上手くいくこと、思い通りにいかないこと。人生は後者で埋め尽くされていて、時折それに押し潰されそうになることもある。けれど年々それは減っていって、今年三十代に足を踏み入れた俺は幾分か精神的な強さを持つようになった。物理的な強さは、全くと言っていいほど無いけれど。
磨いたグラスを通して薄暗い店内を覗いた。僅かに歪みを持った視界は、風に揺蕩う水面のように波を作っている。
会話の邪魔にならない程度の謙虚な音量で流れる音楽が、不快な静寂を掻き消した。
店には色々な客が来る。恋仲のような男女、何やら深い会話を交わしていそうな男性二人、お酒を純粋に楽しんでいる一人の女性。
時に、その表情は満足げであり、不安定であり、哀しそうである。
常連ばかりの店というわけでもなく、改めて考えてみると七対三ほどの割合で新規客のほうが多い気がする。
一秒の行間を経て、次の曲が流れ出す。いつもと変わらない曲順のそれは、俺にとっては季節のようなもので、今更真新しく感じることなんて一つもないけれど、月明かりのような繊細なピアノが綴ったメロディーは、数日前か、それよりも昔に一度カウンターに座っていた一人の男をぼんやりと思い出させた。
夏が過ぎ去った夜の空気は冷たさを含み始めていて、それは、これからやってくる季節の存在を彷彿とさせた。
月の姿がどこにもない黒色の空。降り注ぐ雨粒がアスファルトを叩く音が、閑静な路地裏に木霊する。
裏口から店を出て鍵を締め、薄暗い路地裏を歩いていく。もう午前一時を回っているというのに珍しく姿を表さない眠気に「なぜだろう」と思考を奪われながら湿った夜を歩いていると、大通りに差し掛かる一歩手前の位置に見慣れないなにかがあるのを見つけた。
雨に邪魔をされた視界ではそれが何なのか分からず、俺はそのまま足を進めていった。そして直ぐに、激しい雨に打たれるそれが人であることを理解した。
今日は日が沈んだ頃からずっと雨が降っていたというのに、そもそもいつからここにいるのだろうか。
差した傘を男に傾けながらその濡れた身体に触れると、あまりの冷たさに俺の体温まで持っていかれそうになった。
そして意識があるのかどうかさえも分からない男に、雨音に負けないような張った声で俺は話しかけた。
「え、え、あの、大丈夫ですか?! っ生きてますか」
「…………生きてる」
この距離でなければ聞こえないであろう弱々しい声でそう言った男に、頼りない既視感を抱いた。
男はゆっくりと目を開けると、至近距離にいた知らない男に驚く素振りもなくそっと目を逸らした。
濡れた前髪が肌に張り付いていて、直ぐにはその既視感の正体を掴めずにいたけれど、俺はその瞳を先程思い出したばかりだった。
あの日店に来ていた、綺麗な男だ。
薄暗い照明でもそんな環境に慣れた視界では何の不便もなく、あの日の俺は”それ”にすぐに気が付いてしまった。
綺麗な形をした耳に開いているピアス穴が、対称的に片方だけ塞がりかけていたのだ。
男は日常的に、右耳だけにピアスをつけている。 それがどういう意味を持つのか、世間一般に浸透した知識ではないかもしれないけど、バイの俺にとっては常識と同様に頭に入っていた。
そんなの憶測に過ぎないが、なぜか「そうなんだ」と核心めいたものを感じた。男が纏う物憂げな雰囲気のせいか、それとも単に好みな容姿をしていて俺が都合よく思い込んでるだけか。
モデルのようなスタイルの良さに、綺麗な肌、形の整った目とその奥にある仄暗い瞳。
俺が働いている店は”そういうこと”を目的にしているわけではないし、バーテンから客を誘うなんてよろしくない行為だと理解していたから、これ以上その男に惹かれてしまわないように、俺は意識的に視界に入れないようにしていた。
そんな男がなぜか、雨の中、路地裏で生き倒れたように項垂れている。
濡れたシャツが肌に張り付いているさまが扇情的で、俺は思わず唾を飲み込んだ 。
二人の間に漂う空気がだんだんと熱を含んでいく。なぜか射抜かれたように逸らすことのできない目と 目に、理性は警鐘を鳴らしている。
