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夜明け前の空は、まだ青にも染まらない。
黒く沈むその世界の中、通気管を這い進む音だけが、静かに響いていた。
「狭……っ。これ絶対、人体に悪影響ありますって……」
栞は腹ばいのまま、懐中ライトを頼りに、旧施設の排気口を進んでいた。
横幅ギリギリ。天井には錆びた鉄粉。膝と肘はもう真っ赤だ。
「栞、聞こえるか」
「聞こえてます……! こんなとこで返事しないといけないとは思ってませんでしたけど!」
インカムの向こう、翠の声が平然と響く。
「そのまま10メートル進め。右にカメラ。次に赤外線センサー。タイミングは3秒。絶対に引っかかるな」
「……わかってますよ、もう……!」
そう言いつつ、内心ではずっと恐怖と隣り合わせだった。
仮に今、倒壊でもしたら──発砲でもされたら──助けも呼べず死ぬ。
そんな危険の中で、進み続ける理由は一つだった。
(……“信じられる声”があるから)
冷たくて、意地悪で、でも。
ずっと聞こえる“翠の声”が、心臓の鼓動を落ち着かせてくれる。
***
施設内の配電室にたどり着いた時、栞は自分の手が震えていることに気づいた。
(怖くないわけない)
誰かに見られていたらどうしよう。
銃を向けられたら、撃ち返せるかもわからない。
でも、その手をとるように、再び彼の声が届いた。
「栞、5秒以内に映像を送れ。俺が外からデータ抜く」
「……了解」
呼吸を整え、端末を起動する。
送信、同期、接続──。
だが、その瞬間。
「誰だ……!」
鋭い声。
物音。足音──近い!
「バレた!? うそ、なんで──!?」
栞は慌てて通路へ戻ろうとする。
しかし足元にトラップがあり、バランスを崩して倒れた。
「くそっ……!」
「栞! 状況を説明しろ!」
「ダメ、もうすぐ来る、逃げきれな──」
その時だった。
インカムから、翠の叫ぶような指示が飛ぶ。
「左の通路に“非常口”がある! そこまでダッシュしろ、今すぐ!!」
その言葉を信じて、体を引きずるようにして立ち上がった。
全身から汗が噴き出る。
喉が焼けつく。
銃声が鳴る──!
「ああああっ!」
弾丸が背後をかすめる。
けれど、次の瞬間。
──パァン。
空気を裂いた銃声が、別方向から飛んだ。
敵の腕に命中。男は絶叫し、武器を落とす。
そしてそこに──彼がいた。
「……翠、さん……っ!」
「何度言えばわかる。状況報告は正確に。勝手に行動するな」
いつものように冷静な声だった。
けれど、その表情は、ほんの少しだけ乱れていた。
「お前、死にかけてんだぞ」
「……っ、ご、ごめんなさい……」
涙が滲む。
怖かった。
本当に死ぬと思った。
それでも、来てくれた。
「……遅れてすみません」
「……バカ」
そのひとことに、全てがこみ上げた。
***
数時間後。
任務はなんとか成功。
データは無事、組織に回収された。
だが、栞の命を狙っていた男は、“組織側の人間”だった。
情報漏洩を隠すため、証人を消そうとしていた。
つまり──
組織は、栞の命を完全には守っていない。
「……ねえ、翠さん」
「なんだ」
「私たち、もう……組織を完全には信じられないかもしれないですね」
「……そうだな」
「それでも、あなたとなら……私は、まだ戦えます」
「共犯者ってのは、そういうもんだ」
栞が不思議そうな顔を向けると、翠はフッと笑った。
「一度、命を預けたら、もう“バディ”じゃねぇ。“共犯”だ」
「……それ、犯罪者みたいな言い方ですね」
「殺し屋なんてそんなもんだろ」
だけどその“共犯”という言葉が、なぜか栞の胸をじんと温めた。
信じられるものが少ないこの世界で。
たったひとり、“背中を預けられる人”がいる。
それがどんなに特別で、貴重なことか──
この日、ようやく気づいたのだった。