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#🌀🌧️⚡️
低気圧
42
2,687
天灯共同医療福祉院、人型化準備区域。
狐は今日も、栖梧の前で格好をつけていた。
「それでさ、昨日は一回も退避札使わなかったんだぜ!」
「それはすごいですね」
「だろ?」
狐の耳がぴんと立つ。尾も機嫌よく揺れた。
「ただ、使わなかったことより、必要なかったことの方が大切ですよ」
「分かってるって! オレ、もう結構できるようになっただろ?」
「ええ。最初の頃と比べれば、ずいぶん――」
栖梧の言葉が、ほんの一瞬だけ止まった。
狐は気づかない。
「ずいぶん?」
「……いえ。よく身についています」
「だろ!」
胸を張って座り直す。栖梧の視線が一瞬だけ下がった。
「今度、人界見学もあるんだろ? オレ、もう大丈夫だと思うんだよな」
「人界ではこちら以上に気をつけることがありますから、そこは別に確認しましょう」
「分かってる。下衣は公共で外さない!」
「はい」
「森でも外さない!」
「はい」
「川でも!」
「よく覚えていますね」
「当たり前だろ!」
また座り直す。尾の先が、ぱた、ぱた、と床を叩いた。
栖梧が記録板から顔を上げる。
「…………」
「なんだよ?」
「いえ」
「なんか言いたそうじゃん」
「何も」
「ならいいけど」
狐が再び話し始める。その声が、先ほどより若干上ずっていた。
栖梧は知っていた。この狐は、厠へ行きたい。そして自分の前では、絶対に言えない。
――栖梧が好きだからだよ!
以前、本人の口からそう聞いてしまっている。あれ以来、直接指摘しないと決めていた。羞恥を無理に克服させる必要はない。限界まで我慢しなくて済めば、それでいい。
だから普段なら、適当な理由をつけて自分が席を外す。
しかし今日は。
「あれ。栖梧」
訓練室の前を、大柄な男が通りかかった。熊由来の霊獣だった。
「龍清、こっち来てないか?」
「今日は見ていません」
「そうか」
去ろうとした熊が、ふと足を止める。栖梧を見た。狐を見た。もう一度、栖梧を見た。
目が、わずかに細くなる。
「おい」
「ん?」
「少し付き合え」
「は!? なんでだよ!」
「いいから来い」
「オレまだ栖梧と話して――」
熊が狐の腕を掴んだ。
「ちょ、おい!」
「栖梧。借りるぞ」
「ええ、お願いします」
「なんで栖梧まで了承してんだよ!」
ずるずると引きずられていく狐。廊下を出て、角を曲がったところで熊がぼそりと言った。
「厠」
狐の耳が跳ねる。
「……なんで分かった」
「見れば分かる」
「そんな分かりやすかったか!?」
「分かりやすかった」
「うるせえ! 案内すんな、一人で行ける!」
「ここで待ってる」
「待たなくていい!」
「なら向こうにいる」
「それも嫌だ!」
「どうしろと言うんだ」
「知らねえよ!」
結局、熊は少し離れた壁際で待つことになった。
*
しばらくして狐が戻ってくる。切迫感は消え、代わりにものすごく気まずそうな顔をしていた。
「……なんで分かった」
「さっき言った」
「もう一回聞いてんだよ!」
「見れば分かる」
「同じ答えじゃねえか!」
狐の耳が伏せられる。少し迷ってから、恐る恐る尋ねた。
「……栖梧も?」
熊は黙った。
「おい」
「知らない方がいい」
「知ってるじゃねえか!!」
廊下に狐の声が響く。
「やっぱり気づいてたのか!?」
「俺は何も言ってない」
「その間で全部分かるんだよ!」
「なら聞くな」
「聞くだろ普通!」
狐は頭を抱えた。
「最悪だ……栖梧に全部バレてた……」
「厠に行きたいことくらいで大げさだな」
「お前には分かんねえんだよ! 好きなやつの前で、今から厠行ってきますとか言えねえだろ!」
熊は少し考えて、真顔で頷いた。
「分からなくもない」
「だろ!?」
狐の耳が立つ。ようやく理解者を得た顔だった。
「やっぱそうだよな! お前だって龍清の前じゃ――」
「だが、俺は触れたい時は触れたいと言う」
「…………は?」
「首に触れたい時も聞く」
「ちょっと待て」
「舐めたい時も聞いた」
「待てって言ってんだろ」
「印を付けたい時も聞いた」
「段階ってもんがあるだろ!! 厠の話だったよな今!?」
「好きな相手に言いにくいことを伝える話だろう。何が違う」
「全部違う!!」
熊は本気で分からないという顔をしている。
「触れたいなら先に聞く。相手がいいと言えば触れる。嫌だと言えば触れない。それだけだ」
「理屈は分かる! 分かるけど時系列がおかしい!」
「印も同じだ。場所は龍清に決めてもらった」
「詳しく話すなって言ってんだろ!」
「服で隠れるところならいいと言われた。首の付け根あたりだ」
「聞いてねえ! 聞いてねえって言ってんだろ!!」
その瞬間だった。
狐の頭に、なぜか栖梧の顔が浮かんだ。いつもの落ち着いた顔。整えられた襟元。そこへ自分が近づいて――
「…………っ!」
狐は勢いよく鼻を押さえた。
「どうした」
