テラーノベル
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紅子の店で楽しい時間を過ごした二人は、店を後にした。
大通りに出ると、颯介がタクシーを止め、凛を家まで送ると言う。
近くのコインパーキングに停めてある彼の車は、明日取りに来るつもりらしい。
凛は申し訳なさを覚えつつも、促されるままにタクシーへ乗り込んだ。
「すみません。遠回りになっちゃうんじゃ……」
「大丈夫だよ」
「でも、真壁さんのお住まいはたしか……」
凛が、颯介がタワーマンションを購入した際の契約書に記されていた住所を思い出そうとしたとき、颯介が静かに口を開いた。
「近いから気にしないで」
その瞬間、凛は彼の自宅の住所を思い出す。
(そうだ……たしか渋谷区松濤の高級住宅街だったはず)
思い出した途端、胸の奥に小さな疑問が浮かんだ。
(松濤って戸建てが多いイメージよね……え、じゃあ、彼は既婚者なの?)
そんな不安がよぎり、凛はそっと颯介の左手に視線を落としたが、指輪はなかった。
だが、最近は指輪をつけない既婚者も珍しくない。
できるだけ自然を装いながら、凛は探るように尋ねた。
「たしかお住まいは渋谷区でしたよね?」
「うん。渋谷区の松濤」
「意外でした。てっきり港区あたりのタワマンだと思ってました」
その言葉に、颯介はふっと口元をゆるめた。
「一昨年まではそうだったけど、去年、松濤の戸建てに引っ越したんだ」
「そうでしたか。あの……マンションから一戸建てに移った理由って、聞いてもいいですか?」
「うーん、なんて言えばいいかなあ……地に足をつけて生活したくなった……って感じ?」
「タワマンだと、地に足がついてないんですか?」
「うん。空中に浮いてるからね」
「あ、なるほど……」
「やっぱり地面に近い場所にいると、落ち着くんだよね」
その気持ちは、凛にもよく分かった。
田舎の一軒家で育った彼女は、今でこそマンション暮らしに慣れたものの、たまに実家に帰ると心からほっとする。
「それ、なんとなく分かるような気がします」
「そう? それに、戸建てに引っ越したのには、もう一つ理由があるんだ」
「理由?」
「家族が増えたからなんだ」
「えっ?」
その一言に、凛は思わず息をのんだ。
(ショック! やっぱり結婚してたんだ……)
儚い恋心が崩れ落ちていくのを感じたそのとき、颯介はあっけらかんと続けた。
「去年からおふくろと同居を始めたんだよ」
その瞬間、凛の胸にぱっと光が差し込む。
「お母様と?」
「そう。数年前に親父が亡くなってね。去年、東京へ呼び寄せたんだ」
「あっ、それで戸建てを?」
「母は長年一軒家で暮らしていたから、マンションは嫌なんだってさ」
「そうでしたか……」
颯介が戸建てに移った理由を知り、凛の心はスーッと軽くなる。
(よかった……結婚してなかったんだ)
しかし安堵も束の間、次の不安が頭をもたげる。
(え、ちょっと待って。マザコンってことはないわよね? それとも、母親が息子を溺愛するあまり、今まで独身ってパターン?)
凛の脳裏には、嫁姑バトルで一世を風靡したドラマのシーンがよみがえる。
はてしなく暴走する妄想をなんとか止めようと、凛は慌てて話題を変えた。
「あの辺りの一軒家なら、お庭も広くて立派なんでしょうね」
「そんなに広くはないけど、まあそれなりかな。いろいろ手も加えてるしね」
「どんなお庭なんですか?」
凛は実家の広い庭を思い出しながら尋ねる。
「季節感を大事にしたかったから、秋は紅葉が見られるような木を植えたり? まあ、まだ植えたばかりだから、紅葉はもう少し先の楽しみだけどね」
「わぁ、素敵ですね。手入れは庭師さんに頼むんですか?」
「いや、自分でやってる」
思いがけない答えに、凛は驚いた。颯介が庭いじりをしている姿など、どう頑張っても想像できない。
『不動産王』と言われる億万長者なら、一流の庭師を雇っていてもおかしくないのにと、凛は思った。
それと同時に、幼い頃の記憶がふとよみがえる。
父が庭の手入れをしているとき、凛はいつもそばで手伝っていた。
黙々と作業をする父の背中を眺めながら、家を守るのは父親の役目なのだと、幼い凛は無意識に感じていた。
だから、自ら庭の手入れをしているという颯介に対し、好感のようなものが芽生える。
「ご自分で手入れされるなんて、なんか楽しそうですね」
「よかったら、今度見に来る?」
「え?」
「母特製のハーブティーをご馳走するよ」
「え? お母様はハーブを育ててるんですか?」
「うん。好きみたいだね。きっと若い女の子が来たら喜ぶと思うよ」
「じゃあ、いつかぜひ!」
それが社交辞令だと分かっていても、凛の胸は感激でいっぱいになる。
やがてタクシーがマンションの前に着くと、凛は車を降りて礼を言った。
「送っていただきありがとうございました」
「うん。じゃあリフォームの件、よろしくね。おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まると、タクシーは静かに走り去っていった。
遠ざかっていく車を見送りながら、凛は小さくつぶやく。
「なんかすごい一日だったな……」
奈美の件には驚かされたものの、そのあと颯介がわざわざ新宿まで来てくれたことが、凛は嬉しかった。
「よしっ、リフォーム頑張ろうっと!」
元気に呟くと、凛は軽い足取りでマンションへ入っていった。
その頃、タクシーに揺られていた颯介は、ふいに運転手から声をかけられた。
「すみません、さきほどのお話、ちょっと耳に入りまして……実は私も去年、母を故郷から呼び寄せたんです」
同年代だと思われる運転手が、バックミラー越しにぺこりと頭を下げる。
「そうですか。じゃあ、うちと同じですね」
「はい。偶然耳にしてつい嬉しくなってしまって……」
「お母様は、東京の生活にはもう慣れましたか?」
「はい。東京は刺激的で便利だって、毎日あちこち出かけてますよ。うちも父が亡くなってから呼び寄せたんですが、あの頃のしんみりした母はどこへやらって感じです」
その言葉に、颯介は穏やかに微笑んだ。
「それはよかったですね。うちも同じで、あれこれ楽しんで毎日忙しいみたいです。そんな姿を見ていると、思い切って呼び寄せて良かったなって思います」
「そうですね。まあ、兄弟や親戚にはいろいろ言われましたが、これで良かったのかなって……」
「良かったんですよ、きっと」
「はい」
和やかな空気の中、二人はバックミラー越しに穏やかな笑みを交わした。
窓の外を流れていく夜の街を眺めながら、颯介はふと胸の内でつぶやく。
(おふくろのことなんて誰にも話していないのに、どうして彼女には話したんだ?)
自分でも説明のつかない戸惑いを抱えたまま、颯介は窓越しに流れるネオンの光を、ただ静かに見つめ続けていた。
コメント
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未だ話したことのないことを凛ちゃんに打ち明けるということは、どこか安心感があるのかもですね~ 「いつか」が待ち遠しいです🤗
奈美とは違って送り狼🐺にならない紳士な✨颯介さんのご自宅の話をさりげなく聞き出せる凛ちゃんの話術の凄さ✨素晴らしい👍😀 颯介さんも会話が弾んでお母様のことをスラスラ伝えたのは凛ちゃんとの居心地の良さと好意があってだよね🥰💝 社交辞令ではなくご自宅訪問&お茶🫖をいただく機会がありそうな予感o(^▽^)oワクワク😻💕
きっと、お母様にも気に入ってもらえると思うな😊