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ruruha
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第12算話 未定義の一手
古い機械は、思った通りには動かない。
それが当たり前だと、ローリエは知っていた。
放課後の部室は、昼の教室より少しだけぬるい。
使い古した机の天板には、小さな傷と半端な丸い跡が残っている。
窓際の棚には、もう誰も使わないはずの箱が積まれ、細い線のモニターが斜めに並んでいた。
ローリエはそのうちの一台の前に座っていた。
画面は古い。
起動も遅い。
押したはずのキーが、たまに一拍遅れて返ってくる。
その遅れを、前までなら直そうとした。
今日のローリエは、直さなかった。
遅れるなら、遅れる前提で置く。
ひとつ先に、別の処理を待たせる。
動ききらないなら、そこで一度切る。
切った先を、次で拾う。
画面の中の小さな図形が、いつもと少し違う位置に落ちる。
それを見て、ローリエはわざと次の入力を急がなかった。
少しずらして、別の順番で積む。
隣で顧問が椅子を鳴らした。
「今日、やけに静かだな」
ローリエは目を画面から離さなかった。
「静かですか」
「いつもなら、ここ違うとか、これおかしいとか、先に言うだろ」
ローリエはそこで少しだけ口元を動かした。
「おかしいなら、おかしいまま使う方が早い時もあるかなって」
顧問が、へえ、と言った。
その、へえ、のあとに少しだけ間があく。
「それ、いい壊れ方かもな」
ローリエは返事をせず、画面に落ちてくる形を見た。
ひとつ欠けたまま動く。
少しずれたまま揃う。
予定と違うのに、結果としては消える。
正しくないのに、成立する。
その感じが、今日のローリエにはひどく近かった。
グラスの式は見えていた。
でも、見えている形がそのまま本当とは限らなかった。
かけの重さは読めた。
でも、軽いつもりの自分の手が、勝手に深いところまで踏み込んだ。
イオウの速さも、もう何をしているか分かる。
分かるのに、決める前に来る。
頭の中で、いくつもの正しい形が並ぶ。
並ぶだけで終われば、全部ただの重りになる。
なら。
正しくないまま、いったん動かしてしまう方がいい時がある。
ローリエはそこで、古い機械の前から立ち上がった。
モニターの奥で、小さな図形がまだ少しだけ不安定に動いている。
でも、止まってはいない。
「帰るのか」
顧問が聞いた。
「はい」
「今日は早いな」
ローリエはかばんを持ち上げる。
「ちょっと、試したいことがあって」
顧問はそれ以上聞かなかった。
ただ、机の上に散らばった細いねじを指先で集めながら、ぽつりと言った。
「思った通りに動かないやつは、だいたい面白いぞ」
ローリエは戸口で少しだけ振り向いた。
面白い。
今の自分には、そこまでやわらかい言葉に聞こえなかった。
でも、否定もできない。
坂を上がる。
町の風はまだ昼の熱を少し残していて、家々のあいだをやわらかく通る。
用水路の音は細く、石段の影は短い。
いつもの坂だ。
でも、今日は歩きながら、頭の中で式を完成させなかった。
左へ置く。
その次を浅くする。
本当なら右へ足したい。
でも足さない。
途中で止める。
いや、止めるのではなく、そこで一度切る。
その切れ目を、次の手で拾う。
未完成。
半端。
崩れかけ。
前までなら嫌っていた形だった。
今は、その半端さが少しだけ頼もしく見える。
駄菓子屋の戸を開けると、甘い粉のにおいが流れてきた。
おばあちゃんはレジの奥で、小さな紙袋を束ねていた。
手元の動きはいつも通り、無駄がない。
「いらっしゃい」
ローリエはかばんを下ろし、すぐにはそろばんを出さなかった。
「今日は」
少しだけ息を整える。
「きれいに組まないでやってみたいです」
おばあちゃんの手が止まる。
紙袋の束が、そのまま掌の中で静かになる。
「ふうん」
それだけだった。
でも、その一言に、否定はなかった。
