──────止まれ。
──────────止まれ。
────────────────止まれッ!
「────ッはあァ、!!」
大きく息を吸う。
先程の疾く鈍い鼓動も、笛のような音を出す呼吸も、その一つの深い吸気で治まった。
視界を蝕む黒い霧が消える。
一定の速度で波打つ鼓動に、私は安堵した。
刹那。
「ッ…!ゲホ!ゲホゴホッ!ゲホッ!」
強く咳き込む。私は顔をしかめて口元に手を寄せた。
咳が止まらない所為で、呼吸が上手くできない。
喘鳴。再び、笛のような音が聞こえた。
「ゲホッ!ゲホゲホッ!」
私は縁側に肘を付き、膝を立てて咳をする。
本当に、咳が止まらなかった。
──────ビチャッ……ビチャッビチャ…ッ!
変な音がする。手が濡れた。
厭な予感に、私は瞼を開ける。
「は?」
思わず声をもらした。
口からボタボタと血が溢れているのだ。
溢れた血は縁側の上に垂れ、手にはべっとりと血がついてる。
私は喀血した。
「____…」
呼吸が震える。
妖怪は人間ではないが、病に罹らない訳ではない。
人間が免疫力が落ちて病に掛かりやすくなるように、妖怪も妖力が少なくなれば病にも罹る。
其れに妖怪は全て妖力で出来ている。それ故妖力が完全に無くなれば死ぬ。
このように、妖力が減る事でデメリットが生じてしまうのだ。
妖怪が人間を喰らう理由──────其れは、食事では無い。
生きていく為に行う衝動である。
下級の妖怪ならば、妖力が減るとボウソウして人間を無差別に喰らう。
然し私のように上位種の妖魔ならば、理性は失わない。妖力を満たせるモノを摂取出来れば佳い。
だから私は、今まで“桜桃”を食べて来た。
私の妖力を浴び、妖力を帯びる桜桃を。
詰まり繰り返されているのである。雨が降る現象と同じだ。
然し、限界はある。
ソレが今だ。
「っ!ゲホッ!ゲホゴホッ!」
咳と共に血を吐き出す。
気持ちが悪かった。
苦しかった。
意識が────────遠のいていった。
『中也__。』
***
俺は木から桜桃を取って、持って来た籠に入れる。
太宰に云われた通り、俺はしっかりと大きな桃を取っていた。
大きな桃が、三四個籠に入っている。
「────ンしょッ…」持ち上げ、後ろに振り返った。「此ンくらいで佳いだろ」
籠に入った桜桃を眺め、俺は云う。
『___。』
「っ……!」
俺は後ろを向いた。
誰かに呼ばれた訳でもない。声も音も何も聞こえなかった。
只、自然と躰が動いた。
そして──────────。
「太、宰……?」
口先から言葉をこぼす。
一歩、前へと出た。
上半身の力が抜けたかのように、俺はゆっくりと両腕を下ろす。地面に籠が落ちて、桜桃が転がった。
然し、俺はそんな事如何でも佳かった。
真っ直ぐ、古民家の方向を眺める事しか出来なくなっていた。
土が被さるような音が響く。
俺の足音だった。
体重を前にかけるように、俺は少しふらついた足取りで前へと進む。
一歩。
また一歩。
足を踏み出し───────そして早めた。
「は…っ……はぁっ……はぁ………はっ………」
風が勢い良く頬に当たる。髪がなびいた。
俺は気が付いたら太宰が居る古民家の方へと走っていた。
何で走っているのか判らない。
何も考えられない。
只────────厭な予感がしたんだ。
草木を掻き分けて、俺は前へと進む。
疾く。
疾く。
広い処に出る。其処は庭だった。
「は、はっ……はぁ……は────太宰っ!!」
俺は太宰の名を呼ぶ。
目の前の光景に、俺は思わず息を呑んだ。
見開いた眼が小刻みに揺れ動く。
「だ……太宰…?」
唇が乾燥し、声が掠れていた。
太宰は、縁側の上に倒れていた。
どくん
鈍い鼓動が体中に響き渡る。警報。
俺は止まった足を動かして、太宰の元に駆け寄った。
「太宰──────────ッ!!?」
***
「太宰、大丈夫か?」
布団の上に横になる太宰に、俺は微温(ヌルマ)湯に浸けて絞った布を、額に乗せる。
氷嚢(ヒョウノウ)の代わりだ。
俺の言葉に、太宰が薄っすらと瞼を開く。
「ッ……ゲホッ……ち、中也………桃…を、取って来て…ゥ゙……ゲホゲホッ……くれないかい…?」
咳き込みながら、笛のような音の呼吸で太宰は云った。
何故か起き上がろうとしている。俺はそれを止めながら、
「桃…?何で今なんだよ、安静に………」
「食べないと、駄目なんだ………だから、疾く……っ、頼むよ」
太宰は俺が着ている着物を握り締める。
俺は顔をしかめて、「……判った」と云った。
出来るだけ食べやすいよう細かく切って、柔らかくした桃を御椀に入れて太宰の元へと持って行く。
匙で掬い、俺は太宰の口元へと寄せた。
「持って来たぞ、食えるか…?」
太宰は小刻みに躰を震わせながら、小さく口を開ける。
俺は匙を傾けて、太宰の口の中に桜桃を入れた。
「……ッ……ング…」
ごくん。
太宰の喉仏が上下に揺れる。喉を通った事が判った。
少しだが、太宰が食事できる事に俺は安堵する。
刹那、
「ッ!?────ゲホッ!ゲホッゴホッ!ヴ…ッエ…」
口元に手を寄せて、咳と共に太宰が吐き出した。
血と、先刻食べた桃に胃液。
「太宰ッ!?大丈夫か!?」
俺は太宰の背中を撫でる。
其れしかできなかった。
何も出来ない事に、俺は顔をしかめる。
「ゲホッ……ゲホゲホッ────ハ…ヵ、ヒュ……ヒュー」
咳が止まると、太宰の呼吸音が笛のような音に聞こえた。
何だコレ………。
「だ、太宰…っ……大丈夫か…?」
何で……こう尋ねる事しかできねェ。
何で太宰が苦しんでるのを見る事しかできねェ。
「はぁ……は、ッ…………大…丈夫、だよ…?」
まるで俺を安心させるように、ニコッと笑って太宰は云った。
然し顔色は悪く、声が掠れている。
「っ………」
俺は顔をしかめて、拳を固く握り締めた。
この儘、太宰が死んだら……?
