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比較的最近のことだ。
季節は夏の終わり。蝉の声が細くなり、空気の縁だけが夜の側へ少しずつ傾き始めていた。
湖へ向かうバスは、車体の横に観光地のイラストを貼りつけ、窓のゴムは熱で少し溶けたように波打っている。
車内の天井の送風口から出る風は弱く、プラスチックの匂いに人間の汗の匂いを混ぜ、微妙に甘い。
私は、立てかけた案内板の地図を見上げ、指で湖の輪郭をなぞった。青い曲線は簡素すぎて、実際の深さを伝えない。紙の青は、沈まない。
終点の停留所で降りると、売店がひとつだけあった。
かき氷の旗、色褪せた観光パンフレット、冷えの足りないガラスケース。
売店の奥には小さな祠があり、古い鈴の縄はほつれていた。鈴を鳴らす人の手がもうあまり来ないのだろう。
私は水を買い、キャップを開けた。ボトルの口から出てくる冷気は、飲む前から喉を冷やす。
口に含むと、水はたしかに冷たいのに、味は生ぬるかった。湖の近くでは、冷たいものがぬるく感じられる──そんな気がする。
案内役をしてくれたのは、水穂という若い女性だった。
観光協会のバイトだと、自分で言った。
白い帽子のつばを指で押さえ、歩き出すときの歩幅が一定で、地面の段差を足首で吸収する動きに無駄がない。
彼女はよく話した。湖の歴史、堤の構造、春先の水位変動、魚の種類、夜間の立入制限の厳しさについて。
話の内容は軽く流れるのに、視線は足元と遠くを素早く往復する。
私はその後ろ姿の輪郭に、ふいに昔の影を重ねた。
肩にかかる髪の線、背筋の伸び方、まっすぐな足取り。あの頃、空き地から廃屋に向かうときの、さえの背中に似ていた。
湖畔の遊歩道は整備されすぎていて、音が寂しかった。
舗装は新しく、靴底が鳴らす音を吸い込まずに返す。そのせいで、私の歩幅が他人に聞こえる。
風は水面を撫で、銀色の鱗のような小さな皺を無数に作り、それを消し、また作った。
陽は高すぎず低すぎず、山の稜線はくっきりと切り絵のように立ち上がる。
ところどころに木の影が落ち、誰かの笑い声が時折届き、すぐに水の広い反響に溶ける。
笑い声は、どの景色にも似合うが、溶ける速さで場所の性質がわかる。ここでの笑いは、早く消えた。
「この先に、ちょっと面白い場所があるんです」
水穂が言った。
振り返った顔は日焼けの手前で、目尻にだけ薄い皺が寄っている。
「立入禁止なんですけど」
彼女は笑って、私の返事を待たなかった。
言い終えてから歩き出す人は、ルールの重さを知っている。言い出しながら歩く人は、重さを自分で背負えると信じている。
彼女は後者に見えた。
遊歩道を外れると、舗装のざらつきが消え、細かな砂利と湿った土が靴の底にまとわりついた。
草の匂いが濃くなり、そこに鉄と油の匂いがかすかに混ざる。
古いフェンスが現れた。支柱は赤茶色の錆に覆われ、網はところどころ歪んでいる。
「ここから先は、ほんとはダメなんですけどね」
彼女はフェンスの下の切れ目をくぐり、身をひねって向こうへ出た。
私は姿勢を落として後に続いた。金属の匂いが強くなり、指の腹に錆の粉が移る。
フェンスの向こう側は、整備の対象から外れていた。
草は短く刈られず、風の通り道だけが倒れて道の形を教えた。
湖の放水路は、コンクリートの溝が水面へ向かって落ち込んでいる。
縁に近づくと、温度が一段下がった。
水面は暗く、緑に濁っているようでいて、その下にもっと重い色があるのがわかる。
底という言葉は、ここでは地形ではなく、色の層のことを指す。
風が止んだ。
湖面の皺がほどけ、突然、鏡になった。
空が映り、雲が映り、その間を滑るように光が移動する。
そのときだった。
赤い何かが、水の奥で揺れていた。
最初は目の錯覚だと思った。
人間の網膜は、強い光の後で補色を作る。青と緑の反射のあとには、赤が立ち上がる。
だが、揺れは補色より遅く、形は補色より執拗だった。
