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アドラル皇国
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1,373
#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
2,231
「グユグの口車などに乗るべきではなかったわ!」
帰還命令を受けたもう一人の皇子、バイダルは、苛立たしげに床を踏みつけた。
「まだ、何らかの処罰が決まったわけではございません」
近習がなだめるように言う。
だが、バイダルは険しい顔で振り返った。
「お前たちは、大カーンの恐ろしさを知らぬ」
「……は」
「あの温厚な大カーンが、ひとたび怒れば手がつけられぬのだ」
バイダルは忌々しげに舌打ちした。
「せっかくエスカリオ軍を壊滅させ、あれほどの戦功を立てたというのに……」
そこで、不意に言葉を止めた。
何かを思い出したように、眉を寄せる。
「そうだ」
近習を見る。
「敵王カルドは見つかったのか」
「いえ」
近習は首を振った。
「兵を出して周辺を捜索しておりますが、いまだ行方は知れませぬ」
「ちっ……」
バイダルが再び舌打ちした、そのときだった。
天幕の外が急に騒がしくなった。
「申し上げます!」
一人の兵が、息を切らして飛び込んでくる。
「何事だ!」
「何者かが城内へ侵入いたしました!」
「侵入者だと?」
「はっ!」
兵は顔を青ざめさせながら続けた。
「例の王子の首を奪い――」
一瞬、言葉を詰まらせる。
「ただいま、城外へ逃走しております!」
バイダルの目が見開かれた。
「……なんじゃと?」
次の瞬間。
「追え!」
怒声が天幕を揺らした。
「何をしておる!」
バイダルは卓を蹴り飛ばした。
「騎兵を出せ!」
「生かして逃がすな!」
そして、ふと思い直したように叫ぶ。
「いや――待て!」
兵たちが足を止める。
バイダルの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「殺すな」
「……は?」
「必ず、生け捕りにせよ」
奪われた首。
消えたカルド。
バイダルの脳裏で、その二つが結びついた。
「誰が取り返しに来たのか――」
低く笑う。
「本人の口から聞いてやろうではないか」
ククルースは、リチャードの首を奪い返し、
部下が保管されていた胴体も回収すると
そのまま城を脱出した。
従うのは、わずか二百騎。
長年、カルドと共に戦ってきた傭兵たちだった。
一行は城の西方にあるカワゴル砦へ入り、その門を固く閉ざした。
小さな砦だった。
城壁は低く、兵も少ない。
とても大軍を防げるような場所ではない。
それでも、ククルースはそこに立て籠もった。
エスカリオ本国へ救援を求める使者を放つ。
だが――。
本当に救援が間に合うとは、思っていなかった。
ククルースは城壁の上から、遠く東の空を眺めた。
「まあ……」
ぽつりと呟く。
「あっしらの死に場所としちゃ、悪くねえか」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
ほどなくして、バイダルも事態を把握した。
王子の亡骸を奪った者たちが、カワゴル砦へ逃げ込んだ。
報告を聞いたバイダルは激怒した。
数千の兵をただちに差し向け、砦を包囲させる。
さらに投石器。
破城槌。
梯子。
小さな砦を攻めるには過剰とも思えるほどの攻城兵器まで準備させた。
バイダルにとって、もはや単なる遺体の奪還ではなかった。
自らの戦功に泥を塗られたのだ。
しかも。
大カーンから帰還を命じられた、この最悪の時に。
「一人も逃がすな」
バイダルは命じた。
「砦ごと潰せ」
その頃――。
カルドは、海岸までたどり着いていた。
いつから歩いていたのか。
どこを通ってきたのか。
自分でも覚えていなかった。
ただ気がつけば、目の前には海があった。
波が寄せては返している。
その音だけが、何度も何度も繰り返されていた。
カルドは海岸沿いをしばらく歩き、岩陰に小さな洞窟を見つけた。
中へ入る。
そして、そのまま地面へ身体を横たえた。
冷たい岩の感触が背中に伝わる。
疲れているはずだった。
眠ってしまいたかった。
何も考えたくなかった。
カルドは目を閉じた。
だが――。
瞼の裏に浮かんだのは。
槍の先だった。
その先に掲げられた、
