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トトトという軽い足音で近付いて来たかと思うと、布団の隙間に小さい頭をグイグイとねじ込んでくる。ゴロゴロ喉を鳴らして、猫は飼い主の身体と布団の間の小さな空間に二度寝する為の場所を確保しようとしていた。
外の空気に触れていた毛皮はひんやりと冷たくなっていて、ぴたりと密着された方は完全に目が覚めてしまう。
葉月が寝ている内にベッドから抜け出し、くーが他の誰かからご飯を貰ってまた戻ってくるなんて、随分と久しぶりのことだ。父親の海外勤務を機に親と離れて暮らすようになってからは猫のご飯係は他にいなかったし、くーも目が覚めたらまず葉月を起こすのが当たり前になっていた。家族が揃っていた頃には、先に起きていた誰かにご飯の催促をして、満腹になれば戻って来て今のように一緒に二度寝していたことを思い出す。
「マーサさんにご飯貰ってきたの?」
冷えた毛を温めるよう撫でると、喉を鳴らして頭を擦りつけるよう押し付けてくる。
――お母さん達、私が居なくなったこと、もう気付いてるよね……。
父の赴任先に母も付いて行った後、ほぼ毎日あった連絡が急に途絶えたら心配するだろう。もしかしたら、もう家に確認に帰って来ているかもしれない。
夜中だったから、ガスも電気も点けっ放しにはなってない。戸締りもきちんとしてたし、部屋もそれなりに片づけてある。財布もスマホも置いたままだし、靴も玄関にある。
――この状況は、普通に考えて事件っていうよりか、ミステリーだよね。神隠し的な。学校は無断欠席になっちゃうなぁ。無断欠席って続くと退学になるのかな……。
戻りたいけど、帰ったら帰ったで何だか大変なことになっていそうだと、頭を抱える。
完全に目も冴えてしまったし、下からは朝食らしき美味しい匂いも漂ってくるしと、葉月はそっとベッドから出る。くーはそのまま寝続けるみたいなので、苦しくならないよう布団をふんわりとかけ直す。
一度大きく伸びをして、ベッド横の窓を少しだけ開く。森の騒めきと共に、男のご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
「?」
首を伸ばして外を覗けば、壊れて倒れかけていた柵を修理している色黒の老人の姿が目に入る。とても慣れた手際に、昨晩にマーサが言って熟練の庭師だということはすぐに分かった。
「おはようございます」
「あら。おはよう」
一階に降りると、珍しくベルが先にテーブルに付いて朝食を取っていた。勧められるままに席へつくと、すぐさまマーサが葉月の分の給仕も始める。
「あ、ありがとうございます……」
一般庶民の葉月にはイマイチ慣れないお嬢様待遇。正直言って、落ち着かない。
しかも、つい数日前まではただのゴミ屋敷だったのに、ここ……。
葉月なりにお掃除したりして片付け、随分とマシにはなったと思っていたけれど、さすがにプロの仕事は完璧だ。たった一晩で見違えるほどに磨き上げられたフロア。まだ置き場所が見つからずに隅に積み上げられたままだった荷物も全て片付けられ、本来の広いホールの姿を現している。
これまでは街から取り寄せたパンを温め直したのと、前日の残り物のスープだけだった朝食も、朝から焼き上げた手ごねパンに、作りたてのスープと野菜をふんだんに使った総菜。
領主の別邸という場所柄と、領主の姪という立場から、ベルにとってはこちらの方が本来の状況なのだろうが、ゴミ屋敷だった時も平然と生活していた逞しさに唖然とする。
「アナベルお嬢様。そのお召し物はいかがなものかと……」
いくら館が磨き上げられても、自室がゴミ部屋もとい使用人部屋から二階の主寝室へ移動させられても、ベルの装いに大きな変化はない。着古された真っ黒なロングワンピは相変わらずくったりとしている。
「あら。これから調薬するつもりだから、これが丁度良いのよ」
気難しい表情で身なりを指摘するマーサに、しれっと答える。確かに、汚れる可能性の多い調薬作業に黒い服は適しているのかもしれないが、そんなヨレた物を平気で着られては世話係の立場がない。
「ですが……」
「終わったら、ちゃんと着替えるわ」
反抗すればさらに小言が増えるのは分かっている。ベルもすぐに引き下がる。マーサが来る前は一日中同じ服のままで過ごしていたのを知っているだけに、葉月は吹き出しそうになるを堪えた。
「後ほど、クローゼットも確認させていただきますわね」
きっぱりとしたマーサの宣言に、森の魔女はげんなりと肩を落としている。気慣れた服が片っ端から処分されていくのが目に見えていた。すでに新しい寝室のクローゼットには見覚えのない洋服がいくつも追加されているのには気付いている。昨夕に本邸から持ち込まれた荷物に含まれていたのだろう。
諦めたように溜め息を一つ吐いてから、食後にと出されたお茶を口にする。世話係の淹れてくれたお茶も珍しくて嫌いではないけれど、たまにはの見慣れた薬草茶が欲しくなる。
作業部屋にポットを持ち込んでみようかしら? あそこならマーサも滅多に来ないし。
いい考えだわ、とベルは内心でほくそ笑んだ。
そして「あ、そうだわ」と思い出したように葉月に向かって提案してみる。ここ最近の少女の様子を見ていて思っていたことだ。
「葉月も薬、作ってみないかしら?」
魔力も安定しているようだし、簡単な生活魔法なら使えるようになっている。マーサ達が来てしまったから葉月もきっと手持ち無沙汰になっているはずで、丁度いい。
まだまだ納品待ちの薬瓶は大量にあるし、手伝って貰えるとありがたい。間違いなく、こちらが本音だ。