名前も年齢も、職業も住んでいる場所も、何も知らない赤の他人。それなのに、とっくの昔に出会っていたような感覚に駆られる。
熱っぽくクラリと揺れた男の瞳に、気が付いた頃にはもう戻れなくなっていた。
雨音だけが響く真夜中の路地裏に言葉はなく、ただ互いの呼吸と体温が存在するだけ。
誘われるように顔を近づけた俺に、男は微かに震える冷たい手を伸ばして俺を抱き寄せるように首元へと回した。
どうしようもないような口付けを交わしたとき、男の冷たい唇の端に塩気を感じて、雨に濡れながら男が泣いていたことを知った。
手慣れている舌の動きに応えるように口内を刺激すると、熱を持った男の声が漏れ出てきた。それは意外にも媚びるような甘ったるさはなく、へつらうような反応が苦手な俺は静かに口角を上げた。
街灯の光も届かないような場所で、傘に身を隠すように俺達は欲に身を投げた。
◇
半年ほど前から恋人もいなかったため、俺の部屋に色が漂うのは久々のことだった。
バイとはいえ、男と付き合ったのは二回だけでその時以外はずっと女の子と身体を重ねてた。そもそも同性と付き合うなんてリスキー過ぎる行為だし、来るもの拒まずでやってただけで、この男の存在を除けば、どちらかというとヘテロ寄りだったと思う。
「ん、ふっ、ぁんぅ、っは、ぁ、っん」
「十分ほぐれてるけど、恋人は?」
「いな、い。っん、ウリセンやって、る」
「なるほどね」
片手で中の状態を確かめると、すぐに挿入できそうなほど柔らかくなっていて、薄く記憶に残っている前立腺の位置を避けながら指先を動かした。
それに気付いているのかいないのか、身体を反らせて自ら良いところに当てようとしている様子がなんとも欲情的だった。
思わず見惚れてしまいそうな美丈夫な身体に、空いている右手の指先を添わせるとそれだけで男は震えていた。
演技か純粋なものか判別のつかない反応に、俺は思わず苦笑いしてしまう。
綺麗に割れた腹筋を撫で上げて、中の最奥であろう位置を軽く押すと男は耐えかねたような声をあげた。
「く、ぁっ、ん゛っは、ぅ゛ぁ」
「ここ、いまから挿れますよ」
「んっ、慣れ、てる、っだろ」
「そうでもない。同性はあなたが三人目」
そんなどうでもいいことを言いながら、ゴムを被せた自身をあたたかなソコへとゆっくり沈ませていった。
今更「バックのがよかったかな」と思ったものの、当の本人が気にしていなさそうだったから、このままでいいことにした。
約半年ぶりの行為に、身体が歓喜しているのを肌で感じた。きつすぎず緩すぎない内壁が、膨張したソレを収縮しながら包みこんでいく。
やがて最奥まで入ったところで腰の動きを止めると、男は口を開いて気だるげな声で言った。
「もう、っ動いていい、よ」
「まだ挿れたばっかでしょ、俺ぜんぜん待つy」
「っ、俺が、待てない」
電気の付いていない暗い部屋でも、なぜか男の肌が紅潮しているのが分かった。
触れた肌が妙に暖かかったからか、男の声が微かに上擦っていたからかもしれない。
言葉通りに求めるように伸ばされた手に引き寄せられて、何度目かのキスを交わした。
唾液が混ざって唇の端から溢れていくのを気に留めることもなく、激しく一心不乱に奪い合って喰い尽くすような、乱暴で必死な口付け。
それでも不快感は一切なく、むしろ「待て」が出来ないほど欲に塗れている男に熱を煽られて、俺は腰を前後に揺らし始めた。
「ん゛っ、っんぅ゛っんぅ、っむ゛、んっ゛、ぁ゛」
「声、抑えなくて大丈夫。ここそんなに壁薄くないから」
「んぅ゛、っは、あ゛っ、あっ、んぃっ、っく、ぁ゛」
「そう、上手」
黒い前髪が濡れた瞳を覆い隠すように揺れる。だらしない水音と肌がぶつかり合う淫猥な音が雨音の響く部屋に反響した。
今日リフレインしたあの記憶は再開の予告だったのではないかと、ぼんやりとした思考で思い耽る。
好みではあったけれど、こんな展開が待ち受けているとは想像もしていなかった。
気だるげな晴れない表情のままウイスキーを口に含む男の姿が、再び脳裏に映し出される。