「やっとかい」
ローリエは少しだけ眉を寄せる。
「やっと、ですか」
「おまえさん、ずっと綺麗にしすぎとったからねえ」
おばあちゃんは束ねた紙袋を脇へ置き、いつもの木箱を引き寄せた。
「今日は袋じゃなくて、人の顔を立てるつもりでやりな」
「人の顔」
「狙うんじゃなくて、そこに来るだろうとこ」
ローリエはその言い方を頭の中で転がした。
狙うのではなく、来るだろうところ。
結果ではなく、途中の流れを置く、みたいな意味だろうか。
おばあちゃんは店先の方へ目をやった。
「ちょうどいい」
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、菓子の袋を持って戸の横から顔を出していた。
どうやら、さっきから外にいたらしい。
「入ってきな」
ふたりは少し笑いながら入ってくる。
短い髪の子はいつものように目が先に光っていて、結び目のゆるい髪の子は小さなおはじきを掌の中で転がしていた。
「またやるの」
「今日は、ちょっと変なことやる」
ローリエが言うと、短い髪の子がすぐに笑う。
「いつも変じゃん」
「今日は、もっと変」
それを言いながら、ローリエはやっとそろばんを机へ置いた。
木枠が鳴る。
その音が、前より少しだけ近い。
おばあちゃんは紙袋をひとつ立て、次に板を立て、その向こうに小さな箱を置いた。
いつもの練習用の並びだ。
でも今日は、そこに意味を置きすぎないように見えた。
「最初から当てようとするな」
おばあちゃんが言う。
「はい」
「きれいに流そうとするな」
「はい」
「途中で止めることを、失敗だと思うな」
ローリエは、そこで一度だけ深く頷いた。
頭の中で、いつもの癖がまだ顔を出す。
左をこうして、右をこうして、最後に整える。
その方がきれいだ。
その方が強そうだ。
その方が、読んだ形として気持ちがいい。
でも、その気持ちよさが、今まで何度も遅さになった。
ローリエは珠を選ぶ。
水色をひとつ。
茶色をひとつ。
軽い珠をひとつ。
本当なら、もうひとつ置きたくなる。
いつもの癖が、右の先を求める。
そこを、あえて空ける。
「そこでいい」
おばあちゃんがすぐに言う。
ローリエは弾いた。
パチ。
紙袋が揺れる。
板も浅く鳴る。
でも倒れない。
箱も動かない。
短い髪の子が、え、という顔をした。
「足りてないじゃん」
「足りてない」
ローリエは自分でもそう言いながら、次の珠へ指を伸ばした。
足りていない。
でも、その足りなさを前の負けのようには感じなかった。
今は、ここが途中だと自分で知っている。
次に置くのは、いつもの右端ではない。
ひとつ手前。
途中の継ぎ目。
上から。
止める。
弾く。
今度は、最初の揺れへ遅れて別の深さが乗る。
板が後ろへ傾き、箱の手前の空気が一度だけ押される。
結び目のゆるい髪の子が目を丸くした。
「あとから重くなった」
ローリエの胸の奥で、小さく何かが鳴る。
そうだ。
こういうことだ。
最初から完成させない。
先に半分だけ立てる。
そのあと、途中へ別の意味を足す。
きれいではない。
でも、動く。
「もう一回」
短い髪の子が身を乗り出す。
ローリエは今度、さらに崩した。
水色を先に置く代わりに、軽い珠をひとつ先へ出す。
そのあとで茶色を戻す。
本当なら逆だ。
でも今日は、その逆をそのまま使う。
弾く。
最初の一打は細く、何も起こらないように見える。
次で急に板の足元が鳴る。
三つ目で、袋が遅れて揺れる。
順番がきれいじゃない。
なのに、きれいじゃないからこそ、途中で拾われずに通る感じがあった。
ローリエは指を止めた。
頭の中で、部室の古い機械が光る。
想定通りに動かない画面。
ずれたまま落ちる形。
正しくないのに、結果として消える並び。
あの時、自分は無理に直さなかった。
ずれたまま使った。
そのずれを次で拾った。
ここでも同じだ。
正解をなぞるんじゃない。
今、動ける形を出して、そのあとで拾う。
「……そっか」
ローリエが呟くと、おばあちゃんが言う。