息子の首。
カルドは目を開いた。
暗い洞窟の天井が見えた。
もう一度、目を閉じる。
また。
リチャードがいる。
血に濡れた顔。
閉じた瞼。
風に揺れる髪。
槍に掲げられた、息子。
カルドは再び目を開けた。
しばらく、何もせず天井を見つめていた。
涙は出なかった。
怒りも湧かなかった。
ただ。
何もなかった。
胸の中にあるはずの何かが、
すべて抜け落ちてしまったようだった。
彼の心は――。
壊れてしまったのかもしれない。
足音がした。
砂を踏む、かすかな音。
カルドは動かなかった。
やがて、洞窟の入口に一人の男が立った。
汚れた緑のコート。
泥と血にまみれ、長い逃走で顔はひどくやつれている。
レグザの戦場から脱出したロビンだった。
「……王様?」
カルドがゆっくりと顔を向けた。
ロビンは息を吐いた。
「ようやく会えました」
カルドはしばらく、その顔を眺めていた。
「お前は……誰じゃ」
ロビンがわずかに目を見開く。
「ロビンです」
少し間を置いて付け加えた。
「ノッテンガムの」
「ああ……」
カルドは天井へ視線を戻した。
「あの弓の坊主か」
「探しました」
「探す?」
カルドは乾いた声で笑った。
「何のために」
ロビンは答えた。
「リチャード様の最期の言葉を届けるために」
カルドの目が動いた。
「……リチャードの言葉?」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、父親の顔が戻った。
だが、すぐに消えた。
「ふっ……もういい」
カルドは目を閉じた。
「リチャードは死んだ」
ロビンは黙っている。
「死人の言葉を聞いたところで、何になる」
「リチャード様は――」
ロビンは言った。
「私に、仇を討てと言いました」
カルドの瞼が開いた。
「……仇?」
「はい」
ロビンはまっすぐカルドを見た。
「かつて、あなたがそうしたように、と」
カルドの顔から、わずかに表情が消えた。
「儂が……?」
「そう言われました」
静寂。
洞窟の外から波の音だけが聞こえる。
寄せて。
返す。
何度も。
何度も。
カルドは、遠い昔を見るように目を細めた。
仇。
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
かつて。
まだ自分が若かった頃。
「儂を貧民街からすくってくれた恩人は」
「いわれなき罪を擦り付けられ」
「陰謀の果てに戦場の露と消えた」
「裸にされ馬の背に括り付けられ見世物にされた」
「儂はその陰謀をめぐらした者たちを」
「一人残らず葬った」
「儂はその後、初めて生まれた自分の子に」
「大恩ある人の名をつけた」
「リチャードと」
「……そうだったな」
カルドが呟いた。
ロビンは何も言わない。
「儂は、やったな」
ゆっくりと上体を起こす。
「仇討ちを」
カルドは自分の手を見つめた。
皺の増えた手。
多くの剣を握り。
多くの血を流してきた手。
「復讐など空しいだけだ」
ぽつりと言った。
ロビンが黙って聞いている。
「そうしたり顔で言う奴もいる」
カルドは口元を歪めた。
まだ笑みとは呼べない。
海の音が響く。
カルドは立ち上がった。
足元がわずかによろめく。
それでも立った。
「だが――」
顔を上げる。
死んでいた目に。
ほんのわずか。
光が戻っていた。
「儂は忘れていた」
ロビンを見る。
カルドの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「復讐は美しい」
「さあ、ロビンとやら、行こうか」
その顔に。
失われていた精気が戻った。
ロビンは、しばらく何も言えなかった。
そこにいたのはもう、
海辺で死を待つ老人ではなかった。
エスカリオ商王。
カルドそのひとだった。
コメント
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いやあ、泣かせに来ましたね、この第32話……。リチャードの首が槍に掲げられた光景が何度もフラッシュバックする演出、カルドの心が完全に壊れる様子が生々しくて読み手の胸も締め付けられました。そこからの「復讐は美しい」。あの干からびた老人が再びエスカリオ商王として立ち上がる瞬間、鳥肌立ちましたよ。ロビンが「かつてあなたがしたように」と伝えた意味が、カルドの独白で過去の因縁とともに一気に繋がる構成、美しすぎます。この静と動の切り替え、痺れました!