「なんでもねえ」
「顔が赤いぞ」
「なんでもねえ!」
「鼻も押さえている」
「うるせえ!」
熊が数秒、じっと狐を観察する。
「お前、栖梧で想像したのか」
「してねえ!!!!」
狐の尾が爆発したように膨らんだ。
「俺はまだ何を想像したか言ってない」
「うるせえええ!! やめろ聞くな喋るな!」
「印を付けるなら、先に聞けよ」
「具体的な助言をするな!!!」
狐は真っ赤になって壁に額をつけた。
「なんなんだよお前……恋愛経験の差がありすぎるんだよ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
しばらくして、狐が壁に額をつけたまま小さく聞いた。
「……恥ずかしくねえの? 龍清に、そういうこと言うの」
熊は少し黙ってから答えた。
「恥ずかしい時もある」
「あるのかよ」
「ある」
「じゃあ、なんで言えるんだ?」
熊は今度は迷わなかった。
「龍清だからだ。嫌なら嫌と言う。いいならいいと言う。俺も同じだ。だから聞く」
「…………」
狐は黙った。栖梧の顔が浮かぶ。厠のことを知ったところで、栖梧は笑わなかった。追及もしなかった。今日だって、熊に気づかせただけで何も言わなかった。
「……そっか」
「ああ。お前も、そのうち言えるだろう」
「……厠のこと?」
「それも。触れたいとか」
「話を戻すな!!」
「印を――」
「やめろ!!」
*
二人が訓練室へ戻ると、栖梧は先ほどと同じ場所で記録板を読んでいた。
「お帰りなさい。では、先ほどの続きを」
「お、おう」
狐は椅子に戻る。栖梧が向かいへ座り、記録板へ目を落とした。
その拍子に、襟元が視界へ入る。
――印を付けたい時も聞いた。
「…………っ」
狐は鼻を押さえた。
(待て。待て待て、今それを思い出すな脳内熊)
「どうしました?」
「なんでもねえ!」
(首だ。首があんな近くに。いや近くない。まだ普通の距離だ。落ち着け)
「ですが、顔が赤いですね」
「気のせい!」
(服で隠れるところならいいって言われたって……いや誰が言われたんだよ熊だろ、オレは関係ねえ)
栖梧の表情が変わった。穏やかな表情から、対象者の身体変化を見逃さない専門職の顔へ。
「少し見せてください」
「え、待――」
一歩、近づく。
「急に赤くなりましたね。熱感は?」
「な、ない! ないから離れ――」
「では失礼」
さらに一歩。距離が詰まる。襟元がさっきよりはっきり見えた。
(近い。近い近い近い。首。印。いや違う印の話じゃない今は診察の話――)
「目眩はありませんか?」
(ない。あるのは別の症状だ、多分)
「息苦しさは?」
(それもある。だが原因が違う気がする)
「動悸は――」
「うわああ無理!!」
もう駄目だった。 厠も、人界見学も、訓練も、全部頭から消えた。残っているのは一つだけ。
その時、少し離れたところから熊がぼそりと言った。
「おい。つけたい時はちゃんと聞けよ」
ぷつん。
狐の意識が切れた。
「え?」
ぐらり、身体が傾く。
「危ない!」
栖梧が咄嗟に抱き止めた。狐は完全に脱力していた。
「どうしました!? 聞こえますか!」
専門職の声に切り替わる。床へ倒れないよう身体を支え、呼吸を確認した。
「呼吸はある……急な意識消失?」
額へ触れる。
「熱は――」
横から熊が覗き込んだ。
「大丈夫だと思う」
「なぜ分かるんです?」
「原因は分かってる」
「原因?」
「栖梧だ」
「…………私?」
「正確には、栖梧につける印だ」
栖梧の動きが止まった。腕の中では、狐が真っ赤な顔のまま気絶している。
長い沈黙。
「……。最初から説明していただけますか」
「厠へ連れていったところから?」
「なぜ厠から印の話になったんです」
「恋愛相談だ」
「…………なるほど」
「分かったのか?」
「何も分かりません」
栖梧は深く息を吐いた。
「とにかく、意識が戻るまで休ませます。あと、今後この方へ恋愛助言をする時は――」
一度言葉を止める。
「……もう少し、段階を考えてください」
熊は少し考えて頷いた。
「分かった。次は、触れたいところから話す」
「そういう意味ではありません」
*
その日の訓練記録には、新たな一文が追加された。
《訓練中、一過性の意識消失あり》
《身体所見上、大きな異常なし》
そして栖梧は、少し迷った末にもう一文を書いた。
《原因については覚醒後、本人の羞恥へ配慮し確認する》
なお、狐が目を覚ますのは、まだ少し先の話である。
コメント
1件
わあ、もう、今回も最高でした……! 狐の「好きな人に厠行きたいって言えない」っていう不器用な可愛さと、熊の「触れたい時は聞く、舐めたい時も聞く」の破壊力の差が凄すぎて、笑いながらも胸がぎゅっとなりました。栖梧の、「分かってるけど指摘しない」という距離感の取り方が本当に優しくて、大人だなあ……ってじんわりします。最後の気絶、熊の一言が完全にトリガーだったのが切なくも愛おしい(笑)。意識戻った後の狐、どうなっちゃうんだろう……続きが待ち遠しいです🌷