この儘、病気が治らなかったら……?
太宰の様子が変なのは薄々判ってた。感じ取ってた。
なのに、なんで其れを深く追求しなかった…?
躰の具合が悪い事を、何で太宰は俺に云ってくれなかったんだ。
俺は、ちゃんと太宰の事大切に想ってるのに……。
大事な家族なのに……。
「っ────太宰は、違うのか…な……?」
瞳の奥から何かが込み上げてきた。
──────お願いだから、私の傍から離れないで。
アレは……愛じゃねェのか…?
***
俺は眠っている太宰の躰が冷えないよう、肩まで掛け布団を上げる。
「………………」
伝統──────と云っても間違いでは無いが、俺の村では薬師としての知識が受け継がれている。
実際に薬作る事はあまり無いが、村の住民全員が薬を調合した経験はある。
理由は、村を作った俺達の祖先の殆どが、薬師または薬師見習いばかりだったからだ。
けれど、この山に実る桃は特別で、どんな怪我も病気も直ぐに治る。
其の為、薬師としての存在は無意味になって行った。然し先祖代々の職業を放棄する事を村人は固く非難し、其の知識を受け継ぐ事に決めた。
其れ故、俺は或る意味【薬師見習い】程度の知識は持っている。
だからこそ判るんだ。
「は……はっ……は──────ッ!ゲホッ…!」
太宰の顔には汗がびっしりと浮かび上がっている。魘されていた。
咳。
高熱。
喀血。
寝汗。
体重減少。
その症状は、或る病気に合致した。
本当に中っているか判らない。間違いかもしれない。
でも俺の脳には、その病名しか浮かび上がらなかった。
労咳。別名──────肺結核。
「………ッくそ…」
俺は顔をしかめて拳を固く握り締める。
労咳には治療薬が存在しない。詰まり、罹ったら終わり。正に不治の病だ。
薬がない労咳の唯一の治療法。
それは────
俺は立ち上がって縁側の方へ行く。障子を開けた。
それは、大気安静療法。
出来るだけ新鮮な空気を吸えるように。安静にさせる療法だ。
裏を返せば、“何もしない”。
そう、俺は──────何も出来ない。
「…………」
太宰の枕元に戻り、正座する。
傍に居る事しか、俺ができる事は無かった。
刹那、太宰が乾燥した唇を動かす。何かを云っていた。
「太宰ッ…?如何した…!?」
俺は太宰の傍に寄る。太宰の瞳が俺を移した。
そして
「ッ─────!」
太宰は起き上がって、しがみつくように俺を抱きしめた。
「ぇ、だざ…」
「もう……ッ、」
掠れる声で太宰が云う。
「何処にも行かないで……」
声が、震えていた。
泣いてる……?
「オイ、太宰……?」
俺は太宰に声をかけると、まるで離さないとでも云うように、俺を強く抱きしめた。
思わず目を見開く。
先刻の言葉は、如何云う意味なんだ…?
俺は、何処にも行ってないのに。
それとも、また“彼”への言葉なのか。
「………」
俺は其奴を知らない。
でも、何で其奴の事ばっかなんだよ……。
俺が……居るだろ…?
「────っ」
顔をしかめる。
俺に触れる太宰の肌が熱かった。
息を吸う。
そして俺は云った。
「……俺は、何処にも行かねェよ」
──────手前は俺を見ていながら、俺の面影に見える誰かを見てるンだろうな。
コメント
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あ~ぁ(T ^ T) 太宰さんがぁ! 死なないでねッ!? 面白かった!
最高だネ☆ え、もしかして中也ちゃん嫉妬してr((中也のお得意重力潰し☆ 太宰さんって風邪?とか体調不良とかになったら甘えてきそうだよね…それがまた可愛い💓💞 今回も神作だったよ〜!🫶