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ヴァルドレイダド邸へ戻ると、
玄関扉が開く前に
足音が迎えた。
軽やかで
希望の匂いがするような足取り。
「ルシアン、おかえりなさい――」
その声は
次の瞬間、
ぱっと華やいだ。
「まあ!!
なんてかわいらしいお嬢さん……!」
現れたのは
淡い金髪に、柔らかく微笑む女性。
セリーヌ。
ルシアンの姉であり、
誰よりも優しい光。
泥にまみれた少女を見ても
嫌悪ではなく
心配の色だけを浮かべた。
「どうしましょう……
こんなに汚れて……!」
言うが早いか、
セリーヌはメイドに声をかける。
「すぐにお湯を用意して。
この子を綺麗にしてあげて。
柔らかい服もお願いね」
手際よく指示を出しながら
小柄な少女へと歩み寄る。
少女――イチは
視線を伏せたまま
ぴくりとも動かない。
「大丈夫よ」
セリーヌは
そっと手を取った。
驚くほど細い腕。
冷えきった指先。
握れば
折れてしまいそうなほど弱い。
「寒かったでしょう。
すぐに温かくしてあげるから」
イチは
何も言わず
ただ引かれるまま
歩き始めた。
ルシアンは
その背を見守るだけだった。
―――
少女が浴室へ連れられていったあと、
セリーヌはふと
置かれた古びた服に目を留める。
「これ……洗ってあげなくちゃ」
汚れがひどく、
泥と血の痕が
袖口にこびりついていた。
(怪我……血……?
誰のもの……?)
洗い桶へ入れようとしたとき、
襟元のほつれた布が目に入る。
――そこには
幼い字で
イチ
と書かれていた。
「……イチ……?」
名前だろうか。
呼び名だろうか。
少し首を傾げ、
そっとその文字を撫でる。
(誰が書いたのかしら……
自分で?
それとも……)
胸に小さな引っかかりが残る。
―――
入浴を終えたイチは、
ふわりと清潔な白いワンピースに包まれ
戻ってきた。
髪は梳かれ、
あたたかな香りが漂う。
けれど
その瞳に
生気はない。
「まあ、本当にかわいいわ……!」
セリーヌは
思わず笑みを深める。
その笑顔は
部屋を一瞬で明るくした。
「ねえ、イチっていうの?
――あ、服に書いてあったの。
違ってたらごめんなさいね」
イチは
小さくまばたきをしただけだった。
「どこから来たの?
お家には誰がいるの?
お腹はすいてない?」
質問が
ぽつぽつと続く。
返事は
どれも返らない。
けれど
セリーヌは
ひるまない。
「そっか。
……じゃあ、ゆっくりでいいからね」
言葉が戻らなくても
表情がなくても
子どもに向ける温かさは
揺らがなかった。
「お部屋、用意してあるの。
安心して休んでね」
セリーヌは
イチの手を包みながら
穏やかに笑う。
その柔らかい声は
遠いところで
水面を撫でるように
静かに沈んでいく。
イチは
相変わらず何も言わない。
でも
セリーヌは
それを責めない。
「話したくなったら、でいいの。
今はただ、ここにいればいいわ」
その言葉は
イチには届いたのか
届かなかったのか――
それは
まだ誰にもわからない。
―――
廊下の先。
ルシアンとエリアスは
静かにその様子を見ていた。
エリアスは
小さく息を吐き、
「……話せないのか」
と
ひとつ呟いた。
ルシアンは
答えず
ただ
イチの背中を見つめていた。
その背の
どこにも感情がないことが
痛いほど
よくわかっていたから。