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守満《もりみつ》に、命じられるまま、常春《つねはる》は、北の対屋《ついや》を出て、正門へ続く渡り廊下──、中殿《なかどの》を歩み、東の中門《ちゅうもん》へと、出た。
事実上の正面入り口と言えるそこには、牛車《くるま》の牛や、車を休める車宿《くるまやどり》の棟があり、いつ何時でも、正門から、牛車《くるま》で、出かけられる仕組みになっている。
そして、その棟の前に、屋敷の警護司る随人《ずいじん》の詰所である、侍所《さむらいところ》と、家令《しつじ》や、その補佐である、家司《かじ》の詰所が連なる。
こうして、屋敷の入り口は、しっかり守られている訳なのだが、今は、これが、曲者《くせもの》なのだ。
屋敷を取り仕切る、家令は、確実に、裏切っている。琵琶法師一行と、荷受け場に現れたのだから。事もあろうに、秋時を立てて──。
この屋敷は、どこまで、蝕まれているのだろう。今まで、何故、気が付かなかったのだろうかと、罪の意識に苛まれる常春の耳が、モオーと、大きく鳴く牛の声と、うわあぁと、叫ぶダミ声を捕らえた。
「……髭モジャ殿?!」
西門にいるはずの髭モジャの声が、正門方向から流れて来る。そして、やんややんやと、はやしたてる野次馬の声。
「また、何を企んでいるのか……」
常春が、呟いている頃、正門の前では、牛の若、に、隠れるようにして、髭モジャが、小さくなっていた。
「お前様!何をしておるのです!牛の影に隠れたりして!ちゃんと、私の前へ出てらっしゃいませ!」
そうだそうだと、野次馬が囃し立てる。
「あー、す、すまん!女房殿!と、いうか、何故に、ワシが怒鳴られているのか、良くわからんのじゃが、と、とにかく、この通りじゃ!!」
髭モジャは、大袈裟に、両手を合わせると、地べたに座り込み、頭を下げた。
勢い、髭モジャの両袖が、揺れ、
相手をしている、橘の、顔つきが、一瞬、変わった。
「お前様!なんですか!その、香りわっ!」
「へっ?!」
「女の、臭いが、袖からプンプンしますよ!」
「いや、女房殿、牛の臭いなら、わかるんじゃが、女とは、何の事じゃろうか!?」
「あー!しらばっくれて!!紗奈《さな》の事を知らぬとでも?!」
「えっ、あっ?それは、じゃ……」
おおおーー!と、野次馬が、どよめく。
「紗奈!お前も、なんですか!人の恩も忘れ、よりにもよって、私の夫を奪うとわっ!!!」
橘が、紗奈に掴みかからん勢いで、近づいて行く。
「え、あ、えーと、それは!髭モジャが!!髭モジャが、一緒になろうって!」
「はあ?!紗奈、この場に及んで、お前はっ!!」
いや、これはまた……。
常春は、繰り広げられている、修羅場に、声が出ない。
きっと、橘の、芝居なのだろうけれど……、その勢いは、真に迫っており、さて、本当に、芝居なのかどうか、そして、野次馬の盛り上がりの尋常のなさも加わり、場は、騒然としている。
その騒ぎに、若、が、反応してしまい、先程より、モオーモオー鳴いているという、二重の、大事に襲われていた。
さて、自分は、どう動けば良いのやら。と、固まる常春と、紗奈の目が合った。
「あ、兄様!!」
紗奈の一声で、橘が、常春をキッと睨み付けて来た。
「常春様!妹の始末、どうなさるおつもりで!!!」
え?!
なんで?!
私まで?!
「さ、紗奈!!お前、なぜ、橘様を怒らせた!」
「え、そ、それは、髭モジャと、駆け落ちする事になって……」
お前様っ!!!と、都大路に、橘の叫びが響き渡り、なんだなんだと、野次馬が、一層集まって来た。
「おーい!紗奈ちゃんが、髭モジャと、駆け落ちするってよぉーーー!!!」
と、また、余計な事を言う輩が現れて、屋敷の正門前は、収集が付かない状態になってしまった。
「やっぱり、お前様は、若い女が、良いのですね。しかも、紗奈だなんて!!」
橘は、よよよ、と、袖口を目尻にあてて、涙する。
「いや、そんなことはないぞ!ワシは、女房殿、一筋じゃ!」
言って、またもや、大袈裟に両手を降って、あたふたした。その度、髭モジャの袖は、大きく揺れた。
「あっ」
常春は、気が付く。
髭モジャの袖の裏側に、橘が、張り付けた、人形《ひとがた》の札が、無いことに。
「それで、返事がなかったのか……」
「ご名答。って、それが、分かるって事は、常春様で、よろしいのですな?」
どこか、聞き覚えのある声の持ち主が、いつの間にか、常春の隣に立っていた。