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有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)

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有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)

6 - 第6話 水底の声

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2025年08月15日

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比較的最近のことだ。
季節は夏の終わり。蝉の声が細くなり、空気の縁だけが夜の側へ少しずつ傾き始めていた。

湖へ向かうバスは、車体の横に観光地のイラストを貼りつけ、窓のゴムは熱で少し溶けたように波打っている。

車内の天井の送風口から出る風は弱く、プラスチックの匂いに人間の汗の匂いを混ぜ、微妙に甘い。

私は、立てかけた案内板の地図を見上げ、指で湖の輪郭をなぞった。青い曲線は簡素すぎて、実際の深さを伝えない。紙の青は、沈まない。


終点の停留所で降りると、売店がひとつだけあった。

かき氷の旗、色褪せた観光パンフレット、冷えの足りないガラスケース。

売店の奥には小さな祠があり、古い鈴の縄はほつれていた。鈴を鳴らす人の手がもうあまり来ないのだろう。

私は水を買い、キャップを開けた。ボトルの口から出てくる冷気は、飲む前から喉を冷やす。

口に含むと、水はたしかに冷たいのに、味は生ぬるかった。湖の近くでは、冷たいものがぬるく感じられる──そんな気がする。


案内役をしてくれたのは、水穂という若い女性だった。

観光協会のバイトだと、自分で言った。

白い帽子のつばを指で押さえ、歩き出すときの歩幅が一定で、地面の段差を足首で吸収する動きに無駄がない。

彼女はよく話した。湖の歴史、堤の構造、春先の水位変動、魚の種類、夜間の立入制限の厳しさについて。

話の内容は軽く流れるのに、視線は足元と遠くを素早く往復する。

私はその後ろ姿の輪郭に、ふいに昔の影を重ねた。

肩にかかる髪の線、背筋の伸び方、まっすぐな足取り。あの頃、空き地から廃屋に向かうときの、さえの背中に似ていた。


湖畔の遊歩道は整備されすぎていて、音が寂しかった。

舗装は新しく、靴底が鳴らす音を吸い込まずに返す。そのせいで、私の歩幅が他人に聞こえる。

風は水面を撫で、銀色の鱗のような小さな皺を無数に作り、それを消し、また作った。

陽は高すぎず低すぎず、山の稜線はくっきりと切り絵のように立ち上がる。

ところどころに木の影が落ち、誰かの笑い声が時折届き、すぐに水の広い反響に溶ける。

笑い声は、どの景色にも似合うが、溶ける速さで場所の性質がわかる。ここでの笑いは、早く消えた。


「この先に、ちょっと面白い場所があるんです」

水穂が言った。

振り返った顔は日焼けの手前で、目尻にだけ薄い皺が寄っている。

「立入禁止なんですけど」

彼女は笑って、私の返事を待たなかった。

言い終えてから歩き出す人は、ルールの重さを知っている。言い出しながら歩く人は、重さを自分で背負えると信じている。

彼女は後者に見えた。


遊歩道を外れると、舗装のざらつきが消え、細かな砂利と湿った土が靴の底にまとわりついた。

草の匂いが濃くなり、そこに鉄と油の匂いがかすかに混ざる。

古いフェンスが現れた。支柱は赤茶色の錆に覆われ、網はところどころ歪んでいる。

「ここから先は、ほんとはダメなんですけどね」

彼女はフェンスの下の切れ目をくぐり、身をひねって向こうへ出た。

私は姿勢を落として後に続いた。金属の匂いが強くなり、指の腹に錆の粉が移る。


フェンスの向こう側は、整備の対象から外れていた。

草は短く刈られず、風の通り道だけが倒れて道の形を教えた。

湖の放水路は、コンクリートの溝が水面へ向かって落ち込んでいる。

縁に近づくと、温度が一段下がった。

水面は暗く、緑に濁っているようでいて、その下にもっと重い色があるのがわかる。

底という言葉は、ここでは地形ではなく、色の層のことを指す。


風が止んだ。

湖面の皺がほどけ、突然、鏡になった。

