぶりに見る賢人さんは前と変わらない笑い方で、俺に「大きくなったな」と言った後、兄に一枚の写真を託した。
「父に渡してほしい」
これが賢人さんの願いだった。
でもみやの祖父は、自分の息子の家族写真を、俺達の前でビリビリと破り捨てた。
反対を押し切って、家を出た息子を許してはいなかった。
その時の光景はあまりにも衝撃的で、俺と兄はその日のことを二度と話さなかった。
それから10年が経ち、こうやってみやを引き取ることになった経緯を話す俺に、兄はあの日の話を話し始めた。
「ひろ、覚えているか?屋敷の門の前で賢人さんに会ったこと……」
「……覚えてるよ」
「あの日見た事を、俺は賢人さんにずっと言えなかった。写真を受け取ってもらえたと思った賢人さんは、これも、これも、渡してくれって……俺に……」
そうして出来上がったのがこのアルバムだ。
賢人さんが本当に届けたかった相手には届かず、罪悪感だけで出来たそれを、兄はみやに渡してくれと言った。
「これは……なんですか?」
「……祖父母からだ」
穢れを知らない少女の前で息を吐くように嘘をつける自分に呆れる。
でもその時の俺は、君は祖父母に愛されていたのだと
嘘でもそう言ってやりたかった。
君達家族は、愛されていたと教えたかった。
アルバムの最初のページには、目尻が下がりクシャっとなった顔で笑う賢人さんと、その横に寄り添う奥さんの腕に抱かれ、気持ちよさそうに寝ている赤ん坊。
そして2人の間に立ち、手を繋いでいる幼い頃の少女が、幸せそうに微笑む写真がある。
写真は一枚だけではなく、幸せな日常を切り取ったようなものが、何十枚も残されていて、それを 捲(めく)る少女の手は震え、小さく消え入りそうな声でポツリポツリと、言葉を紡ぐ。
「ぜん、ぶ……燃えて、もう何も残ってないと……おもって、たっ……」
その声は俺の心臓を強く掴み、ひどい痛みを残して
「ありがとう」
そう言って、震える身体でアルバムを抱く姿は、俺の目蓋の裏に焼き付いた。
背中へと伸びた手が
触れる寸前
とどまり
少女の寝癖を直すように頭を撫でた。顔を赤らめる少女に名前を問われて初めて、まだ名乗っていなかったことに気付く。
「藤堂宏忠(とうどうひろただ)」
「ひろたださん……立花(たちばな)みやです」
「みや……俺は今から出掛ける。部屋も、それと冷蔵庫の中の物も、自由に使っていいから」
「……仕事、ですか?」
「まぁ、そんなところだ。……大丈夫か?」
小さく頷くのを確認して玄関を出る。
あのまま一人にしていいのかと考えたが俺の前ではきっと泣かないから……。
「まずは、あそこか……」
これから向かう先の事を考えると、頭に鈍い痛みが走ったが、言ってしまえば自業自得で、
後先考えずに行動した結果の後処理をする為に、俺はエンジンを掛けた車を走らせた。
見上げた空は、昨日の雨が嘘のように澄んだ蒼が広がっていた。
再びマンションに戻ったのは、深夜2時を過ぎてからだった。
じんと痛む左頬を擦りながら、キーを差し込みドアを開けると、部屋は暗く静まり返っていた。
窮屈な首元のネクタイを緩めながらリビングへ向かうと、すでに部屋で寝てると思っていた人物はソファに 蹲(うずくま)っていて、声を掛けるとビクリと肩を揺らし、顔を上げた。
「おかえり、なさい」
小さく言ったその声は枯れ、腫れぼったい目を手の平で雑に擦った。
「……遅くなってごめん」
「うん」
謝罪が、自分の口から自然に出た事に驚いて、それを許すように返事したみやがまた、今にも泣きそうな顔をするから、
堪らず目を逸らし、乾ききった喉を潤す為、冷蔵庫を開けるとある事に気付く。
ここを出てから随分経つのに、用意してあった食材は何一つ減っていなかった。
「何も食べてないのか?」
「あ、そういえば……」
時計を眺めたみやが抱えているのは、あのアルバムで、俺がいなかった時間、みやがどう過ごしていたかは赤くなった目と、今朝と変わらない姿から想像がついた。
暗い部屋の中で1人、アルバムを見て 俯(うつむ)く姿を想像して、もっと早く帰って来れば良かったと今更な事を考えてしまったからだろうか。
罪など犯してはいないのに罪悪感のようなものを感じて、未だぼーっと時計を眺めているみやに声を掛けた。
「まずは風呂入ってきて。なんか食べられるもの作っとくから」
「え、そんな」
「ここまで来て遠慮か?」
「……わかりました」
「それ、置いていけよ」
アルバムを抱えたまま、バスルームへ向かおうとするみやを呼び止める。振り返るその顔は駄々を捏ねる子供のようだ。
「……」
「濡れたらどうすんだ。預かっておくから行って来い」
「……大事に、してね」
「ああ、大事にする」
交わす言葉に釣られてか、いつもは絶対に口にする事のない言葉が、さっきから次々と出て来る事に、戸惑った。
俺の心境など知らないみやは、その言葉を素直に信じ、アルバムを渡すとバスルームに向かった。
その姿を見送って、遅すぎる夕食作りに取り掛かり、冷蔵庫にある食材で簡単に作ったのは牛丼。
テーブルに二人分のどんぶりとサラダを用意してからふと思う。
現在、深夜2時半。
男ならまだしも、こんな夜中から牛丼とか食べるのか?
普通に考えてミスチョイスなメニューを前に、考えていると風呂から出て来たみやが顔を出す。
「……食べられるか?」
「牛丼……?」
やっぱりダメだったか……。
「凄くおいしそう!料理得意な――」
どんぶりを覗き込み笑顔を見せていた顔は、俺の顔を見た途端、真剣な表情へと変わった。
「……その顔、どうしたんですか?」
マジマジと左頬を観察しているみや。
思ったより腫れているらしい。
「……転んだ」
「ぶたれた?女の人?」
勘がいいのか、ピンポイントで当ててくる。
「……分かって、貰えたらと思ったんだけどな」
俺にとってはどっちか選べとか、もうそういう話じゃなくて、こうなった事を分かって欲しいと思った。
でもこの態度が、彼女を苦しめていたと知った。
「ごめんなさい」
「みやが謝ることじゃない。……食べよう。深夜に食べる牛丼は絶品だぞ」
俺が言うと
「知ってます」
とみやは困ったように笑った。
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