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ざわついた教室の空気。終わりかけた授業、立ち上がる椅子の音、雑な笑い声。
そのどれにも混ざらず、遥は窓際の席で、筆箱のチャックを閉じるふりをしていた。
動けないわけじゃない。
ただ、自分の存在が空気に溶けすぎていて、
何かをすれば「異物」になる気がしていた。
そのとき──
「……なあ、帰る?」
声がした。
見上げると、日下部が立っていた。
少し乱れた前髪、目がまっすぐに遥を見ていた。
(……なんで)
遥は、思わず息を詰めた。
日下部のその“まっすぐさ”が、いちばん苦しかった。
優しさでも、謝罪でもない。
ただ、遥という存在を「見ている」視線。
(そんなふうに、見るな)
でも、視線は逸らせなかった。
「……いいのか?」
ようやく出た声は、小さくて、少し濁っていた。
「なにが」
「……おれと、帰って」
「当たり前だろ」
「……また、巻き込まれるかも」
「もう巻き込まれてるよ」
「……バカじゃん」
「そう。だからバカでも離れない」
日下部はそう言って、少しだけ笑った。
遥は、何も返せなかった。
──その様子を、蓮司は見ていた。
教室の後方、鞄を肩にかけたまま、背中で黒板を支えるようにして立っていた。
口元には、いつもの薄笑い。
(距離を縮める。うん、それでいい)
(その“罰”が、濃くなるぶんだけ、面白いから)
「ねえ」
誰か──女子の一人が、遥の前に立った。
「ちょっといい?」
遥は、視線を動かすことすらためらいながら、顔を上げた。
女の子の目が、笑っていた。けれど──その笑みは、冷たかった。
「あんたが“かわいそう”なのは、あたしたちのせいなんでしょ?」
「……え?」
「そういう目してんじゃん。最近さ、日下部くんとかと一緒にいるとき、ちょっと“被害者っぽい”感じ出してるっていうか」
「ちが──」
「ちがうって言って、許されると思ってんの?」
女子の指が、遥の顎を指先で軽くはじいた。
その一瞬に、周囲がわずかに笑う。
「“同情されてる”って、そんなに嬉しいことなの? それとも、泣けば許されるって思ってんの?」
誰かが、遥の鞄を蹴った。中のノートが散らばる。
椅子の脚が、ぎい、と軋む音。
遥は動けなかった。
──日下部は、遥に手を伸ばそうとして、
その手を、ほんの一秒だけ躊躇した。
(おれが動けば、遥がもっと──)
だが、次の瞬間には動いていた。
「やめろよ」
その声は、はっきりしていた。
けれど、重く響くその一言は、
教室の空気をほんの一瞬だけ凍らせ──
次の瞬間、また別の熱を生んだ。
「なに? 正義感?」
「さすが、日下部くん」
「ねー、ヒーロー気取り?」
「遥のこと、好きなの?」
嘲笑が、音のように重なっていく。
遥は、それを見ていた。
そして──
(また……おれのせいだ)
そう思ってしまった。
日下部がどれだけ動いてくれても、
助けようとしてくれても──
そのすべてが「攻撃の材料」になってしまう。
(また、あいつまで……)
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく。
蓮司は、教室の後ろで腕を組んだまま、それを見ていた。
眉ひとつ動かさずに。
(いいね、いい。完璧)
(“おまえら”が近づけば近づくほど、
周囲は容赦なく、その距離を引き裂く)
(それが、“正しさ”として)