空いている穴が右耳であったから”こっち”なのはその時から分かっていたけれど、普通に女性ウケのよさそうな容姿や雰囲気をしているから、それに気が付かなければノーマルだと思い込んでしまいそうだ。
そんな男が自分の下で悦がって鳴いている現実を再確認して、優越感に似た感情が腹の奥でふつふつと沸き立った。
「あ゛っ、ぁう゛ん、っふ、ぃあ゛っん、んぅっ゛」
「っは、感度よさそうだけど、演技?」
「は、ぁっ、っん、っあ゛、っうる、さっ、ん、あぅ゛」
「あ、違うんだ、ごめんね。でもほんとに気持ちいいなら、よかった」
睨むように向けられた視線が微塵も怖くなくて、思わず笑みをこぼしてしまった。
そしてそれと同時に、こんな男なら相手に困ることはないんだろうな、と熱に浮つきながら思った。
名前も年齢も職業も、なぜあんな場所で泣いていたのかも知らないけれど、この一瞬の快感は揺らぐことのない本物で、数時間の間だけ、名前も知らない互いの熱を求めあった。
◇
夜通し降っていた雨は既に止んでいるようで、寝起きの顔には締め切られていなかったカーテンから差し込んだ日の光が突き刺さっている。まぶしい。
目を開けるのも億劫になりながら寝返りを打つと、どこにも男の体温が見つからなくて俺は急ぐように瞼を開いた。
え、いない。もう帰っちゃった?てか今何時?
途端に様々な疑問が押し寄せて、寝起きの頭では処理しきれず目眩がしそうになった。
まだ眠たげな身体をゆっくりと起こし、ぼやけた視界でなんとなく扉を見つめる。
いや、ワンナイトなのは分かってたけどね。でも、なんか傷付いてそうだったし、もう少しいてもよかったのに。
これじゃ、まるで、
「夢みたいじゃん」
「……なにが」
突然部屋に響いた男の声に驚きながら顔を向けると、そこには小さくなって床に座り込んでいる男の姿があった。
その表情は相変わらず曇っていて、俯きがちに右往左往と泳ぐ視線が居心地の悪さを物語っていた。
「……昨日は、迷惑かけた」
「あぁ、いや、迷惑なんて思ってないから。それより、大丈夫?」
「え?」
「ほら、身体とか。一応拭ったりはしたけど、痛むでしょ。あと、雨。風邪引いちゃってたりしない?」
「大丈夫……あんたこそ、ヘテロじゃないの」
「バイだよ」
「……そう」
再び朝を迎えた部屋に沈黙が流れた。僅かに掠れた男の声が昨夜の事情を醸し出している。
窓の外から聞こえる小鳥の声が浮き彫りになったように聴覚に入り込んだ。
ふと男が立ち上がって、止まっていた時間が再び動き出した。男にさっと手渡されたものが何か触れただけでは理解できず、目をやるとそれは二枚の紙幣だった。しかも万札。
俺は意味がわからず、見開いた目のまま男に目線を向けると、変わらない表情のまま男は口を開いた。
「……足りない?」
「いや、違う。えっと、なにこれ??」
「え、何って……慰謝料?」
「え。えぇ、いらないよ。ほんとに、っ大丈夫だから」
そう無理やり手渡されたものを押し返し握らせると、本人は不服そうな顔をしながらもそれを閉まってくれた。
売り専をしてるって言ってたし、行為に金銭が絡んでくるのには慣れっこってことか。
「帰ろうと思ったんだけど、鍵、どこか分かんなかったから」
「あぁ、うん。ってか、そんな床じゃなくても、こっちおいで?」
「いや、あんた起きたし、もう帰る」
そう言うと男は床から立ち上がり、少しふらつくような歩調で玄関へと消えていった。
そんな男の背中を、なぜか俺は追いかけることが出来ず、生暖かい布団に足を突っ込んだままただ眺めた。
玄関の扉が閉まる音が静かな部屋に鳴り響く。名前を聞くことも、何があったのかを問うこともせずに、その出会いは幕を下ろした。言葉通り、一夜限りの関係。
男の余韻に浸るように唇を指先でそっと撫でる。
健やかな青空に太陽が登り始めているのを横目に、この先二度と会わないであろう、月光のように儚くも強かだった男の影を追うように、俺はぼんやりと思い返した。
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ぁぁぁぁぁぁぁ。好き。 ありがとうございます。