空が映り、雲が映り、その間を滑るように光が移動する。

そのときだった。

赤い何かが、水の奥で揺れていた。


最初は目の錯覚だと思った。

人間の網膜は、強い光の後で補色を作る。青と緑の反射のあとには、赤が立ち上がる。

だが、揺れは補色より遅く、形は補色より執拗だった。

赤は、細い糸の束のようになって現れ、ほどけ、集まり、また形になろうとしていた。

手のようにも、髪のようにも、長い布の端のようにも見えた。

水の中のものは、陸の上の概念で正しく呼べない。正しく呼べないものは、こちらのほうへ寄ってくる。


「見えます?」

水穂の声が背後から落ちてきた。

彼女の陰が私の足元に重なり、縁の影が二重に濃くなる。

私は視線を外さないように、額の筋肉を固めた。目を閉じるのは簡単だが、再び開けたときに別のものが映る。その変化のほうが怖い。

赤は、また形を変えた。

まるで誰かが水面の下で手招きしているみたいに。


耳の奥で、低い音がする。

放水の唸りでも、風でもない。

空気ではなく、体液で伝わるような種類の低音。

その音に、笑い声が混ざる。

子供の笑い声。

遠いのに、すぐそば。

私は知っている、と直感した。

あの廃屋の赤い埃の中で聞いた、あのときの笑いだ。

記憶の中の笑いは、いつも実物より少し明るい。

水の下の笑いは、実物より少し冷たい。


水穂は縁にさらに身を乗り出した。

つま先がコンクリートの角にかかり、膝がわずかに揺れる。

私は手を伸ばすべきだったのかもしれない。

伸ばさなかったのかもしれない。

記憶はここで二重になる。

伸ばした手の感触と、伸ばさなかった手の軽さが、同じところに残る。

どちらかが真実で、どちらかが虚構だ。

だが、どちらも同じ重さで今の私の肩に乗っている。


赤は、水面に近い位置でふっと薄くなり、縁の影と溶け合った。

その瞬間、周囲の色がすべて赤の側へ寄った。

緑の濃さが一段引き、灰色のコンクリートがわずかに温かく見え、空の白が薄い桃色の膜をかぶる。

視界は、ゆっくりと、しかし確実に、赤に傾いた。


次に意識がはっきりすると、私は放水路の縁に立っていた。

足元は乾いており、靴は濡れていなかった。

指先にも、袖口にも、水の感触はない。

水穂の姿は、なかった。


湖面は穏やかで、風は戻り、皺はまた鱗のように無数に生まれては消えた。

赤は消えていた。

笑い声も途切れていた。

だが、耳の奥のどこかに、鈴のような残響がひとつ残っていた。

鈴というより、瓶の口を湿った指でなぞる音。

あれを言葉にすれば、すぐに壊れる。

壊れた音は、二度と元に戻らない。


私はその場を離れず、周囲のものを順番に観察した。

フェンスの切れ目──金属の向こうに草の繊維。

縁のコンクリート──角に小さな欠け、そこに赤茶色の錆の粉。

足元の土──乾いている。粒が細かく、靴底にわずかに貼りつく。

コンクリートの表面には水の反射がゆれているが、赤はどこにも見えない。

水の匂いは、少し藻の香りが強くなっていた。

匂いは変化を先に知らせる。見える前に、匂う。


私は手首の内側に指を当て、脈を数えた。

早くはない。

恐怖は、すでに形を失っている。

形のない恐怖は、楽だ。何に用心すればいいのか、決めなくていい。


私は、その場で携帯電話を取り出し、水面を数枚撮影した。

画面には、緑と灰色と白しか写らない。

撮れないものは、あとで増える。

写真は、事実を記録するのではなく、あとで嘘を育てるための土になる。

私は数枚のうちの一枚を消し、残りを無言で保存した。


放水路の縁を離れ、フェンスの内側を迂回し、管理棟のほうへ歩いた。

コンクリートの四角い建物は、昼間でも薄暗く見え、窓は反射で外しか映さない。

立入禁止の立札、巡回時間の表、緊急時の連絡先。

管理棟の壁には、過去のダムの水位を示すプレートが打ち付けられ、年号と日付が刻まれている。

数字は冷たい。

冷たい数字は、安心させる。

安心に触れると、人はうっかり目を閉じる。


私は扉に耳を当てた。

中は静かだ。機械の低い唸りも、扇風機の回る音も聞こえない。

建物の陰に回り込むと、換気口があり、湿った空気が外へ吐き出されている。

その空気は、昼の匂いをしていなかった。

夜の匂いでもない。

たっぷり水を含んだ布の匂い。

