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せんたくのり
第3話▶︎動悸・同期・フォルティシモ/side柔太郎
保健室。
気持ちを落ち着けるために、目を閉じて一度小さく息を吐く。 扉を開ける前の、そのわずかな瞬間に。
昨日と同じ場所、同じ時間。
そして、いつもと同じように備品の補充や来室者がいれば対応する。
意を決して、保健室に足を踏み入れると、 空気も時間も見慣れた様子で、いつも通りを繰り返していた。
「柔太郎?」
いつも通りも束の間、名前を呼ばれて心臓が止まるかと思うほど驚いた。
カーテンの向こう、その声の主が”佐野勇斗”だとわかるだけで、心臓がもう一度強く跳ねる。
「びっくりした…なんでいるんですか」
「ひど」
少し笑ったその声が、空気にたちまち溶けていく。
閉められたカーテンで姿が見えなくて良かった。
「保健室だろ、ここ」
「そう…だけど」
真意を測りかねて、思わず眉間に皺がよる。
「今日も当番?」
「はい」
「えら」
昨日と同じ言葉なのに、なぜか今日はまっすぐ受け取れない。
「ベッド…どうぞ、使ってください」
事務的に言い残して、逃げるみたいに備品棚に向かう。 いつも通りがうまく思い出せない。
保健室が彼の気配に支配されているみたいだ。
「柔太郎」
名前を呼ばれて、一瞬、手が止まる。
「はい」
「敬語」
「…あ」
忘れていたわけじゃない。
むしろ、ずっと頭に残っていた、だけど。
「禁止だろ」
「急には…むずいよ…」
「できてるじゃん」
自然にタメ口になっている自分に驚いたが、満足したみたいに生徒会長は口元をゆるめた。
「こっち来て」
カーテンの向こうから、昨日と同じ言葉で呼ばれる。
「まだ仕事が…」
「来れるだろ」
有無を言わさぬその言い方を拒否できないのは、怖さだけじゃない。
俺はゆっくり立ち上がり、一歩ずつ近づいてカーテンの前で止まった。
「おいで」
静かな声。
手をかけて、少しだけカーテンを開ける。
そこで、視線が合う。
「…やることあるんだけど」
一瞬、間が落ちたあと、生徒会長が 少しだけ笑った。
「タメ語イイじゃん」
その一言が、やけに優しいから逃げられない。
「座れば」
ベッドの端を軽く叩かれる。昨日と同じ場所。
ゆっくり腰を下ろす。
近さを意識した瞬間、思考は鈍くなる。
「ね、柔太郎」
「え?」
「昨日さ」
低い声。
「なんで来たか、言ったよな」
覚えてる。忘れるわけがない。
「静かなとこ行きたくて、って」
「うん」
「で、お前だけならいいって」
言葉が目の前に落ちるたび、苦しくなっていく。
切実な目が、はっきり熱を帯びていくように。
「なんで…」俺なんだろう。
戸惑う言葉に生徒会長が少しだけ目を細める。
夕日に照らされた顔がやけに赤く見えた。
「気になる?」
「なるよ、そりゃ…」
否定できなかった。
一瞬の沈黙。
距離が、さらに近づく。
「他のやつじゃ、だめなんだよな」
静かに言われる。息が、かかりそうな距離。
「なんでかは、わかんないけど」
視線が、ぶつかり合う。
「お前がいい」
心臓が、強く鳴る。
「柔太郎」
名前を呼ばれて、 そのまま、袖を掴まれる。
昨日より、はっきりと意思を持った指先で。
「仕事は?」こちらを試す様な佐野勇斗の声。
「…後でやる」小さく答える。
その瞬間、指の力が少しだけ強くなる。
「不真面目」
少しだけ笑う。笑った顔はなんだか幼く見えた。
「なあ」
低い声。
「もう怖くない?」
ほんの少しの挑発を含んだ声。
でももう、昨日とは違う。
「怖く…ないよ」
答える。今度は、はっきりと。
一瞬の静寂
「そっか」
小さく、ため息みたいにこぼれる。
いつのまにか握られていた手は、まだ離れない。
むしろ、少しだけ引き寄せられる。
「じゃあさ」
声が、すぐ近くで落ちる。
「もう逃がさないけど」
冗談みたいに笑うくせに、指だけは、本気だった。
息が触れそうな距離。その曖昧な境界で、時間だけが止まる。何か言わないといけない気がするのに、言葉が出てこない。
代わりに、心臓の音だけがやけに大きい。
視線は絡んだまま、外せない。
「柔太郎」
名前を呼ばれるたびに、耳が甘く痺れる。
生徒会長の香りが、俺をその場に縫い付けてしまうみたいに、動けなくさせる。
「目、逸らすなよ」
囁くみたいな声で、少し角度をつける顔。
そのまま、スローモーションで距離が近づいて