赤は、細い糸の束のようになって現れ、ほどけ、集まり、また形になろうとしていた。
手のようにも、髪のようにも、長い布の端のようにも見えた。
水の中のものは、陸の上の概念で正しく呼べない。正しく呼べないものは、こちらのほうへ寄ってくる。
「見えます?」
水穂の声が背後から落ちてきた。
彼女の陰が私の足元に重なり、縁の影が二重に濃くなる。
私は視線を外さないように、額の筋肉を固めた。目を閉じるのは簡単だが、再び開けたときに別のものが映る。その変化のほうが怖い。
赤は、また形を変えた。
まるで誰かが水面の下で手招きしているみたいに。
耳の奥で、低い音がする。
放水の唸りでも、風でもない。
空気ではなく、体液で伝わるような種類の低音。
その音に、笑い声が混ざる。
子供の笑い声。
遠いのに、すぐそば。
私は知っている、と直感した。
あの廃屋の赤い埃の中で聞いた、あのときの笑いだ。
記憶の中の笑いは、いつも実物より少し明るい。
水の下の笑いは、実物より少し冷たい。
水穂は縁にさらに身を乗り出した。
つま先がコンクリートの角にかかり、膝がわずかに揺れる。
私は手を伸ばすべきだったのかもしれない。
伸ばさなかったのかもしれない。
記憶はここで二重になる。
伸ばした手の感触と、伸ばさなかった手の軽さが、同じところに残る。
どちらかが真実で、どちらかが虚構だ。
だが、どちらも同じ重さで今の私の肩に乗っている。
赤は、水面に近い位置でふっと薄くなり、縁の影と溶け合った。
その瞬間、周囲の色がすべて赤の側へ寄った。
緑の濃さが一段引き、灰色のコンクリートがわずかに温かく見え、空の白が薄い桃色の膜をかぶる。
視界は、ゆっくりと、しかし確実に、赤に傾いた。
次に意識がはっきりすると、私は放水路の縁に立っていた。
足元は乾いており、靴は濡れていなかった。
指先にも、袖口にも、水の感触はない。
水穂の姿は、なかった。
湖面は穏やかで、風は戻り、皺はまた鱗のように無数に生まれては消えた。
赤は消えていた。
笑い声も途切れていた。
だが、耳の奥のどこかに、鈴のような残響がひとつ残っていた。
鈴というより、瓶の口を湿った指でなぞる音。
あれを言葉にすれば、すぐに壊れる。
壊れた音は、二度と元に戻らない。
私はその場を離れず、周囲のものを順番に観察した。
フェンスの切れ目──金属の向こうに草の繊維。
縁のコンクリート──角に小さな欠け、そこに赤茶色の錆の粉。
足元の土──乾いている。粒が細かく、靴底にわずかに貼りつく。
コンクリートの表面には水の反射がゆれているが、赤はどこにも見えない。
水の匂いは、少し藻の香りが強くなっていた。
匂いは変化を先に知らせる。見える前に、匂う。
私は手首の内側に指を当て、脈を数えた。
早くはない。
恐怖は、すでに形を失っている。
形のない恐怖は、楽だ。何に用心すればいいのか、決めなくていい。
私は、その場で携帯電話を取り出し、水面を数枚撮影した。
画面には、緑と灰色と白しか写らない。
撮れないものは、あとで増える。
写真は、事実を記録するのではなく、あとで嘘を育てるための土になる。
私は数枚のうちの一枚を消し、残りを無言で保存した。
放水路の縁を離れ、フェンスの内側を迂回し、管理棟のほうへ歩いた。
コンクリートの四角い建物は、昼間でも薄暗く見え、窓は反射で外しか映さない。
立入禁止の立札、巡回時間の表、緊急時の連絡先。
管理棟の壁には、過去のダムの水位を示すプレートが打ち付けられ、年号と日付が刻まれている。
数字は冷たい。
冷たい数字は、安心させる。
安心に触れると、人はうっかり目を閉じる。
私は扉に耳を当てた。
中は静かだ。機械の低い唸りも、扇風機の回る音も聞こえない。
建物の陰に回り込むと、換気口があり、湿った空気が外へ吐き出されている。
その空気は、昼の匂いをしていなかった。
夜の匂いでもない。
たっぷり水を含んだ布の匂い。
それが、どこから来ているのかは、私は考えないことにした。
フェンスを戻り、遊歩道へ出ると、人影が増えていた。
