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教室の空気が歪んでいた。
笑い声はある。
誰かが何かを言って、周囲が反応して、
それは“ただの冗談”のように見える形で繰り返される。
だが──
(違う)
日下部の内側では、確実に何かが削れていた。
耳の奥で、誰かが遥を笑っている。
いや、遥じゃない。
“俺”のことを笑ってる。
(俺が、ちゃんと動かなかったからだ)
その思考が一度芽生えると、
あとは加速度的に、すべてが自分の罪に見えてくる。
遥は、背中を晒していた。
ただの制服の布地が乱れただけなのに、
そこに、どうしようもない“痛み”が刻まれているのが分かった。
(何をしてるんだ、俺は)
身体は強張っていた。
声も出なかった。
ただ、拳だけがゆっくりと震えていた。
──その震えを、誰かが見ていた。
蓮司だった。
飄々と笑うその顔には、何の敵意も感情もない。
けれど、まるで観察者のように、
教室の“変化”を見定めていた。
「……日下部、マジで何もしないんだ」
「引いた。てか、もう引いたってかんじじゃない?」
「好きだったのにねー遥のこと。“元”だけど」
「“あの程度のために黙ってる”とか……ねぇ?」
──誰が言ったのか、もう分からない。
女子のひとり。いや、複数。
でも、それは“蓮司が言わせた”ものではない。
空気が、そう喋らせている。
日下部の視界が霞んだ。
頭の中で、ずっと同じ言葉が回っていた。
(──遥が、俺のせいで)
吐きそうだった。
それでも、笑っているやつがいる。
蓮司は、なにもしていない。
けれど、“ここにいて笑っている”だけで、
教室はもう──元には戻らなかった。
席に戻っても、遥は何もできなかった。
肩にかけ直した制服の襟が、妙に湿っている。
背中に何かが書かれている気がして、
でも確かめる勇気がなかった。
筆記用具は出してあるのに、
手は動かない。
黒板の文字が、どこにも入ってこない。
(誰かを見ないようにすると、誰かに見られている)
その感覚が、ずっと消えない。
耳の奥がしゅうしゅうと鳴る。
教室の温度が急に下がったような気がした。
それなのに、額の汗だけが止まらなかった。
(でも──これでいいんだ)
自分が、罰を受けてる。
だから、これでいい。
日下部が何か言われるくらいなら、
自分が全部受ければいい。
(そうすれば、いつか──)
「許される」なんて、思っていない。
ただ、“壊すことをしない自分”でいたい。
でも──
今の日下部の顔。
声も出せず、何も言わず、
それでも明らかに“自分のせいだ”と思っていたあの顔を見たとき──
(違う。違うんだ)
遥の中の“罰の論理”が、静かに崩れはじめていた。
(俺は……誰を、守ってる?)
昼休み。
机の下に押し込まれたノートには、
また文字が書かれていた。
「見せつけんなって、気持ち悪い」
誰の筆跡かも分からない。
けれど、それは明らかに──遥に向けられたものだった。
その頃、日下部の机の上には、
コンビニのチョコ菓子が一つ。
包装紙には油性ペンでこう書かれていた。
「ごほうび♡」
誰も見てないようで、全員が見ている。
それが、何を意味するか──わからないわけがなかった。
蓮司はその日、教室の隅で頬杖をついていた。
話しかけることはしない。
ただ、“見ている”。
遥と日下部、
どちらが先に「限界」を超えるか。
どちらが“先に”壊れるのか。
その予感を──楽しんでいる目だった。
「ねえ、どっちが先に泣くと思う?」
蓮司がふと呟いた声に、
近くにいた女子がふっと笑って、答える。
「……遥でしょ。あの子、そういう顔してる」
「ちがうよ、日下部。ああいうやつの方が、最後に爆発するんだって」
蓮司は、どちらの声にも笑わず、
ただひとつ、答えた。
「──どっちも、いっぺん死ぬくらいがいいんじゃない?」
その言葉は、
誰にも届かなかった。
けれど、“空気”だけが、しっかりと記憶していた。