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第3話:部屋の向こうで
その日も、私は同じ時間に祖父の家へ向かった。
西陽の角度がぴたりと決まる頃、物置の空気は少しあたたかくなる。
本を開くと、きのうまでの文字のつづきが書き足されていた。
「きょうも きみは おおきなこえで わらった」
その一文を目で追った瞬間、胸の奥にじんわりとひびいた。
私は笑っていた——たしかにそうだったと思う。
けれどその“きみ”という呼びかけが、まるで第三者の視点のようで、妙な距離を感じさせた。
ページをめくると、さらに文字が続く。
「だけど あのひとが ふすまをあけたとたん」
「きみのこえは すぐに しずかになった」
一瞬、空気が凍ったような錯覚がした。
“あのひと”——誰のことか、わかっていた。
祖母だ。
祖母は、いつも口をきつく結んでいた。
ぴしっと揃った灰色の髪、しわ一つない和服、足音のしない歩き方。
口調はいつも低くて冷たく、何かがずれていたり、散らかっていたりすると、すぐに注意が飛んできた。
私は祖母の前では、自然と声を抑えるようになっていた。
けれど、それを“誰かが見ていた”と知ったのは、はじめてだった。
物置の壁に、ふすまの音がかすかに反響したような気がした。
*
本の次のページには、短くこう書かれていた。
「わたしは なんども そのけしきを みた」
“わたし”が、私ではない。
ページの語り手は——祖父だ。
祖父の姿を思い浮かべる。
背はやや低めで、肩幅が広く、いつも少し猫背で歩いていた。
白髪混じりの髪はぼさぼさで、よく耳の後ろをかいていた。
部屋の隅で静かに座って、新聞をめくるふりをしながら、私たち家族を見ていた。
その姿がふいに思い出された。
そして、その視線の奥には、祖母への言葉にならない「おそれ」があったのかもしれない。
*
夕暮れの帰り道、ふと後ろを振り返ると、物置の窓に何かが反射していた。
私の姿ではない。背の高い人影が、壁に沿って立っていたように見えた。
風もないのに、木の葉が音を立てて揺れた。
その夜、私は夢の中で、ふすま越しに誰かの影を見た。
閉めきった部屋の向こうから、じっとこちらを見つめていたような——そんな気がした。
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