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「いつも言っているが、君が妻の務めをやる必要はないんだ。俺は君を束縛してしまった。だからその見返りに、君は好きなようにやっていいんだ」
「はい、だから好きにやっているんです」
あっけらかんと返して、美良は俺を真っ直ぐに見つめた。
「なにかをしてあげて相手が喜ぶ顔を見ると嬉しくなりませんか? 心がほっと温かくなったり、うれしくて胸が弾んだりしませんか。私はそれだけでいいんです。あえて言うなら、それが見返りです」
「……」
「私は聡一朗さんにとても恩義を感じています。だから、聡一朗さんに喜んでもらえたら、十分幸せなんです」
そうにっこりと笑う彼女だったが、はっと顔を真っ赤にさせて急にしどろもどろになった。
「あっ、でも、私の作ったご飯が聡一朗さんのお口に合わなければ、かえって迷惑になってしまいますよね。もしかして、私の料理って美味しくないですか? だから食事はいらないだなん――」
「いやそんなことはない」
俺は思わずかぶりを振っていた。
「君の作る料理はとても美味しいよ。今朝のベーグルも、とても美味しかった……」
「わぁ、食べてくださったんですね」
彼女の顔がぱっと愛らしく輝いた。
「よかった! じゃあまたお作りしてもいいですか?」
「あ、ああ……」
つい勢いに飲まれてうなずいてしまう。
「じゃあ次はどんなのを作ろうかな」と、うきうきし始めた美良を見て、つい口元が緩んでしまう自分にはっとなる。
これは一筋縄ではいかないな……。
彼女から嫌われることで都合よく逃げようなどと、そんな卑怯なやり方は、とうてい叶いそうにない。
※
それから数日経った。
今夜は遅くに帰宅した。
特別、用事があったわけではない。早めに帰れたが、美良と二人きりになりたくなかった。
結局、食事についての連絡はきちんとするようにした。
彼女は食事を余計に作るくらいで怒る女性ではないのだ。
美良に嫌われることが難しいなら、もういっそ接点を少なくしていくしかなかった。
リビングからは灯りが漏れていた。
まだ起きているのか、と扉を開けると、美良はソファで眠っていた。
背もたれに身体を預けたままで、膝にはテキストが乗り、力尽きたように投げ出された手からはペンが零れている。
起こしてきちんとベッドに眠らせようとかと迷っていると、ふとパンのいい香りがすることに気付いた。
ダイニングテーブルを見やると、バスケットにベーグルが入っていて、そばにメモがあった。
『レンジでチンすれば美味しいですよ。これも自信作!』
メモを置いたものの、直接俺に伝えたいと思って待っていたのだろう。
胸が痛む。
罪悪感と、たまらなく愛おしいと思う、甘い疼き――。
微かに身動ぎする音が聞こえて振り向くと、美良がソファに横になって寝息を立てていた。
体勢が変わっても一向に目を覚まさない。疲れているのだろう。
少し口が開いているあどけない寝顔に、思わず口元が緩む。
このままでは身体が冷えてしまう。
起こすのもかわいそうだ。このままベッドまで運んでやろう。
羽織っていたスーツの上着を脱いで美良にかけてやり、そっと抱き上げた。
腕全体に伝わってくる彼女のぬくもり。
軽いながらも、しっかりと感じる重み。
手に入れた、愛おしい存在。
俺は、いったいなにをやっているのだろう。
そばにいて欲しくて束縛した。
なのに距離を取りたいと、必死になっているなんて。
いっそ別れてしまった方がいいのでは、とも思ったが、それだけは嫌だった。
距離をあけて、束縛しておきたい?
わがままどころでない。愚かだ。
俺の喜ぶ顔を見るのが見返り――美良はそうとまで言ってくれた。
そんな美しい心を持つ彼女に報いるものが、愛以外になにがあるのだろう。
許されるのなら、彼女が溺れるくらいに愛をそそぐのに――。
美良の部屋のベッドに、抱きかかえたままそっと寝かせる。
離れようとして、シャツが引っ張られていることに気付いた。
美良の手が、いつのまにかそれをつかんでいた。
彼女のあどけない寝顔が、息もかかるほどに近くにある――。
気付けば、キスしていた。
甘い香りと、ベーグルのいい匂い。
理性を奮い立たせて唇を離すものの、突き動かされるようにもう一度押し当ててしまう。
愛してしまいたい。
美良のなにもかもを、存分に愛してしまいたい――。
「う……ん」
美良が微かに眉根を寄せたのを見て、振り切るように唇を離した。
飢えた動物のように、息が上がっていた。
美良はまた健やかな寝息を立て始める。
最後にもう一度だけその果実のように濡れた唇を啄むと、シャツを握る彼女の手を握り、身を離した。
そして、丹念に守るようにブランケットを掛けて、部屋を出て行った。