——来る。
そう思った瞬間。
ガラッ、とドアが開く音。
「当番きてるかー?」
吉田先生の声。
一気に、現実に引き戻され、はっとして体が動く。
離れようとした、その瞬間、 袖が引かれる。
また。昨日と同じ。 でも、今度は離さないみたいに。
一瞬だけ、動きが止まる。
「先生きちゃったから」
小さく言っても、 それでも指は離れない。
夕日に照らされて、俺たちはいつのまにかおんなじ色に染まっていた。
「わかってる」
生徒会長は、いつも通りの表情で、どこか余裕がない声を出した。ほんの一拍遅れて、ようやく手が離れる。その感触だけが、強く残る。
ふたりの間に距離が空く。
カーテンの外に出ると、 止まってた時間が何もなかったみたいに、動き出す。廊下のざわめきが近い。
「あ、います」
できるだけ普通の声で返す。
一瞬遅れて、自分の声が少しうわずっていたことに気づく。
ドアに目を向けると、吉田先生は生徒に呼び止められ、立ち話をしていた。
「柔太郎」
小さく呼ばれる。だけど、振り向けない。
振り向いたら、情けない顔を見られてしまうから。
「後で生徒会室きてよ」
一拍。
「ね?」
短く放たれた言葉はそれだけ。
なのに、言葉の意味を考える前に、体が反応する。
心臓が、跳ねる。
「…行かないって言ったら」
一瞬の沈黙。
そのあと、くすっと笑う気配。
「来るだろ」
迷いなく断言する言葉。
「顔に出てる」
何も言い返せない。
「当番いるー?」
吉田先生の声に、はっとして前を向く。
「お、山中いるじゃん」
「はい」
なんとか平静を装う。
「一名、生徒がベッドで休んでます」
「ベッドに寝てるのは…また佐野?」
「あ、はい」
なんでもない風に返す。 それだけで精一杯だった。
さっきの距離も、声も、全部消えないままだから。
「じゃ、俺戻るわ」
間仕切りのカーテンが勢いよく開いて、急に生徒会長が上履きを履きながら出てきた。
まるで、何もなかったみたいに。
「佐野は家でちゃんと寝ろよ、お大事に」
吉田先生が笑う。
足音が近づく。すれ違う、一瞬。
「先に待ってる」
すれ違いざま、低く落とされる。
誰にも聞こえないくらいの声で。
そのまま通り過ぎる背中を見送って、
ドアが閉まる音でようやく現実に戻る。
——はずなのに。
袖に残る感触だけが、ずっと消えない。
あのとき、離れなかった指。
“先に待ってる”
その一言が、何度も頭の中で繰り返される。
行くか、行かないか。考えるまでもないのに。
夕日が痛いくらに差し込む保健室。
放課後というざわめきが少しずつ遠ざかっていく。
——『先に待ってる』
低い声が、何度も頭の中で繰り返される。
行かない理由はいくらでもあって、行く理由なんて、ひとつもないはずなのに。
「柔!」
保健室から出てきた俺に向かって、横から舜太の声が飛び込んできた。思わず肩が跳ねる。
「あかんわ、先生に質問しに行っててな、時間過ぎるの秒やったわ」
ニコニコと笑う顔は、夕日よりも眩しいくらいだ。
「そっか…」
舜太の顔を見て気が緩んだのも束の間、舜太はさらに矢継ぎ早に畳みかけてくる。
「柔はなにしとん、帰らんの?あ!もしかして俺をまっててくれたん?嬉しいなぁ!」
返事のタイミングが、わずかに遅れる。
「いや…」
口にした自分の声が、ほんの少し裏返ってしまったことに気づく。
「待ち合わせ、っていうか…」
俺の返事に舜太の目が、キラリと光る。
「ほー!誰と待ち合わせなんよ」
言葉が出ない。胸の奥で、鼓動ばかりが速くなる。
「いや!いわんでもわかるわ、やっぱ」
「わかんのかよ」
「柔、顔赤すぎるん、こっち見やんといてよ〜!俺まで顔が赤なってしまうやん。」
からかうように舜太は、 顔をかくした両手の指の間から俺のことをチラチラと見る。
「違わない、違わない、違わないけど、違うから」
「どんだけ違う言うねん、違い過ぎるやろ!」
言い訳のように口を動かすけれど、心臓の音は逃げ場を知らず暴れていた。
「好きな人がいるってまず素晴らしいからね」
舜太のその言葉と微笑みが小さな波紋のように胸に広がる。
軽やかに笑いながら去っていく舜太の背中を見送って、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ほんとはとっくに分かっていた気持ちと一緒に。
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