子供が走り回り、親がそれを追い、カメラを向ける人がいて、犬が吠えた。
世界は、さっきと何も変わっていない。
変わっていないことは、証明できない。
変わったかどうかは、名が呼ばれたかどうかだけで判定できる。
名は呼ばれなかった。
駐車場の脇に、観光協会の案内所があり、風鈴が三つ吊るされていた。
風は弱く、鳴らない。
鳴らない風鈴は、見える音になる。
音が見えるとき、人は安心する。
安心は、記憶に穴をあける。
私はベンチに腰を下ろし、手の甲を見た。
赤い糸のようなものが一本だけ付着していた。
糸というより、細い筋。
光にかざすと、黒ではなく、赤黒かった。
指先で触れると、ぬるりと溶け、皮膚に染み、消えた。
匂いは、ほとんどない。
ほとんど、という言葉は、嘘のための緩衝材になる。
匂いがない、と言い切る代わりに、ほとんど、と言えばいい。
それで、世界は壊れない。
私は、売店に戻り、水をもう一本買った。
レジの隣に、古い新聞の切り抜きが掲示されている。
昔、この湖ができた頃の記事らしい。
沈んだ村、移転した神社、移された墓。
写真の中の人々は笑っていた。
笑顔は、記録のために作られる。作られた笑顔は、未来のための仮面だ。
仮面の下の顔は、誰にも写らない。
匿名の観光客が私の肩をかすめ、通り過ぎていく。
誰も、何も、私には訊かない。
訊かれない、ということは、語らなくてよいということだ。
語らない、ということは、なかったことに近い。
近い、というのは、同じではない。
私は、ベンチに戻って、靴ひもを結び直した。
靴は乾いている。
膝に残る砂の粉が、指先に移る。
ポケットの内側に入れていた鍵が、動くたびに小さく鳴る。
金属の音は、心を呼び戻す。
呼び戻された心は、すぐにまたどこかへ行きたがる。
ここは、どこかへ行く前の場所だ。
日が傾き始め、湖の色が変わった。
昼の青は浅くなり、緑が増し、重くなった水は新しい面を作る。
その面に、赤が少し混ざる。
夕日の赤ではない。
水底の赤だ。
赤は、ここでは、酸素の少なさの色であり、時間の沈殿の色であり、呼吸の届かない場所の色だ。
呼吸が届かない場所に、声はとどく。
声が届くのに、言葉は届かない。
言葉が届かない場所で、笑いだけが残る。
笑いは、軽いから。
私は、携帯電話の画面に写った湖面の写真を、ひとつずつ見直した。
どれも、同じだ。
緑、灰、白。
赤はない。
赤がないことは、証拠にならない。
赤が写らない機械が、世界を決める。
決められた世界に、私はうまく馴染む。
馴染むという言葉は、便利だ。
罪悪感を、手の中で丸めるのに、ちょうどいい。
湖の向こうで、堤の上に人の影が並ぶ。
夕暮れが近い合図のサイレンが、一度だけ鳴った。
山に反響し、湖面に落ち、波紋のように広がって、消えた。
サイレンの音は、どこにも触れない。
触れないものは、美しい。
美しさは、記憶の一番上に置かれる。
一番上にあるものは、すぐに剥がれる。
剥がれたあと、下に何があったのか、誰も見ない。
私は立ち上がり、もう一度だけフェンスのほうを見た。
切れ目には誰もいない。
草の倒れ方が、先ほどと少し違って見えた。
違って見える、という事実は、何の役にも立たない。
役に立たないものだけが、真実に近い。
人は、役に立つものしか信じない。
信じられたものは、早く消える。
帰りのバスは、少し遅れた。
車内の照明は弱く、窓ガラスの向こうで湖が黒くなっていく。
私の座席の前の金属のポールには、爪の跡のような細い傷が一本ついていた。
人間は、移動の間に、自分の形をどこかに残したがる。
残した形が、次に来る誰かの指に触れる。
指は、記憶の温度を持っていない。
温度を持たない記憶は、確かだ。
水底の色は、夕日の赤とは違う。
それは沈んでなお息をしている色だ。
沈むものは、少しだけ膨らむ。
膨らむと、音が変わる。
変わった音だけが、私の耳に残る。
……あんたも、あの色を見たらきっと好きになる。沈む瞬間が、いちばんきれいだから。