「何が」
「合わせるんじゃなくて」
ローリエはそろばんを見たまま続ける。
「ずれたまま、次で拾えばいいんだ」
短い髪の子が、よく分からない顔のまま、でも楽しそうに頷く。
結び目のゆるい髪の子は、じっとローリエの指を見ていた。
おばあちゃんは少しだけ目を細める。
「ようやく、機械の頭がこっちへ来たね」
その言い方に、ローリエは少しだけ笑った。
「前から来てたつもりだったんですけど」
「来とったよ。でも、整えすぎとった」
それは否定じゃない。
そのまま癖のことを言っている。
ローリエは息を吐き、今度はもっと大胆に崩した。
左に置くはずのものを、あえてひとつ後ろへ。
途中で切る。
次で広げる。
最後は置かない。
すると、見た目には半端な式になる。
紙の上に書いたら、赤で直されるような並びだ。
それでも、弾いた瞬間、流れは立つ。
最初の一打で袋が浅く揺れ、
次の一打で板がずれて、
最後の一打がないことで、逆に箱の手前に細い余りが残る。
ローリエはその余りを見た。
余り。
前なら嫌っていたもの。
きれいに回収できていない部分。
でも、その余りが、次の手のための持ち手になる。
「……未定義」
思わずその言葉が出た。
短い髪の子が聞き返す。
「なにそれ」
「まだ決めてないところ」
ローリエは答えながら、もう一度その余りを見る。
未完成。
途中。
切れ目。
余り。
全部、前までは失敗に近い顔をしていた。
でも今は違う。
次を置くための場所になっている。
「決めてないのに、いいの?」
結び目のゆるい髪の子がそっと言う。
「うん」
ローリエは頷いた。
「決めないまま動かすことも、たぶん必要なんだ」
それを言った瞬間、胸の奥で何かが少しだけほどけた。
今まで、自分は正しい答えが出てからでないと動きたくなかった。
正解の形が見えてからでないと、手を出したくなかった。
でも、古い機械はそんなふうには動かない。
たいていは、半端なところから始まる。
欠けた状態で、ひとまず起こす。
起こしてから、どこがおかしいかを見る。
見るために、先に動かす。
戦いも、同じなのかもしれない。
正解が見えてから置くんじゃない。
置いて、次で拾う。
拾いながら、制御していく。
「もう一段いけるかい」
おばあちゃんが言う。
ローリエは頷いた。
次は、わざと相手がいるつもりで置く。
最初の一打は見せる。
次で意味を変える。
最後は置くふりだけして、置かない。
フェイントではない。
未定義のまま残す。
珠を選ぶ。
水色。
軽い珠。
茶色。
さらに、その右へ指を伸ばして、止める。
置かない。
弾く。
最初の揺れは素直だ。
次でその揺れの向きが変わる。
本当なら最後に押し切るところを、押し切らない。
その結果、板だけが倒れる。
袋も箱もそのまま。
でも、途中の流れだけが机の上に残るような感覚がある。
おばあちゃんが小さく鼻を鳴らした。
「やっと、捨てられたね」
ローリエは少しだけ目を見開く。
捨てた。
そうかもしれない。
最後まできれいに取ることを、今、たしかに捨てた。
そのかわり、次へつながる途中を残した。
短い髪の子が笑う。
「前なら、絶対最後までやってた」
結び目のゆるい髪の子も頷く。
「なんか、今日は切り方がこわくない」
その言葉が、ローリエには少しうれしかった。
切ることは失敗じゃない。
見ている側にも、それが少し伝わった気がしたからだ。
そこへ、戸が鳴った。
ローリエが振り向くと、灰色の上着が見えた。
イオウだった。
黄緑寄りの明るい髪が、戸を閉めた拍子に揺れる。
いつものように少しだけ笑っている。
でも今日は、その笑いの先がすぐ机へ向かった。
「へえ」
短い声。
ローリエの手元を見る。
袋。
板。
箱。
そして、最後まで置かなかった珠の位置。
「まだ途中じゃん」
短い髪の子がすぐ言い返す。
「それでいいんだよ今日は」
イオウは少しだけ目を細める。
その目の速さが、前と同じようで少し違った。
「へえ」
今度の、へえ、は少しだけ深い。