それが、どこから来ているのかは、私は考えないことにした。


フェンスを戻り、遊歩道へ出ると、人影が増えていた。

子供が走り回り、親がそれを追い、カメラを向ける人がいて、犬が吠えた。

世界は、さっきと何も変わっていない。

変わっていないことは、証明できない。

変わったかどうかは、名が呼ばれたかどうかだけで判定できる。

名は呼ばれなかった。


駐車場の脇に、観光協会の案内所があり、風鈴が三つ吊るされていた。

風は弱く、鳴らない。

鳴らない風鈴は、見える音になる。

音が見えるとき、人は安心する。

安心は、記憶に穴をあける。


私はベンチに腰を下ろし、手の甲を見た。

赤い糸のようなものが一本だけ付着していた。

糸というより、細い筋。

光にかざすと、黒ではなく、赤黒かった。

指先で触れると、ぬるりと溶け、皮膚に染み、消えた。

匂いは、ほとんどない。

ほとんど、という言葉は、嘘のための緩衝材になる。

匂いがない、と言い切る代わりに、ほとんど、と言えばいい。

それで、世界は壊れない。


私は、売店に戻り、水をもう一本買った。

レジの隣に、古い新聞の切り抜きが掲示されている。

昔、この湖ができた頃の記事らしい。

沈んだ村、移転した神社、移された墓。

写真の中の人々は笑っていた。

笑顔は、記録のために作られる。作られた笑顔は、未来のための仮面だ。

仮面の下の顔は、誰にも写らない。


匿名の観光客が私の肩をかすめ、通り過ぎていく。

誰も、何も、私には訊かない。

訊かれない、ということは、語らなくてよいということだ。

語らない、ということは、なかったことに近い。

近い、というのは、同じではない。


私は、ベンチに戻って、靴ひもを結び直した。

靴は乾いている。

膝に残る砂の粉が、指先に移る。

ポケットの内側に入れていた鍵が、動くたびに小さく鳴る。

金属の音は、心を呼び戻す。

呼び戻された心は、すぐにまたどこかへ行きたがる。

ここは、どこかへ行く前の場所だ。


日が傾き始め、湖の色が変わった。

昼の青は浅くなり、緑が増し、重くなった水は新しい面を作る。

その面に、赤が少し混ざる。

夕日の赤ではない。

水底の赤だ。

赤は、ここでは、酸素の少なさの色であり、時間の沈殿の色であり、呼吸の届かない場所の色だ。

呼吸が届かない場所に、声はとどく。

声が届くのに、言葉は届かない。

言葉が届かない場所で、笑いだけが残る。

笑いは、軽いから。


私は、携帯電話の画面に写った湖面の写真を、ひとつずつ見直した。

どれも、同じだ。

緑、灰、白。

赤はない。

赤がないことは、証拠にならない。

赤が写らない機械が、世界を決める。

決められた世界に、私はうまく馴染む。

馴染むという言葉は、便利だ。

罪悪感を、手の中で丸めるのに、ちょうどいい。


湖の向こうで、堤の上に人の影が並ぶ。

夕暮れが近い合図のサイレンが、一度だけ鳴った。

山に反響し、湖面に落ち、波紋のように広がって、消えた。

サイレンの音は、どこにも触れない。

触れないものは、美しい。

美しさは、記憶の一番上に置かれる。

一番上にあるものは、すぐに剥がれる。

剥がれたあと、下に何があったのか、誰も見ない。


私は立ち上がり、もう一度だけフェンスのほうを見た。

切れ目には誰もいない。

草の倒れ方が、先ほどと少し違って見えた。

違って見える、という事実は、何の役にも立たない。

役に立たないものだけが、真実に近い。

人は、役に立つものしか信じない。

信じられたものは、早く消える。


帰りのバスは、少し遅れた。

車内の照明は弱く、窓ガラスの向こうで湖が黒くなっていく。

私の座席の前の金属のポールには、爪の跡のような細い傷が一本ついていた。

人間は、移動の間に、自分の形をどこかに残したがる。

残した形が、次に来る誰かの指に触れる。

指は、記憶の温度を持っていない。

温度を持たない記憶は、確かだ。


水底の色は、夕日の赤とは違う。

それは沈んでなお息をしている色だ。

沈むものは、少しだけ膨らむ。

膨らむと、音が変わる。

変わった音だけが、私の耳に残る。


……あんたも、あの色を見たらきっと好きになる。沈む瞬間が、いちばんきれいだから。

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