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授業が終わると、クラスの空気が一斉にほぐれた。教卓に向かって「ありがとうございました」と声をそろえると、教室の緊張感はふっと抜けて、ざわざわとした日常の音に変わっていく。
私は、次の移動教室の準備をしながら、教科書を鞄に滑り込ませていた。
その時だった。
「その痣、どうしたの?」
不意に、隣から声がした。
夏美だった。机の端に手をかけたまま、まっすぐ私を見ている。
視線の先にあるのは、制服の袖からちらりとのぞいた、紫色の痣。
心臓が一瞬で冷たくなる。
口の中がカラカラになるのを感じながら、私は慌てて袖を引っ張って隠した。
「…ぶつけただけ」
息を飲むように言った言葉は、自分でも分かるほど薄っぺらかった。
でもそれしか言えなかった。
まさか、あの人に――母親にやられたなんて。
「ふーん…」
夏美はそれ以上は何も言わなかった。
でも、何かを察したように、目をそらすことも、笑うこともなかった。
ただ静かに、私の答えを受け止めてくれた。
その沈黙が、なぜか少しだけ、救いに思えた。
放課後。廊下を並んで歩いてると、夏美が何気なく言う。
「今日、空いてる〜?!」
「…うん、別に」
「じゃあさ、カラオケ行こ!ひさびさに歌いたい〜」
気づいたらうなずいてた。
理由なんていらなかった。ただ一緒にいられるなら、それでいい。
カラオケの個室。ポップな壁紙と、甘いジュースの匂い。
夏美はマイクを持つと、わたしの知らない、クリープなんちゃらとかいうバンドの曲を入れた。
「最近これハマっててさ〜」
そう言って笑う横顔を、ずっと見てた。
マイク越しに響く彼女の声は、少しだけしゃがれてて、でもすごく綺麗だった。
歌い終わると、夏美がわたしにマイクを渡してきた。
「次、優花ちゃんの番ね」
「えっ…わたし、歌下手だよ」
「いーの!!聞きたいだけ」
わたしの歌なんて、誰かが聞きたいって思ってくれるなんて、初めてだった。
リモコンを手に取りながら、震える指先で、曲を探す。
ランキングをスクロールしていく指がふと止まる。画面に並ぶ知らない曲名たちの中で、かろうじて口ずさめそうなタイトルを見つけた。
「……これにしよ」
ぽつりと呟いて、“黄色 / back number” に予約の印をつける。ピッと小さな音がして、画面の端にタイトルが浮かび上がる。
その瞬間、前の席の夏美がくるりとこっちを振り返った。目が少し見開かれてて、口角がほんのすこし上がってる。「おおっ!」って、声には出さないけど、まるでそう言ってるみたいな顔。
——嬉しそうで、ちょっと意外そうで、でも、なんかあったかい顔。その顔に胸の奥がふわっとなる。
夏美、これ好きなのかな、それとも、わたしがこれを選んだことにびっくりしてるのかな。どっちかはわかんないけど、でも、
入れてよかったって、今もう思ってる。
曲が終わると、部屋の空気がすこしだけ静かになった。
モニターの明かりが落ち着いた色に変わって、わたしはマイクをそっと置いた。
思ってたより、心臓がうるさい。
「……へたくそだったかも」
小さくこぼすと、夏美がすぐに振り返る。
その目が思ったよりまっすぐで、まばたきもしない。
「めっちゃよかったし、曲のセンス意外だった!」
ちょっとだけ笑ってる。でも、なんか、いつものふざけた感じじゃない。
「“黄色”って、さ」
「同性愛の歌、って知ってた?」
その言葉に、心臓がひとつ跳ねた。
夏美の言葉は柔らかいのに、ちゃんと鋭いとこ突いてくる。
「……うん、なんかそうらしいよね」
視線をそらしながら返すと、夏美がくすっと笑った。
「わたし、あの歌、好きなんだよね」
「“好きって言えないのが、いちばん苦しい” って感じ、めっちゃわかるから」
その声が、思ったよりずっと近かった。
気づけば、夏美の手がテーブルの上にぽつんと置かれてて、
その距離が、触れようと思えば届きそうなくらいで。
「……たとえば、わたしが女の子を好きだったら、!、な〜んて、言えないな〜、」
その一言が、あまりにもまっすぐで、
たぶん、ふざけて言ってるんじゃないってことだけが分かった。
わたしの喉がごくんと鳴る。
気づいたら私は夏美の手を重ねていた
沈黙の中で、ふたりの手だけが触れたまま、微かに震えていた。
どちらも何も言わないのに、不思議とその沈黙が怖くなかった。
むしろ、何かが少しずつ確かになっていくような気がした
そのとき、スピーカーからそっと流れ出す、くぐもったようなギターの音。
あいみょんの「ふたりの世界」。
さっきまで知らなかったのに、今のこの空間のためにあるみたいに思えた。
夏美の肩が、わたしの方へ少しだけ傾く。
距離はすでに近いのに、その仕草ひとつで心臓が跳ねた。
《いってきますのキス
おかえりなさいのハグ
おやすみなさいのキス
まだ眠たくないのセックス》
歌詞が部屋に流れた瞬間、空気がピリッと変わった気がした。
過激な言葉なのに、なぜかいやらしさよりも、
ふたりで暮らしてる未来を覗き見したような、そんな感じだった。
夏美が、ふっと小さく笑った。
「この曲、ちょっと恥ずかしいね」
「……うん。でも、いい」
わたしの返事に、夏美はこっちを見た。
視線が絡む。離れない。
《いつになったら私のこと
嫌いになってくれるかな》
歌詞と一緒に、夏美の瞳が一瞬だけ揺れた。
その表情に、わたしの中の何かがふっとほどけた。
「もしさ、わたしが女の子を好きでも…ひかない?」
問いかけるようにそう言うと、夏美の目がまるくなった。
「え?」
わたしは目をそらさずに続けた。
「仮の話じゃないって言ったら、どうする?」
静かに、でも確実に、空気が変わっていくのがわかった。
曲の歌詞が、ちょうどいいタイミングでふたりを包んでいた。