瑠璃子は東京・青山のセレブ御用達の高級スーパーにいた。
休日前には職場からほど近いこのスーパーに寄る事が多い。瑠璃子のお目当てはこの店で売られているチーズケーキだ。
瑠璃子が勤める大学病院で入院患者からこのケーキを差し入れで貰って以来、このチーズケーキのファンになっていた。
村瀬瑠璃子(むらせるりこ)は大学病院で看護師をしていた。
歳は29歳。職場での立ち位置は新人とベテランの間のちょうど中堅どころといった感じだ。
瑠璃子がチーズケーキをカゴに入れた時、傍で品出しをしていたスタッフ達の話し声が聞こえてきた。
「ほらほら『solid earth』の沢田さんが家族と来てるー」
「キャーッ、カッコイイ! 奥様も綺麗な人ねぇ…赤ちゃんは男の子なんだね」
スタッフは小声だが興奮気味に話していた。
気になった瑠璃子が振り向くと、そこにはテレビで見た事のあるミュージシャンが子供を抱いて妻と仲良く買い物をしていた。三人はとても幸せそうで見ていて眩しいくらいだった。
(今の私とは真逆だわ…)
瑠璃子は小さくため息をつくとすぐにレジへ向かった。
実は瑠璃子は失恋したばかりだった。
いや、失恋というよりは騙された? 二股をかけられていた? と言った方が正しいかもしれない。
瑠璃子は同じ病院の内科医・中沢(なかざわ)医師と4年間交際していたがついこの間突然振られたばかりだった。
そして最悪な事にその後すぐに中沢が婚約を発表する。
相手の女性は瑠璃子の4年後輩の看護師で彼女は現在妊娠中だ。
瑠璃子が中沢と交際していた事は誰も知らない。それは付き合い始めた当初仕事がやりにくくなるからと中沢が言ったので二人の交際は秘密にしておく事にした。
瑠璃子は4年間律儀にその秘密を守り通した。その結果がこうだ。
あまりのバカさ加減に自分でも嫌気がさしている。
中沢と後輩の婚約を知った日は地獄のような一日だった。そして今も生きている意味がわからなくなっている。
何もかもどうでもよくなり自暴自棄になる一歩手前でなんとか踏みとどまっている状態だ。
(もう恋人もいないんだし太ったってどうって事ないわ。だから好きな物は好きなだけ食べてやる)
瑠璃子は会計を終えるとすぐに家路に着いた。
最寄り駅に着くと駅前のスーパーで食材を買った後、弁当屋へ寄り夕食用の弁当を買う。
明日の休日は一日家に引きこもる予定だ。
マンションへ戻るとシャワーを浴びてから買ってきた弁当を食べ始める。
普段は自炊をする瑠璃子だったが失恋してからは何もやる気がしなくなった。
今はただひたすら手抜きをして自分を甘やかし心の傷を癒すしかない。
テレビのバラエティー番組から流れてくる耳障りな音に思わず顔をしかめた瑠璃子は、テレビを消すとまた黙々と食べ続ける。
食事が終わるとコーヒーを淹れて買って来たチーズケーキを食べた。甘い物を口に入れると荒んだ心がほんの少し生き返るような気がした。
少し気力が回復した瑠璃子はノートパソコンを引き寄せて電源を入れる。そして最近はまっている小説投稿サイトを開きお気に入りの小説を読み始めた。小説に夢中になっていると現実逃避出来るから助かる。
瑠璃子はが好きな作家は『promessa(プロメッサ)』というペンネームだった。
『promessa』はイタリア語で『約束』という意味だ。
この作家のプロフィールにはほとんど何も記載されていなかった。
しかしプロフィール画像を見ると無機質なグレーのデスクに載ったノートパソコンが写っている。
そしてパソコンの上には万年筆が無造作に置かれていた。おそらく小説家をイメージさせる為のものだろう。
写真の隅には卓上カレンダーの一部と小さなラベンダーのガラス細工が写り込んでいる。
その可愛らしいラベンダーは殺風景な写真の中にほんのりと温かみを添えていた。
写真からは『promessa』が男性だという事が読み取れた。
そして瑠璃子は『promessa』が北海道に住んでいるのではないかと思っている。
彼の小説はどれも北海道を舞台にしていた。そして机の上にはラベンダーの置物。
彼は北の大地のどこかの町で暮らしているのではないだろうか? 瑠璃子はそう予想していた。
『promessa』の小説は2~3日に一回のペースで更新されるので瑠璃子は毎回楽しみにしている。
なぜなら彼の小説の中で描かれる北海道の風景は瑠璃子にとってとても懐かしいものだったからだ。
瑠璃子は子供の頃の夏休みを祖母のいる北海道・岩見沢市で過ごす事が多かった。
今瑠璃子が読んでいる『promessa』の小説は、東京から北海道へ移り住んだ少女が地元の優しい人達と触れ合いながら大自然の中で成長していく姿を描いたものだった。その主人公の少女は幼い頃の瑠璃子とよく似ていたのでとても親近感が湧く。
瑠璃子は東京で生まれた。父は会社員、母は瑠璃子と同じ看護師をしていたが瑠璃子が幼い時に父親が病で急死する。その後瑠璃子の母は女手ひとつで瑠璃子を育ててくれた。
夏休みになると瑠璃子は毎年岩見沢市の祖母の家に預けられた。母親は看護師として忙しい毎日を送っていたので夏休みの間は祖母が瑠璃子の世話をしてくれた。それは瑠璃子が小学校4年生まで続いた。
そして瑠璃子が高校卒業後母は再婚した。瑠璃子が看護学校に合格した年だ。
瑠璃子が看護学校の寮に入るタイミングで母は瑠璃子に義理の父を紹介した。
義理の父は当時50代後半の医師で母と同じ大学病院に勤めていた。義父は紳士的で優しく瑠璃子の母の事をとても大切にしてくれた。
苦労してきた母には幸せになってもらいたい。だから瑠璃子はその時を機にしっかりと自立しようと心に誓いそれ以降ずっと一人暮らしをしていた。
しかし今回の中沢との件は瑠璃子にとってはかなりのダメージだった。中沢や中沢の婚約者とは職場が一緒なので時折顔を合わせるのが辛い。
そこで悩みに悩んだ末、瑠璃子は転職する事を決意する。
実は既に転職活動を始めていて先日リモートでの面接も終えている。
あとは結果待ちだった。
もし採用されれば思い切って環境を変えてみようと思っている。
瑠璃子は表向きは平静を装っていたが心の中はかなりしんどかった。
あまりにも辛かったので藁にもすがる思いで心理学系の本を読み漁ったりもした。その時ある本に書かれていた一文が目に留まる。
『今しんどい人は環境を変えなさい』
なぜかその言葉が心に響いた。
(今がチャンスかもしれない)
瑠璃子は今が転機なのかもしれないと思っていた。
瑠璃子が面接を受けた病院は幼い頃夏休みを過ごした岩見沢市にある大学病院だ。
結果は明日出る。
もし採用されたら迷わず北海道へ移住しよう……瑠璃子はそう心に決めていた。
コメント
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私も大好きな作品です😆 海斗さん、美月ちゃん+ベビちゃんも登場なんて嬉しすぎます😆⤴️⤴️
エブリスタからやって参りました。わくわくドキドキお邪魔します🥰
北海道ねぇ😊私北海道出身地ですよ。今は広島にいますー!おやすみ~