「前よりうざくなりそう」
その言い方に、ローリエは少しだけ口元をゆるめた。
「褒めてる?」
「知らない」
イオウは肩をすくめ、壁へ寄りかかった。
すぐにはやらないらしい。
ただ見ている。
速い相手に見られながら、未完成の式を置く。
前なら、それだけで指が止まっただろう。
でも今日は、止まらなかった。
ローリエは次の珠を選ぶ。
最上位へひとつ。
その次を浅く。
右へ置きたくなる手を、一度だけ途中で止める。
止めて、そのまま別の位へ回す。
弾く。
浅い。
でも、その浅さが途中の流れをずらし、最後に置かれなかったはずの位置が、逆に見えない壁みたいになる。
イオウが壁際で小さく笑った。
「それ、嫌だな」
ローリエはその一言を聞いて、胸の奥で確かな手応えを感じた。
きれいではない。
完成でもない。
でも、相手の中に嫌さを立てられた。
それは、前へ出るための十分な一歩だった。
おばあちゃんが言う。
「制御ってのはね」
誰にともなく聞こえる声。
「従わせることだけじゃないよ」
ローリエは珠へ触れたまま、その続きを待つ。
「暴れ方を知っとくことも、制御じゃ」
その言葉は、古い機械にも、そのまま当てはまる気がした。
想定通りに動かないものを、まっすぐ矯正することだけが扱うことじゃない。
ずれるなら、ずれる幅を知る。
遅れるなら、遅れる場所を知る。
深く出るなら、その深さごと置き直す。
それも制御だ。
ローリエは、もう一度そろばんを見た。
重い子。
軽いはずなのに深く出る木枠。
扱いにくい、普通ではない道具。
でも、前より少しだけ遠くなくなった。
従わせるのではなく、暴れ方を知る。
その発想を持った瞬間、そろばんは急に敵ではなくなった。
面倒で、深くて、まだこわい。
それでも、触りようのあるものへ変わり始めた。
「もう一回」
ローリエが言う。
短い髪の子が、今度は楽しそうに笑う。
「今日は顔が違う」
結び目のゆるい髪の子も、そっと言う。
「前より、手が迷ってない」
それはきっと、全部を決めようとしていないからだ。
未定義のまま出す部分がある。
途中で止める場所がある。
次へ渡す余りを残している。
その分、今の手は少し軽い。
イオウは壁にもたれたまま、ローリエの手元を見ている。
「そのまま来たら、前よりはめんどい」
言い方は相変わらずだ。
でも、その言葉の中に、前とは違う重さが混じっている。
ローリエは深く頷かなかった。
ただ、次の珠を置いた。
夕方の店の中で、袋が揺れ、板が倒れ、箱がずれる。
何度も何度も、完璧ではない式が立ち上がる。
途中で切られ、次で拾われ、別の意味へ変わっていく。
ひとつひとつは未完成だ。
でも、その未完成の束の中に、前より確かな手触りがあった。
成長、という言葉はまだ少し遠い。
そんな立派なものには思えない。
ただ、今までは正解の後ろを追っていた手が、今日は少しだけ先に出た。
それだけだった。
それだけなのに、帰る頃には坂の風が少し違っていた。
町そのものは変わっていない。
看板も、用水路も、家々の影もそのままだ。
変わったのは、たぶん、ローリエの止まり方だった。
全部を決めてから動くのではなく、
動きながら決める。
その未定義の一手が、ようやく手の中へ入ってきたのだった。
コメント
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第12話、読ませていただきました。 古い機械が思うように動かない、その不完全さを「直さない」と決めたローリエの変化がとても心に残りました。「正しくないのに成立する」っていう感覚、わかる気がします。私も編集の仕事で、当初の設計通りにいかない原稿ほど、あとで不思議な魅力を帯びることがあるんですよね。 そろばんの前で「未定義の一手」を選ぶラスト、静かな力強さがあって、すごく好きです。イオウの「めんどい」という一言の中に認めるニュアンスが混ざっているのも、関係性の深まりを感じさせますね。素敵なエピソードをありがとうございました🌷